あこがれていた言葉
軽快に飛び去っていく、鳥の甲高い鳴声が聞こえてくる。
意識ははっきりしていなくても、まぶたの向こうに眩しいほどの太陽の輝きを感じることができる。「ふぁ……」
明るい日差しから顔を背けるように寝返りを打つと、どこか懐かしい匂いがした。
このシトラスの香りは、セリーヌのお母さんの使っている香水だ。「アシュトンさん、お目覚めかしら」
「あ、はい」
眠い目をこすりながら身体を起こすと、まだ馴染めない部屋の装飾が目に入ってきた。
殺風景な洞窟をねぐらにしていた僕には、白い壁やそこに掛けられている絵画さえ眩しすぎる。「ごめんなさいね。いきなり帰ってくるものだから」
「いえ。セリーヌさんも突然思いついたようですし」
「朝食の仕度はできていますよ」
部屋の窓を開けて、ラベさんが部屋を出ていった。
流れ込んでくる風は、まるで森の中にいるようだ。マーズ村は森に囲まれた村だけど、街道からさほど離れているわけじゃない。
村の中心部には人通りも多いし、行商人だって毎日のようにやってくる。それでも家のすぐ裏が森に繋がっているセリーヌの家は、本当に朝が心地よい。
こんなところで育ったわりに、セリーヌの性格は穏やかってほどじゃないのが謎だ。「さ、早く行かないと怒られるし」
僕は手早く身支度を整えると、家の人が集まる居間へと向かった。
居間に行くと、既にセリーヌのお父さんは姿が見えなかった。
ここに滞在する回数は増えてきても、お父さんに会ったことはほんの数回だ。「遅いですわよ」
「ごめん」
「お母様、もう食べてもよろしいかしら」
「えぇ、どうぞ」
どうやら、僕が起きてくるのを待っていてくれたみたいだ。
随分と待たせてしまっていたのか、いつもより早いペースでセリーヌが食事を平らげていく。まぁ、優しいところもあるんだよね。
厳しい言動に秘められた優しさって言うのかな。「アシュトン、早く食べてしまいなさい。今日の昼過ぎには出発しますわよ」
「え……もう行くの」
昨日の晩に着いて、今日の昼過ぎに出るなんて。
もしかして、冗談交じりに言ってたように、ただ宿代をケチりたかっただけなのかな。「あら、早いのね」
「長居をしては、面倒なことを押し付けられるかもしれませんもの」
「随分と察しのいい娘だこと」
「オホホ。だてにトレジャーハンターをしているわけではありませんわ」
だけど、わざとらしく胸をそらせたセリーヌよりも、ラベさんは一枚上手だった。
高笑いをしてみせるセリーヌの前に、ラベさんが大量の紙の束を積み上げる。「オホホ。だてに貴女の母親をしてませんわ」
多分、わざとだ。
外見に似合わず、ラベさんも怖い人だし。現に、セリーヌの笑い方を真似た後で、ラベさんはニヤリと笑った。
「セリーヌ、今日という今日は逃がしません」
「やれやれ、残念ですこと」
「由緒正しきジュレス家の娘が、いつまでたってもフラフラと」
「では、そこの男で手を打ちませんこと」
そう言って、セリーヌは自信たっぷりな顔で向かいに座っている僕を指した。
ラベさんの視線が、恐ろしいほどに僕を突き刺してくる。「この魔物憑きに惚れたとでも言うつもりなのかしら、我が娘は」
「その娘が本気だと言ったら」
「全力で阻止すると母が問えば」
あの……当人の預かり知らぬところで話が進んでる気がするんですけど。
それにしても、口許だけが笑ってるセリーヌの顔って、こんなに怖いんだね。「駆け落ちするまでですわ」
おーい、ちょっと待ってよ。
僕、何も聞いてないんですけど。「なら、仕方ないわね」
「納得するんですかッ」
思わず叫んでいた僕を、母娘が不思議そうな目で見ていた。
「あら、嫌がっているのかしら」
「調教が足りないようですわね」
「調教って何ッ」
不穏な言葉に、どうして無反応なんですか。
ラベさんだけはまともだと思ってたのに。やっぱり、この娘にしてこの母ありだよ。
ラベさんの本性をセリーヌが受け継いじゃったんだ。
もしかして、ラベさんの若い頃ってセリーヌにそっくりだったとか。「でも、残念ね。我が家には婚姻に関する重大な取り決めがあるのよ」
「……お母様、何ですの、その話は」
これはセリーヌも聞いてなかったんだろう。
僕をいたぶるような視線から、何かを考えているときの目付きに変わった。「プロポーズはね、男性からしなくてはならないの」
「アシュトン、今、ここで私への愛を語りなさい」
「そんな無茶な」
いくらなんでも、唐突過ぎるって。
愛してますとか言えばいいのか。それより何より、僕の意思は無視なのか。
そうなのか、そうなのか。「愛してますと言えばいいの」
「ぼ、僕だってね、決めの台詞ぐらいは」
「あるのなら、早く言いなさい」
「ごちそうさまッ」
テーブルを叩きつけるようにして、僕は居間を飛び出していた。
(随分と楽しそうだったな、主よ)
「ギョロは暢気でいいね。僕は疲れたよ」
(あの女のことが嫌いだとは見えぬがな)
「それとこれとは話が別。大体、まだソーサリーグローブの後始末だって……」
あのまま森の中に逃げ込んで、僕は木陰に座りこんでいた。
ウルルンは興味がないのか、ギョロだけが僕に話しかけてくる。(我らのことなら気にせずともよい。そろそろ、主にとり憑くのも飽きてきたからな)
「何だよ、それ。大体、ギョロたちを祓うには殺さなきゃダメなんだろう」
(まぁ、そうでもない)
「だって、この前はそれしか方法がないって」
だから、僕はギョロたちを背中に残しているんだし。
ともに戦った仲間だからとか、僕だけの勝手でとか、そういうんじゃない。
今は大切な友達だと思ってるから、僕はギョロに憑かれているんだ。(正直に言えば、主から離れる手段がないわけでもない)
「どういうことさ」
(強力な依り代さえあれば、主から離れることも可能なのだ)
「依り代ね……神社とか」
御神木には実際に神が宿ってるって話も多いしね。
魔族も似たようなものなのかもしれない。でも、僕に神社を建てるお金があるわけでもないし。
どこかの神社に一緒に祀ってもらうとかかな。(我らの本体は、思念体そのものなのだ。しかし、肉体という器がなければひどく消耗してしまう)
だからあの時、魔物にとどめを刺す直前だった僕に憑いたわけか。
そうなると、あの場面にいた四人なら誰でもよかったんじゃないか。「あのとき、そばにいた僕に憑いた理由って」
(主の考えている通りだ。ただし、主の体だけが我らの憑きやすい肉体だった)
「多分、家系だろうね。僕の家は、代々続く紋章剣士の家系だから」
魔法耐性が強いっていうのかな。
魔力を高めるトレーニングをすれば、紋章剣の威力も上がるし。でも、単純に魔力耐性だけならレナやセリーヌの方が上のはずだ。
レナは僕らと人種が違うらしいけど、セリーヌなら条件は僕と変わらない。
むしろ彼女のほうが僕よりも魔力に親しんでいるはずだ。「セリーヌでもよかったんじゃないの」
(女性の身体は面倒なのだ。第一、あの女に憑くなど、疲れそうで困る)
「それで、僕から離れる方法っていうのは」
(よりよい肉体があれば、我らも消耗せずに新しい肉体へ移ることもできる)
「それって、僕以外の誰かに憑くってことだろう。それは嫌だよ」
僕みたいに魔物にとり憑かれても平気な人が、そうそういるわけがない。
いくら相性がいいからって、無理やり憑かせるっていうのも可哀想だし。(だが、主ならば我らに新しい肉体を提供できる)
「僕の肉体をどうするのさ」
(主のではない。主の生まれてくる子供の肉体を我らに捧げてくれればいい)
「捧げるって……それもちょっと」
(言い方を変えれば、我らが主の子供として生まれるのだ)
「そんなことが可能なの」
捧げると言われた直後だけに、信じられないのも仕方ないだろう。
第一、魔物であるギョロたちが、どうやって人間に生まれ変わるというのだろう。(一桁にも満たない成功確率だ。母体の生存も難しいと予想される)
「それじゃ、無理だよ」
(随分と早い否定だな)
それって、僕の妻になる人を犠牲にして僕からギョロたちを離すってことじゃないか。
さすがにそこまでしてギョロたちと離れようとは思わないよ。それに、相手の人が納得してくれるとも限らないし。
もしセリーヌだったら、絶対に納得してくれるわけがない。(まるで、誰が犠牲になるかを考えてしまっているようだが)
「……ギョロ、ひょっとしてからかってるんだろ」
(鈍い主でも、さすがに気付くか)
喉をゴロゴロ鳴らしながら、ギョロが僕を笑った。
何だよ、こっちは真剣に考えてたっていうのにさ。「本当ね……その鈍さはどうにかして欲しいところですわ」
「セリーヌ」
びっくりしたぁ。
まさかすぐ近くにいるなんて。僕が驚いている隙に、セリーヌは僕の隣に来て座った。
腰が浮きかけた僕の腕を取り、彼女はギョロに話しかけていた。「私なら、その奇跡を起こせるのではなくて」
(止めておけ。貴様が母体となっても、成功率はさほど変わらぬ)
「あら、無理と言われた惑星の復活すら成し遂げる私に、不可能はなくてよ」
(だが、主はそうは思っていないようなのだが)
セリーヌを犠牲にするなんて、とんでもない。
それくらいなら、僕は一生ギョロたちと一緒にいたっていい。「具体的に説明してるくらいは構わないのではなくて」
(……受精の瞬間、我らの魔力で生命活動を停止させる。その後、改めて我らの魔力のみで成長させるのだ)
魔力で成長するってことは、母になる人には膨大な魔力が蓄積されるだろう。
それに耐え切るなんてことは、普通の人なら不可能だ。よく、御伽噺で魔物の子とかいう話があるけれど、あれは本当に魔物の子なのかもしれない。
魔力で成長する胎児がいれば、母親が死んでしまう場合がほとんどだろうし。「人格はどうなるのかしら」
(無論、我らのみの意識となる。子供そのものは、生まれた瞬間に死んでいるのだからな)
「それでは、何も恐れることはないのではなくて」
(だが、まともな人間ではないぞ。経験や知識は我らのものなのだからな)
魔物と同等の知識と経験を持った人間なんて、異端以外の何者でもないだろう。
普通に暮らしていく上で、何か不都合が生じることは間違いない。それに、運良く無事に埋めたとしても、母親には膨大な魔力が蓄積されることになる。
並の人間なら、魔力に耐え切れずに崩壊してしまうだろう。「セリーヌ、無理だよ」
「あら、そうかしら。素敵だと思うわ。子育ても苦労しないだろうし」
「そういう次元の問題じゃないって」
そりゃ、ギョロとウルルンを育てる必要なんてないだろう。
人間社会のしきたりを教える程度で十分のはずだし。でも、身寄りのない子を養子にもらうのとは次元が違う。
いくらギョロとウルルンが人間を理解していても、根本的には魔物なんだし。(クックッ……さすがに主を婿にとろうという女の言うことは違う)
(愚かな女だ。だが、それでこそ主に相応しい)
「ちょっと、ウルルンまで何を言ってんだよッ」
「あら、アシュトンよりも貴方たちの方が、ずっと理解しているみたいね」
何なんだよ、理解って。
僕にはさっぱりだよ。(元より、主を逃がすつもりはないのだろう)
「もちろんですわ。これ以上の男は、探すのが面倒くさいですし」
「何、その消極的な理由」
もっと積極的な理由なら嬉しいけど。
それだと、そばにいたのがマシだったからってことじゃないか。(家の掟とやらはどうするつもりだ)
ちゃっかり聞いてたんだね、ウルルンまで。
魔物も最近は、寝たふりすらするようになったんだね。「ここなら二人きりですもの。アシュトンなら、大丈夫ですわよ」
セリーヌの言葉に、僕は少し慌てながら姿勢を整えた。
もちろん、僕だって二人きりならやることはできるさ。不本意だよ。
こうしてセリーヌに背中を押されたことだってね。それに、そんな期待された目で見つめられちゃ、僕に勝ち目はないよ。
「セリーヌ」
「何ですの」
「僕にお帰りなさいって言ってくれないか。これからも、ずっと」
僕としては大真面目な台詞だったのに、セリーヌは吹き出していた。
それでも、年上らしく僕に合わせてくれるところが好きなんだけどね。「飽きるまででいいのなら、ね」
「それって、飽きさせるなってことだよね」
「察しがいいですわね。惚れさせ続けなさい、私を」
「アシュトン、起きろ」
朝の光を浴びながら、赤髪の少年が僕を揺り起こす。
「あぁ、おはよう」
「セリーヌが呼んでいる」
少年の紅い瞳は、僕から受け継いだものでも、彼女から受け継いだものでもない。
何も知らない人は隔世遺伝だろうとか言うけれど、僕と彼女は知っている。
それがかつて、世界を救った一匹の魔物の遺したものだということを。「父さんと母さんって呼ぶように言ってるだろ」
そして彼らが、僕の背中にいたことを。
<了>