まさか、ね


「……また無言電話か」

「谷先生、どうされました。また、例のアレですか」

 開いた携帯電話を見つめていた谷へ、茶道部から戻ってきたばかりの絃子は声をかけた。
 谷が振り向き、彼女へとわずかに肩を竦めると、開いたままの携帯電話を示す。

「えぇ。どういうわけか、最近多くて。留守電に無言電話が入っているんですよ」

「出会い系にでも登録されましたか」

「それほどの余裕がないでしょ、私たちには」

「確かに。そんな暇が欲しいものですね」

 そう言って苦笑しあった後で、谷がパタンと携帯電話を閉じた。
 絃子は荷物を向かいの同僚の机の上に置き、彼の隣の自分の席に腰を下ろす。

「携帯、お換えになればよろしいのでは」

「はぁ……面倒でしてね」

「ショップへ行かれるのが、ですか」

「いえ、連絡がね。まぁ、職場からの電話が掛かってこなくなってラッキーかもしれませんけどね」

 そう言って、谷が自分の机の上にあった飴を、絃子へと勧めた。
 絃子は少し微笑みながら飴を受け取り、包み紙を開く。

「心当たりがないのでしたら、危険かもしれませんよ」

「こんな冴えない高校教師を一人狙ったところで、面白いわけでもないのにねぇ」

 自嘲することもなく、ただ普通の世間話のようにそう言う谷の表情は、いつものように柔らかい。
 色がないとも言われる彼の表に出てくる感情は、今のような穏やかなオーラしかない。

「もしかしたら、臆病な女子高生かも」

「だとしたら、よほどの変わり者か物好きですね」

 そう言って笑うと、谷は飴を口の中へ放り込んだ。
 彼が口を閉じると、それ以上、絃子からも会話を繋ぐつもりはない。
 二人は隣り合った席に座り、それぞれの仕事を片付け始めた。

「……あ、そうだ。高野、最近はどうしてますか」

「彼女ですか。相変わらず、興味深い趣向の持ち主ですよ」

「無遅刻無欠席なのはいいんですが、色々と噂は絶えないもので」

 出席簿を処理していた谷の手が止まり、播磨の欄の遅刻数を数え始めていた。
 問いかけられた絃子は、谷の言葉に顔を上げる。

「例のサバイバルの一件ですか」

「それ以外にも、色々と。税関から電話がかかってきた時は、何をしでかしたのかと」

「彼女は、薬物に手を染めるタイプじゃない」

「えぇ。その点は安心してますよ。小悪党になるよりも、もっと大きなことをやる子です」

「なら、心配は要らないのではありませんか」

「一人で生きていけるかもしれませんけど、それは、寂しいもんでしょ」

「……そうですね」

 タイミングの遅れた絃子の言葉に、谷が気付くことはなかった。
 単純作業とも言える欠席表を書き上げて、学年主任のところへ行くために席を立つ。
 絃子は背もたれに体重を預けて顔を上げ、ちょうど、立ち上がった谷と視線が交わした。

「谷先生、高野のこと、どう思われますか」

「扱いづらい生徒ですけど、芯は強い子ですよ」

 当たり障りのない評価を口にして、谷が席を離れていった。
 残った絃子は、ふと視線を職員室の入り口へと向けると、珍しくノートを携えた女生徒が見えた。

「……どこかに盗聴器でも仕掛けているのか、アイツは」

 そう呟いた絃子の視界を、女生徒が通り過ぎていく。
 彼女が向かう先は、すぐに見てとれた。
 学年主任に嫌味を言われている彼女の担任のところだ。

「谷先生、少し教えていただきたいのですが」

「あぁ、高野。どの範囲だ」

「線形代数学です。これがわかれば、少しは進学にも興味が持てるかと」

「高専でやるような問題だな。えっと……そっちでいいか」

「はい」

 別に聞き耳を立てていたわけではないが、絃子に聞こえる音量で交わされる会話。
 もたれかかっていた体勢を立て直している間に、二人が彼女のそばへと戻ってくる。

「そこの机でいいかな」

「はい」

 谷が自分のイスを引き寄せて、高野の向かいに座る。
 高野がテキストを開き、個別講義が始まった。

 何となしにそれを見ていた絃子の頬が、わずかに緩んだ。
 もちろん、次の瞬間には鋭い視線が彼女へと向けられていたが。

「高野、珍しく勉強か」

「はい。少しは進学してみようかと」

「ま、お前なら大丈夫だろう。谷先生、ウチの部長のこと、よろしく頼みます」

 そう言って、絃子が二人に背中を向けて、仕事に戻る。
 ほんの少しの沈黙の後で、谷の解説が端々に聞こえ始めた。

「……まさか、君のそんな顔が見れるなんてな」

 そう呟いた絃子の表情は、必死に笑いをこらえていた。

 

<了>