言い訳が欲しい
「花井君、少しいいかしら」
六時間目の授業が終わり、クラス全員が帰り支度を始めている。
周囲と同じく帰り支度を整えた茶道部部長・高野晶は、席から立ち上がったばかりの花井を呼びとめた。「うむ。何か用かな」
花井が鷹揚に頷くと、晶は自分のロッカーを指した。
彼女の指の先を見た花井が、ロッカーの前を占拠している大きなダンボールを指し返す。「アレのことかな」
「えぇ。茶道部の備品になるのだけど、重くて運べそうにないから」
「うむ。わかった。僕が運べばいいのだな」
「話が早くて助かるわ。お願いね」そう言うと、晶は自分のカバンを手に、そのまま教室を出て行った。
荷物運びをさせる彼を待つつもりは、毛頭ないようである。体よく荷物運びを押し付けられてしまった花井も、特に気にすることなく、ダンボールを抱える。
少林寺で鍛えた彼にしてみれば、少し重いくらいで、苦労することはなさそうだ。「花井ー、何やってんだ」
「うむ、周防か。この荷物を、茶道部へ運ばなくてはならんのだ」
「壊れもんか? 何だったら、手伝うぜ」親友の頼みを引き受けてくれた花井に対する心遣いを見せた周防に、彼は首を横に振った。
「いや、特に苦労することもないだろう。周防は先に帰っていてくれ」
「そうか。なら、そうするけど」周防が目の前からいなくなると、彼は足早に荷物を運び始めた。
茶道部室には立ち入り禁止の彼だが、部室前の廊下までは制限されていない。
あわよくば、憧れの八雲君との会話ができるかもしれない。
単純に考えた彼は、大きな荷物を抱えながら、さっさと足を進める。三分とかからずに部室前に姿を見せた彼が、部室の扉をノックする。
中から、先に部室に入っていた晶が顔を見せた。「早いのね。入っていいから、そのダンボールは食器棚の隣に置いて頂戴」
「うむ、わかった。では、失礼する」彼女が開けた扉から中に入り、ダンボールを三面食器棚の隣に下ろす。
さすがに肩が凝ったのか、花井は荷物を下ろすと、両肩をほぐしだした。「少し重かったかしら」
「そうだな。中身は聞かないことにしておくが、それなりに重かったと言っておこう」
「そう。じゃあ、これはそのお礼よ」そう言って、晶はテーブルセットの向かい側に、カップを置く。
そして彼が向かいに座ると、ポットから紅茶を注ぎ入れた。スライスされたレモンの入っているパックをテーブルの中央に置き、彼女は指定席に戻った。
彼がカップを持ち上げると、ハーブティー独特の匂いが、わずかに鼻をかすめた。「これは……ハーブティーか」
「えぇ。試し飲みだから、中途半端かもしれないけどね」
「いただこう」音も立てずに、花井が紅茶を口に含む。
彼の最初の一口をじっと見つめていた晶は、静かに彼が飲み終えるのを待った。「うむ、ハーブティーはハーブティーでも、随分と飲みやすいな」
「セーラにリンゴのおろし汁を混ぜてみたのよ」
「確かに相性のよい組み合わせだが、この紅茶にもよく合っているな」
「よかったわ」気に入ったのか、あっさりと飲み干す花井に二杯目を注ぎ、彼女はレモンのスライスを口にした。
二人きりの部室は、放課後の喧噪もあいまって、どこか寂しげに感じる。
紅茶の感想以来、会話のない二人に支配された部室は、まるで時が止まったようだった。時計の秒針の音が聞こえる部室で、紅茶を飲む二人。
いつも姿を見せている一年生の部員二人は、まだやってくる気配がない。「……お茶請け、何か必要かしら」
「特に必要ではないが、あればいただこう」遠慮という言葉を、彼は知らないらしい。
しかし、彼女も別にそのことを気にとめる風もなく、黙って食器棚から缶ケースを取り出す。中に入っているのは、少し湿気りだしているクッキーだった。
半分だけ口の中に入れても、乾いた音を立てないほど、しんなりとしている。「少し湿気ているようだが」
「だから、処理係に食べさせたの」
「処理係か、僕は」再び、沈黙が訪れた。
湿気たクッキーは、紅茶によくあっていた。壁に掛けられている時計が鳴り、四時になったことを報せる。
夕日が傾き始めたのか、窓の外がやや赤く染まったように感じられる。「あ……」
「何かね」沈黙を破るように発せられた晶の言葉に、花井が顔をあげる。
席を立ち、そのまま真っ直ぐに花井の前に立った彼女は、スッと手を伸ばした。「高野君」
「じっとして」そう言って、彼女は花井の頬に付いていたクッキーのカスを舐め取る。
「お、おい」
「……失礼しました」二人以外の声に、花井が目の前の女生徒から視線を離し、扉の方を振り返った。
かすかに見えた金髪は、茶道部の一年生のものだろうか。「今のは、サラ君ではないのか」
「そうみたいね」いつのまに席に戻っていたのか、彼女はもう彼の向かいの席に座っていた。
そして、空になっていた花井のカップに、紅茶を注ぎたす。「まぁ、落ち着きなさい。紅茶でも、どう」
「う、うむ」流されるままに、花井が座りなおす。
注ぎ足された紅茶を飲む彼を、晶は静かに見つめていた。「どうかしたのか」
「いいえ。悪かったわね、キス」そう答えて、彼女は視線を窓の外へ向けた。
釣られるようにして窓の外を見た花井が、見覚えのある金髪を見つけた。「サラ君と……隣にいるのは八雲君か。こうしてはおれんな」
意中の人を見つけるや否や、花井が席を立つ。
そのまま窓を開けた彼が窓枠に手を掛けたのを見て、晶が声だけで制止する。「ちょっと、ここは二階」
「問題ない」右足さえも窓枠に乗せた花井に、彼女は諦めたかのように吐息をついた。
しかし、その吐息は思いのほか、威力があったようだ。
花井が窓枠に足を掛けたまま、彼女を振り返った。「そうだ。僕としたことが、紅茶の礼を言い損ねるところだった」
「気にしないで。荷物を運んでくれたことへのお礼」
「うむ……だが、では、先程のキスはどう受け取ればよいのか」花井の言葉に、晶は軽く眉を持ち上げた。
それほど、彼女にとって意外な言葉だったらしい。「そうね……頼みを引き受けてくれたことに対する、私だけからのお礼」
「そうか。少々お礼が多かったようにも思うが、今度は何かを無償で引き受けよう」
「わかったわ。また、お願いするわ」
「うむ。任せたまえ」そう言って、花井が前に向き直る。
窓の外に生えている木の枝までの距離を目測し、両足を窓枠に乗せた。「花井君、もしかしたら、お礼にキスっていうのは慣れているの」
「昔、周防にもらったことがあるだけだ」言い捨てるようにそう答えて、花井の体が飛んだ。
木の枝の揺れる音がして、次の瞬間には彼のバカ調子なヤクモンと叫ぶ声が聞こえてくる。彼女は黙って窓を閉めると、彼が律儀にも飲み干していったカップを手に取った。
時間がかかるようにと多めに注いだ紅茶の量だったのだが、綺麗さっぱりなくなっている。「お腹、痛くなるわよ」
そう呟いた彼女は、人の気配にカップを下ろし、素早く自分の座っていた指定席に戻った。
彼女が席に座るやいなや、部室の扉を開けて、茶道部顧問が顔を出す。「紅茶か。私にも一杯くれないか」
「えぇ。どうぞ」新しいカップを出して、少し冷め始めている紅茶を注ぐ。
顧問は紅茶を一口すすると、口許を緩めた。「セーラとアップルか」
「えぇ。ようやく、完成したので」
「それでは、そのカップは君の想い人かな」
「仰る意味がわかりませんが」いつになく素早かった彼女の返答に、顧問の目許が緩む。
自分の表情の変化を自覚した顧問が、誤魔化すように目を閉じて、紅茶を味わっている風を装う。
そして、これ以上の掛け合いは無用とばかりに、いくつかのやりとりを省略する。「彼の背中には、周防君がいただろう」
顧問の言葉に、晶もいくつかのやりとりを切り取った。
すべては目の前に座る顧問に負けないために。「そのようです」
「それで、正面にまわることにしたのかね」
「八雲を護るためなら」
「よい理由だな」この場での敗北を、晶は認めていた。
気配を消してでもいたのか、この顧問は先程の様子をすべて見ていたらしい。「私は彼を操るための糸をつけるだけですよ」
「確かに、彼なら正面から操ろうとしても、正直に操られてくれそうだな」彼女の言葉にそう答えて、顧問が紅茶のお代わりを要求する。
黙って注ぎいれた彼女に、物理教師はニッと笑ってみせた。「一つだけ忠告しておこう。彼は操られていることを承知で、壁を破るような人間だ」
「背中にいる彼女が、彼を止めてくれるでしょう」
「そうかな。周防君なら、彼の後ろを走りながら、彼を後押しするような気もするが」絃子がカップを置き、レモンのスライスに手を伸ばす。
レモンを舐めて緩んでいた表情を引き戻すと、彼女は晶にもレモンを勧めた。「教師として、君と彼が手を結ぶと、手が付けられなくなる」
「私は谷先生、好きですから」
「その言葉を信じよう」そう言って、絃子が静かにカップを置いた。
そのまま立ち上がった顧問に、晶はわずかに顔をあげた。「珍しいですね。残業ですか」
「いや、ゴリ山に埋め合わせを要求されているのでね。葉子と一緒に出かけるのさ」
「明日は体育がありますので、ほどほどにお願いします」
「葉子に言ってくれ」教え子の言葉に肩をすくめて、絃子が部室を出て行った。
夕焼けに赤く染まり始めた部室の壁を見ながら、晶はカップを流しへ入れた。
洗剤を使って、カップを洗っていく。セットで買ったカップ達の中で、一つだけ色の違うカップがある。
つい先程まで、茶道部に所属しているただ一人の男子生徒が使っていたもの。「後ろをむかせてしまえば、八雲からは目線が外れるでしょうに」
花井の背中にいるのは、彼女の親友。
おそらく、彼が背中を振り返れば、彼の視線を奪ってくれるだろう。
それはすなわち、八雲が彼の求愛から逃げられることになる。
しかし、それでは納得できないのだ。彼女自身のプライドが。「前を向かせたままで……面倒だわ」
後ろを振り向かせることなく、彼の視線の先を彼女自身に向けさせる。
常に前を向いている彼には簡単にできそうで、何故かできないと思えてしまうこと。「臆病なだけ。命のやりとりよりも苦しいわ」
彼女は自分の思い通りにいかない結果をそう結論付けると、洗い終えたカップを棚へ並べた。
そして、部屋の電灯を消す。夕焼け色に染まった部室に鍵をかけて、真っ直ぐに下駄箱へ向かう。
靴を履きかえ、そのまま校門に向かって歩き出した彼女が見たのは、彼女の心を苛つかせるようないつもの光景。
八雲にぶつかっていこうとした花井を羽交い絞めにする、彼の幼馴染であり、彼女の親友。「おぅ、高野、ロープ貸せ!」
「何をする気だ、周防!」
「決まってんだろ。お前は縄で縛りでもしねぇと、面倒なんだよッ」まるで中学生のやりとりを見せている二人に、晶は心の中だけで舌を打つと、縄を取り出した。
それを周防へと放り、一年生二人を連れて歩き出す。「あぁ、ヤクモクーン」
「テメ。口も塞ぐぞ」まだ背後でじゃれあっている級友二人を置いて、晶は一年生二人と校門をくぐる。
「うわー、花井先輩、まるで囚人ですね」
「あ、あの、いいのでしょうか」後ろを振り返った一年生二人が、花井を心配して晶に尋ねてくる。
彼女はいつものように無表情のまま、スタスタと歩き続けた。「部長」
「今は彼女に任せておきなさい」周囲からは晶の後継者と目されている金髪のシスターが、晶に反論を遮られて頬を膨らませる。
しかし、次の瞬間には、悪魔の尻尾がシスターから生えていた。「いいんですか? 部長、花井先輩取られちゃいますよ?」
寸分置かずに、晶の手にサブマシンガンが握られていた。
無論、初速340m/sを誇るエアガンである。「サラ、撃つわよ」
「はい」すぐさま両手を上げて脇にどいた後輩たちへ視線を送り、晶はそのまま引き金を引いた。
校門の方から、二人の罵声が飛んでくる。「高野ー、お前、今、本気で狙ってただろッ」
「高野君、僕たちでなければ当たっているぞッ」当たらなかったことに舌打ちをして、晶はハンドガンをしまう。
完全に言葉をなくした一年生二人に、彼女はしっかりと釘をさした。「他言無用よ」
一年生二人が、コクコクと頷く。
「やっぱり、正面からいくしかなさそうね」
そう呟く晶の表情は、ほんの少し微笑んでいた。
<了>