息吹


 夜も大分過ぎてしまった。
 カウンターにいるのも、もう私一人だけだ。

 さっきまではラティたちもいたんだけど、さすがに未成年を付き合わすわけにもいかない。
 そして何より、彼らはまだまだアルコールに対して未成熟だった。

「……ようやく、ミリーも落ち着いたようだ」
「ラティに運ばせて、放っておけばよかったのに」

 宿屋となっている二階へ続く階段から下りてきた艦長にそう言って、私はグラスを傾ける。
 私だって無尽蔵にアルコールを摂取できるわけじゃない。
 少なからず、酔いがまわってきているようだ。

「そう言うわけにもいかないだろう」
「別にかまわないでしょう。たかが、ミリーがラティを襲うくらい」
「おいおい」

 そんな苦笑しなくてもわかってますよ。
 艦長がどれだけ私たちを心配して下さっているか。

「一応、保護者としてだな」
「フケますよ。ただでさえ歳なんですから」
「……うるさいよ」

 二人きりだ。

 二人きりになった時、私は私たちがもう若くないことを思い知る。
 過ぎ去ってしまった十代は、もう手の届かない場所にある。

「マスター、フィズを一杯」

 顔に似合わず、艦長は甘い酒が趣味だ。
 以前、付き合って同じものを頼んだことがあるが、私はもっとパンチの効いた酒の方が好き。
 酒を飲んだと実感させてくれる酒が私の好みだ。

「また、フィズですか」
「酸味の効いた酒は、年寄りにはさわやか過ぎるだろう」

 そう言って笑う艦長の笑顔は、私しか見ることはできない筈だ。
 艦長が酒を飲む時には、いつも私が側にいたから断言できる。

 勿論、バーテンダーは無口で盲目だ。
 どこの星でもそう。
 何も言わず何も聞かない。そして仕事は手際よく。

「羨ましいですか?」

 酸味を効かしたカクテルのグラスを揺らして、艦長に微笑する。
 珍しく酸味を効かしたカクテルを飲んでいたことを利用した、ちょっとした意地悪のつもりだった。

「君を羨ましがっても仕方ないだろう。年齢は隠せないものだ」

 まったく、この人は。
 人が気にしていることを的確に見抜いてくる。

「違いますよ。あの子たちのことです」

 そう言って、指を天井に向けた。
 それを見た艦長は、視線を天井へ向けて、私に視線を戻す気配はなかった。

「彼らがか? いや、私にもあの頃があったと思うだけさ」

 艦長が前を向いた。
 それに習って、私は空けたカクテルグラスをカウンターの上に置いた。

「マティーニ・エキストラ・ドライ」

 私の言葉を聞いた途端、艦長が慌てた素振りを見せながら私の方を振り返った。
 もちろん、その視線に笑顔を送り返す。

「火を吹くつもりか?」
「艦長のクサイ台詞を燃やそうかと」

 出されたカクテルに口をつけて、マティーニの香りのする息を吹きかける。
 二、三度、目を瞬かせた艦長に満足して、私は前を向いた。

「あの頃があったと思うって、引退宣言ですよ」
「まだまだ現役だよ、私だって」

 こんな会話を交わしていること自体、引退した証拠なのかも知れない。
 少なくとも、私があの頃だった時はそう思っていた。

「単なる行き遅れとも言いますよ」

 ……何を口走ってしまったんだろう。
 いや、口走らされてしまったのだ。艦長の真剣な表情に。

 嫉妬だろうか。
 見知らぬ、艦長の想い人に嫉妬している?

「なかなか難しいのだよ。周囲の目もあることだから」
「艦長なら、クルー全員で冷やかしの対象になりますね」

 少し棘のある言い方に、艦長の眉が曇った。
 だけど、少しもいい気分にならない。

「艦長……」
「クルーは大丈夫だろうか」

 そうだった。
 艦長と副官はこの場にいる。
 クルーだけが艦に取り残され、今に至っている。

「大丈夫ですよ。彼らもベテランのクルーですから」

 私自身の心配を打ち消すように、音を立ててグラスを置いた。
 艦長の言葉が胸に突き刺さってしまっていた。

 不安が消えない。
 だが、副官としての使命感と義務感よりも、私にはもっと大きなものがあるのも事実だ。

 そんな葛藤を打ち消して、艦長を見た。
 艦長の顔を見れば、もっと大きなものが私を支配してくれる筈だから。

 しかし、グラスを両手で握り締めている艦長の姿は、私の使命感をくすぐった。

「イリア……私は卑怯者だよ」

 副官としての使命感が、即座に艦長の酒量を計算する。
 結論としては、まだ酒量は多くない。

「私は艦の外へ出る時、君を指名した」
「それは私が文武両道に優れているからでしょう……言ってて恥かしいですけど」

 ちょっと自負し過ぎかな。
 いや、それだけの自信はあるつもり。

「そう……君は格闘術に長け、知識も応用力もある」
「そして、艦長の副官です」
「加えるならば、長年上官をしている私をも驚かせる適応力の持ち主だ」

 私に、適応力があるとは思っていなかった。

「だからこそ、私は今になって後悔している。君を選んだことに」
「それはまた……随分と弱気ですね」

 艦長を見ることはできなかった。
 ただ、空のグラスがカウンターに置かれたのを見れただけ。

「彼らを見ていると、自分にすら未来があるように思えてきたんだ」
「艦長もまだまだ先が長いですよ」
「それは、君も同じことだ。その可能性を奪ってしまった気がしている」

 艦長と杯を交わしたことは幾度もあったが、こんな話は初めてだった。
 艦長が私に対して謝っている場面は何度もあった。
 だけど、艦長が私の未来を閉ざしてしまっていると考えたことは一度もない。

「場所を変えましょうか」

 有無を言わさず、艦長の腕を取った。
 いつになく、声が若いのを自覚する。

「おい、イリア、酔ってるな」

 好きな人の笑顔と、未確定だが現実味のある未来。
 私は一人の優しい表情を選びます。

 それがない未来は、考えたくないほど寒い未来だから。

「こんな状態、あの子たちには見せられませんね」
「まったくだ」

 艦長の腕に縋りつくようにして立っている私と、私を支えている艦長。
 絶対にこんな状態では彼らに会えないだろう。

「朝の息吹を感じるまでは……そばにいてもいいですよね」

 艦長が頷くまで、そう時間はかからないだろう。
 年増の媚ほど、破壊力のある女の攻撃はないのだから。

<了>