無意識のメール


 

「おぅ、イチさん、春、あがっていいぞ」

 現場責任者の言葉に、余ったダンボールを片付けていた二人が顔をあげる。
 既に、引越しの荷物は全てトラックへ積み込み終えている。
 細々とした壊れやすいものはプロである現場責任者が処理していたのだが、それも終わったようだ。

「このダンボールを片付け終わったら、終わりですから」

 残り数枚となったダンボールを素早く折りたたみ、花井がダンボールをまとめて持ち上げる。
 花井に大きな残り物を預け、一条が床に落ちた小さなゴミを拾っていく。
 二人が引越し前の家を出ると、現場責任者は既にトラックに乗りこんでいた。

「一条君、先に乗りたまえ」
「はい」

 助手席のドアに一条が手を伸ばすと、現場責任者が先に助手席の窓を開けた。
 そして、ドアのロックをかけて、外の二人に手を振って見せる。

「あとは社員研修の奴らに任せっからよ。イチさんと春はあがってくれや」
「え……でも」

 中途半端に腕を伸ばしたまま、一条が困ったように後ろの同級生を振り返る。
 その同級生にしても、上司の言葉は意外だったらしい。

「では、僕たちはここで解散ということですか」
「おぅ。今度来た時に、日給は払うからよ」
「いえ、それは別に構わないのですが」

 一条が伸ばしていた腕を戻し、トラックから一歩下がる。
 二人が了解したとわかると、現場責任者は厳つい顔を柔らかくした。

「二人とも、今日は登校日だったんだろ。いつもよく働いてくれっからよ。今日くらいは褒美だ」
「はぁ」

 気の抜けたような声で、花井と一条が頷く。
 それを見て、責任者はニヤリと笑った。

「心配すんな。イロは付けさせっからよ」
「いえ、それは別に構わないのですが」
「んじゃ、ここで解散な。お前ら、直接帰っていいぞ。家も近いだろ」
「はい。それじゃあ、これで失礼します」

 一条が深々と頭を下げ、トラックが走り出す。
 残された二人は引越し屋の制服のまま、お互いに顔を見合わせていた。

「仕方ないな。今日は帰るとしようか、一条君」
「そうですね……あ、でも、どこかで着替えないと」

 そう言って、一条が汗を吸った制服の胸元をパタパタと仰ぐ。
 花井は周囲を見回すと、着替える場所がないことを悟り、小さく頷いた。

「仕方ないな。駅まで歩いていくとしよう。ここから駅までなら、五分とかからないだろう」
「そうですね。そうしましょうか」

 花井自身は制服であろうが、特に気にかけることもない。
 ただ、二人とも妙に真面目な部分があり、制服で出歩くことを由としなかったのである。

 歩き始めてみると、余計に汗が流れ落ちてくる。
 アスファルトからの照り返しが厳しく、一条は無意識のうちに額の汗を手で拭っていた。

「暑いですねぇ」
「夏だからな」

 今鳥さんなら、もっと上手いこと言うのかしら。
 そんな風に考えながらも、彼女は隣を歩く花井の影に入っていることに気付いた。
 どうやら、無意識の内に太陽の側を彼が歩いているらしい。

「……そういえば、花井さんはアルバイトのお金、何に使うつもりなんですか」
「僕は鍛錬のためにこのアルバイトをしているつもりだが……そうだな、新しいメガネを買う予定だ」
「フレーム、変えるんですか」

 確かに、彼のフレームは時代遅れと言ってもおかしくない。
 むしろ今は、彼のかけているフレームと同じデザインを探すことの方が難しいのではないだろうか。

「いや、最近、少し色を付けたレンズの方が視力によいと聞いてな」
「サングラスですか」
「あぁ。どうも眼精疲労にいいらしい。パソコンをする時にも、便利だと聞いているのでな」

 何とも、生真面目な彼らしい理屈だ。
 そう思いながら、彼女はふと、常にサングラスを外さない級友のことを思い出した。

「サングラスは、播磨さんのようなものをかけるつもりですか」
「むぅ……アイツのようなものをかけるつもりはないが。フレームはいつも格安だからな」
「格安って、デザインは気にしないんですね」
「レンズにお金が掛かるのでね。僕はよく壊してしまうので、無駄なお金はかけられん」

 それなら、壊さなければいいのでは。
 そう思っても、彼女がそのことを口に出すことはなかった。

 花井の言葉どおり、五分もしないうちに駅が見えてくる。
 二人は構内のトイレで着替えを済ませると、駅前のスタンドに入っていった。

 店内はクーラーが利いていて、汗にまみれた二人を心地よく冷やしていく。
 花井はコーヒーを、一条がアイスティーを飲みながら外を眺めていると、見覚えのある金髪が一人。
 その男は駅から出てくると、真っ直ぐにスタンドへと駆け込んできた。

「アッチー」
「あ……今鳥さん」
「オネーサン、アイスティー」

 入り口のそばにいた一条が声をかけたのだが、彼はまったく気付かなかったらしい。
 しかも、アイスティーを手にした彼が先に気付いたのは、彼女の隣にいる男のほうだった。

「あれ、花井」
「今鳥か。珍しいところで会うな」
「あぁ。オレ、今日は映画見てきた帰り……て、隣にいるの、一条か」
「は、はい。こんにちは、今鳥さん」

 わざわざ立ち上がって、一条が頭を下げる。
 今鳥は居心地悪そうにあしらっていたのだが、それを見た花井が、立ち上がった。

「花井よぅ、お前、美コちゃんだけじゃなくて、一条にまでコナかけてんのか」
「馬鹿を言うな。僕たちはバイトの帰りだ」

 花井が飲み終えた容器をゴミ箱の中へ入れ、すれ違いざまに、今鳥の肩へ手を置く。

「すまんが、一条君を送ってくれないか。僕は用事があるのでな」
「おい、何だよ」
「僕が送るつもりでいたのだが、君の方が適任だろう」
「あ、あの、花井さん」

 突然の展開に、一条が慌てながら、今鳥の顔をチラチラと盗み見る。
 その視線に気付いていないのか、今鳥は突如真剣な表情になると、指を一本立てて見せた。

「美コちゃんとのデート一回で手を打とう」
「いいだろう。次の日曜日に僕の家の道場に来い。周防と手合わせさせてやろうではないか」
「それはデートじゃねー!」

 いつもの花井らしからぬ言動に、一条は思わず笑っていた。
 彼女の笑い声に毒気を抜かれたのか、今鳥が普段の表情に戻って花井を追い払う。

「さっさと帰れよ」
「うむ。では、くれぐれも一条君を頼むぞ」

 そう言い残して、花井が店を出て行く。
 残された二人は、どちらからともなく座りなおすと、黙り込んだ。

 それでも、アイスティーを飲み終えてしまえば、店を出るほか、することはない。
 先に飲み終えていた一条は、チラリと隣の今鳥を見て、意を決したように声をかけた。

「あ、あの、そろそろ……出ませんか」
「あ、そう。んじゃ、出るか」

 そう答えて、今鳥が先に立ち上がる。
 続いて立ち上がろうとした一条の目の前に、今鳥の差し出した手が伸びていた。
 無意識の内の行動だったのか、差し出した今鳥自身が、その手に驚いていた。

「あ、あの……」
「行かねーの?」
「い、行きます」

 勢いを付けて、一条が今鳥の手をつかむ。

「結構ちいせーな」
「はい?」
「何でもねーよ」

 コイツ、結構小さい手なんだな。
 そう思いながら、今鳥が手を引く形で、店を出て行く。

「……一条の家、どこだっけ」
「あ、はい。向こうです」
「なら、行こうぜ」

 二人が、手をつないだまま歩き出す。

 顔を赤くしながら後に続く一条は、この流れに感謝していた。
 花井がくれた、千載一遇のチャンス。
 それを活かさない手はないと、意を決して、今鳥へと話しかける。

「あ、あの、今日はどちらに行かれていたんですか」
「映画」

「あの、引越し屋のバイトは辞められたんですか」
「金がなくなったらする」

「えーと……今日の映画、一人で見に行かれたんですか」
「女の子と」

 他愛のない一問一答は、二人の間の沈黙を取り除くには有効だった。
 だが、それでは一条のかすかな期待を込めた展開にはならず、質問はすぐに途切れてしまう。

 そうしているうちに、一条の家が見えてくる。
 残り数十メートルとなったところで、今鳥の携帯が鳴った。
 空いているほうの手で携帯を開いた今鳥が、片手で器用にメールを開く。

「……チッ」

 舌打ちをした今鳥に、一条が不安そうな表情で尋ねる。

「どうかされたんですか、今鳥さん」
「あぁ、ドタキャンされた。夕飯、一緒に食う予定だったのに」
「あ……ごめんなさい」

 失礼なことを尋ねてしまったと感じた一条が、すぐに頭を下げる。
 彼女のその動きに手を引っ張られた今鳥は、どこかぼんやりとした目のままで、彼女を見つめた。

「なぁ、一条、空いてるか」
「え、あ、はい」
「飯、食わね?」

 今鳥の言葉に、一条が見る見る間に頬を染めていく。
 つないでいた手を離して、自分の手で両頬を押さえてしまう。

 恥らう一条の姿を見て、今鳥がハッとする。
 これは、いつかと同じパターンではないか、と。

「あ、そ、その、荷物置いたら、すぐに来ますから」
「え、あ……」

 いつの間にか、彼女の家の前まで来ていたらしい。
 一条が、急いで家の中へ入っていく。

 所在無げに玄関前に立たされている今鳥は、仕方なく、メールを返信することにした。
 瞬時に打ち込んだメール本文は、少しの嫌味も含めて。

”残念。今日は一人飯じゃん。埋め合わせ、してくんねーの?”

「お待たせしましたッ、今鳥さん」

 メール送信のボタンに手をかけたときに出てきた、一条。
 その姿を見て、今鳥は送信ボタンから手を離していた。
 そして、押したのはクリアボタン。すぐにポチポチと別の本文が打ち込まれていく。

”オーライ。今日のところは別の子と行くわ”

「ほい、送信」

 彼女が玄関から門のところまで来る数秒の間に、今鳥は送信を終えていた。
 携帯から顔をあげると、先程までは色の付いていなかった唇に、かすかなピンクの色。
 そして、外出用の服に着替えた一条を見て、今鳥は今日二度目の手を差し出した。

「店、決まってんだけど」
「はい、どこでもかまいませんよ」
「んで、オレ、そんなに金もってねーから、ワリカンでいい?」
「はい、大丈夫です」

 誘っておいて、わがままかもしれない今鳥と、笑顔で受け答えする一条。
 二人はやりとりの態度そのままに、また町に向かって、帰ってきたばかりの道を歩き始めた。

「なぁ、一条、わざわざ口紅付けてきたのか」
「はい……わかります?」
「まーな」

 今鳥の指摘に、一条がまた頬を赤くする。

「これでDなら……」

 お決まりの文句を口にしながら、今鳥は一条を連れて、予約していた店へと向かった。
 その手に、彼女の手を引きながら。

 

<了>