夜行性


 シュッ

 

 途切れ途切れに、風を切る音が聞こえてくる。

 旅館の一室で眠っていたセリーヌの耳に、不快ではないが、妙に気になる音が聞こえていた。

 寝返りを打ってみても、その音が消える様子はない。

 虫の羽音かと思って手を振り払ってみても、音は一時的にすら離れることはなかった。

「まったく。誰ですの?」

 物音に目を覚まされ、セリーヌはベッドの上で体を起こした。

 隣で眠っているレナが寝息を立てているところをみると、物音の主は彼女ではないようだ。

 改めて自分のベッドを見回してみても、特に変わった様子はない。

 物音は部屋の中からしたのではなかったようだ。

「クロードが夜這い……て、そんな度胸はないですわね」

 クロードが聞けば怒るに違いないセリフを呟いて、セリーヌはベッドを抜け出した。

 すぐ側の椅子に掛けてあったカーディガンを羽織り、レナが眠っていることを確認する。

 レナの寝息は頬をつつかれても途切れることがなく、セリーヌは静かに部屋を抜け出した。

 廊下の左右を確認しても、人気はない。

「……誰もいないわね」

 ランプの灯も落とされた廊下は、わずかな月の光に浮かび上がっている。

 影の濃淡はごく淡く、窓枠のただ無機質な影が廊下に続いている。

「どういうことかしら」

 物音に起こされたセリーヌは、そう言って首をかしげた。

 しかし、物音を感じることには自信があった。

 トレジャーハンターとして危険に身をさらしていた彼女は、たとえ最近は仲間と一緒に行動しているとは言え、

まだまだ危険に対する五感の反応は衰えていない。

 むしろ、より危険な場所へ行くことによって、研ぎ澄まされているほどである。

「外……かしらね」

 誰もいない廊下に立っていたセリーヌを、冷たさが包み込む。

 その寒さに、目覚めたばかりのセリーヌの体が震えた。

 セリーヌはカーディガンの前をもう一度かき合わせると、ロビーの方へと歩き出した。

 床を叩くセリーヌの靴音が、無機質な廊下に響き始める。

「誰もいないわねぇ」

 ロビーへ歩く途中にも部屋があるのだが、そのどの部屋からも物音はしない。

 廊下の窓の外にこぼれている部屋の光もなく、結局、セリーヌはロビーから部屋へ戻ることになった。

 その途中で、ロビーへ進んでいた時には視界に入らなかった、青年の姿が窓の外に見えた。

 同時に、足を止めたセリーヌに、再び何かが空を切り裂く音が聞こえてくる。

「この音は、アシュトンですわね」

 一本の剣を振る時とは違った、微妙な間が置かれた斬撃の音。

 更にはそのことを証明するかのように、双頭竜を背負う青年の姿が明らかになる。

 セリーヌの聴覚の良さを示すように、月に照らされた二つの光が見事な演技を見せていた。

「こんな夜中に」

 窓を開け、セリーヌが身を窓の外へ運んだ。

 そのまま近付いてくるセリーヌの足音には全く気付かずに、アシュトンは一心不乱に剣を振り続けている。

 すぐ近くでセリーヌに声を掛けられ、ようやくアシュトンはセリーヌの存在に気付いたようだった。

「こんな遅くに、熱心ですわね」

「えッ……セリーヌさん」

 セリーヌに気付き、アシュトンが剣を下ろす。

 セリーヌが汗を拭こうと手を伸ばすが、アシュトンは汗一つかいていなかった。

 しかし、セリーヌの目に映った光の軌道は、決して簡単なものではなかった。

「汗はかいていないようですけど、一応は流された方がよろしくてよ」

 セリーヌの言葉を聞いて、アシュトンが淋し気に笑った。

「……そうだね」

 アシュトンの微笑の意味が分からずに、セリーヌは小さく首をかしげた。

 ただ一言答えるだけに微笑を見せたのは、何故だろうかと。

「アシュトン、貴方……疲れていないんですの?」

「うん。ギョロたちとくっ付いてるせいかな。全然疲れないんだ」

 そう言って、アシュトンは背中から首を突き出している魔族の頭を撫でた。

「日に日に魔力も筋力も上がってる。回復力だって、以前とは比べ物にならないよ」

 いくら見かけは可愛らしくても、双頭竜は魔族である。

 しかも、今までの時代を生き抜いてきた、力を持った魔族なのだ。

 たとえアシュトンと心を交わし合っていても、憑依している限り、何らかの影響が出てもおかしくはない。

「だから、毎晩こうやって自分の感触を確かめていないと、すぐに自分と身体との感覚がずれるんだ」

「アシュトン……」

 セリーヌの声には反応せず、アシュトンは開いた彼自身の手に視線を落とした。

「起きていないと不安なんだ。眠っている間に、身体が消えちゃいそうで」

 セリーヌの腕が、アシュトンを招いた。

 立ったままでいるアシュトンを、自ら包み込むようにしてセリーヌはアシュトンを自分の中へと沈ませた。

「信じてないわけじゃないんだ、ギョロ達を。でも、本当は……」

 アシュトンの上半身を胸で受け止めて、セリーヌの両手が双頭竜を捉える。

「私から、アシュトンを奪わないで下さいな」

 大人しくセリーヌの手に撫でられつつ、双頭竜が小さなうなり声を上げた。

「せっかく手に入れた幸せを力ずくで守れるほど、慣れていませんの」

 アシュトンの腕が、ほんの少しだけセリーヌを引き寄せた。

 背中に食い込む指と薄い寝間着を通して伝わるアシュトンの息吹に、セリーヌの顔が上を向く。

「……この幸せに、私の短い命をひたらせてくださいな」

 

 月光の中で一つになった影を陽光が照らすまで、あと……

 

 

<了>