ローマの休日
「あ、お父様」
父親からの電話に、沢近の声が弾んだ。
近頃は滅多に会うこともできず、電話で声を聞くことすら稀である。「はい、来週の週末は予定は入っておりませんが」
彼女がそう答えると、次の父親の言葉は彼女をさらに喜ばせた。
思わず受話器を握る手に力が入り、まるでかぶりつくかのように送話口を引き寄せる。「はい、はい。もちろん、楽しみにしています」
そして、父親からの夕食のリクエストに、彼女は一つ、間を置いてから答えた。
何のことはない。唾を飲み込んだのである。「そ、それでは、家でお食べになりませんか。あの、私、作りますから」
受話器を握る手が、震えだしていた。
少し前に父親が帰って来た時は叶わなかった、ささやかな夢。
それが今、実現されるときが来たのだ。「はい。是非。楽しみにしてますわ、お父様」
父親から先に切られた後も、彼女は少しの間、名残惜しげに受話器を抱えたままだった。
そして彼女が受話器を置くと、執事の中村がさりげなく彼女の隣に控える。「中村、来週の週末は、必ず予定をあけるように」
「はい、承知いたしました。旦那様がお帰りになるのですね」
「そうよ。家で食事をするから、そのつもりで」彼女の言葉に、中村が黙って頭を下げて退出する。
部屋に一人残った彼女は、少し考えた後、受話器を持ち上げた。
料理上手な、彼女の親友に電話をするために。
翌朝、沢近からの申し出に、周防は一も二もなく了承の意を示した。
お節介な彼女ならではの行動でもあり、また、暇だったこともある。「んじゃ、今週の土曜だな」
「そうね。材料は私が用意しておくから、お願いね」
「あぁ。ついでに泊まってってもいいか? その日、家の連中がいねーんだ」
「いいわよ。美琴一人じゃ、危ないものね」
「サンキュ。助かるぜ」昨日の電話の件を改めて約束した沢近は、少しほっとして笑顔を見せた。
周防ならば、彼女の料理の腕も少しは上達するかもしれない。「おはよう」
「おぅ、おはよ」登校したばかりの高野が、二人の姿を見つけて挨拶を交わす。
その後ろでは、元気そうなピョコピョコが動いていた。「おはよー。ねー、今度の週末だけどー」
「何だよ。あんまり暇じゃねーぞ」
「お昼にカレーフェア、行かない?」天満の提案に、肘をついていた周防がガタリと体勢を崩した。
反対の手をついて何とか机との正面衝突を逃れた彼女は、錆付いた機械を動かすように、ゆっくりと顔を上げる。「んなもん、烏丸と行けよ」
「えー、一人で誘えないよー」ピョコピョコの回数をさらに増やして、天満がそう言い返す。
呆れた周防がさらに言い返そうとすると、高野が無表情のまま先んじた。「ダメね。その日、愛理と美琴さんはカレーを作るのだから」
「えー、そうなの?」”地獄耳か、お前は”という言葉を飲み込んで、周防が何とか笑顔を作る。
それでも、口許がひきつるのは止めようがないらしい。「そういうこと。だから、昼にカレーはパス」
「えー、行こうよー」
「だから、烏丸でも誘やいいだろ。アタイたちを巻き込むなよ」周防が天満の申し出を却下してくれたことに胸をなでおろし、沢近はすまして髪をかき上げた。
そして、天満に対して斜めを向きながら、彼女の後ろの席を指した。「ほら、烏丸君、もういるじゃないの。さっさと誘ってきなさいよ」
「愛理ちゃんの意地悪」
「あのねぇ、いつまでも私たちに頼らないでよ。いい加減、自分一人で誘いなさい」
「うぅ、愛理ちゃんがイジメルゥ」わざとらしくメソメソする天満の肩に、高野がポンと手を置いた。
救いの神が現れたように顔を上げた天満の頬に、高野の人差し指がプニッと突き刺さる。「……美琴ちゃーん」
泣きながら周防の胸に飛び込んだ天満をうろたえながら受け止めて、周防が沢近を見る。
悪乗りしたのは高野なのだが、沢近の心に罪悪感が芽生えてくる。
はっきりいって、とばっちりもいいところだ。「あー、もぅ。それじゃ、その日、天満も一緒にカレーを作るってことでどう?」
沢近の言葉に周防が目顔で、いいのかと尋ねている。
それに目で答えて、彼女は天満の涙を拭った。「ほら、天満だって、手料理のほうがいいでしょう」
「う、うん。だけど……いいの?」
「別にいいわよ。私も美琴に教わるつもりだったから」
「うんっ」カラスではないが、早くも立ち直った天満に、周防と沢近が苦笑する。
高野も、幾分か目許が笑っているようだった。「ついでだから、晶も来れば」
「そうね。美琴さん一人で、二人の相手は大変そうだから」
「言うわね。私だって、少しは上達したんだからね」
「そう。楽しみだわ」こうして、沢近の思いとは少し違った形で、週末のカレー講習会は決定した。
『……これでお別れですわね』
『そんな』
『今日までですものね、休日は』お昼過ぎ。
天満たちとの約束の時間は、まだ十分にある。昼食を食べた後、沢近はビデオを見ながら過ごしていた。
外は雨が降っていて、微妙に気だるい午後だ。「……チィーッス」
「あら、美琴」
「やっぱ広いなー、沢近ん家は」そう言いながら、周防が沢近の座っているソファに背を預けて床に座る。
自然に胡座をかいた彼女に、沢近は小さく肩をすくめた。「普通、ソファに座らないかしら」
「アタイはこっちの方が楽なんだよ。いつも、道場の板の間だからな」そう答えて、周防がテレビに視線を向けた。
何となく立ち難くて、沢近もクライマックスとなって映画の鑑賞を続ける。「ローマの休日か」
「そうよ」
「沢近がそういう趣味だったとはな」
「暇だったからよ」五分ほど、会話が途切れた。
お姫様が車に乗って走り出すシーンが流れ、スタッフロールが流れ出す。
それを待っていたのか、周防がおもむろに口を開く。「なぁ、ローマの休日ってさ、終わり方が情けねぇと思わないか」
「そうかしら。身分違いの悲恋ものだから、これでいいんじゃないの」
「そういうもんかね」スタッフロールが流れ終わり、沢近がビデオの巻き戻しボタンを押した。
青くなった画面が切り替わり、ニュースを映し出す。「そういやさ、お前、どう思うよ」
「何が」ニュースは、今年の気象の異様さを説明していた。
しかし、周防がそれを話題にしているとは思えない。
事実、彼女も話題にしているのではないのは、彼女の表情が物語っていた。
少し遠くを見ているような、何かを思い出している瞳だった。「”僕なら平日の物語を書ける”、だぜ」
それは、周防の言葉ではないのだろう。
借り物の台詞のように、周防の口調はぎこちなかった。「ローマの休日を見た後に、そう言いやがったんだよ」
「男なら、キザな台詞ね」当たり障りのないところで、沢近はそう答えた。
すると、周防は納得したのか、一人でうんうんと頷いていた。「だよなぁ。ローマの休日見た後にさ、”僕と周防なら、平日の物語しか書けんな”だと」
「……どんな物語なのかしらね」いつ、どのような場面で、彼はその台詞を口にしたのだろう。
もしかしたら、彼が本当に好きなのは彼女で、無意識の内の告白なのじゃないだろうか。そんな考えを頭の隅へ押しやり、沢近はソファから立ち上がった。
つられたように、周防も立ち上がって親友がビデオデッキの電源を切るのを待つ。「そういや、塚本たちはまだみたいだな」
「四時頃ね、きっと」
「塚本が来る前に、ちっとだけ準備しておくか」そう言って、周防が袖をまくり上げた。
「そうね。先に切り方ぐらいは教わっておいたほうがよさそうよね」
「余計な邪魔が入る前に、な」そう言って、周防が笑う。
彼女につられて、沢近も口許を緩めた。「よし、善は急げだ。軽く練習しておこうぜ」
「お願いするわ」周防の頭の中からは、もう先程の台詞は抜けてしまっているらしい。
いつもの快活な彼女に戻って、材料をまとめ始めている。「いいわよね、美琴は。やっぱり、花井君がいるんだもの」
「おーい、沢近。肉がねーぞ」彼女の独り言は、周防には聞こえなかったらしい。
冷蔵庫の中を覗いていた周防が、肉の在り処を彼女に尋ねていた。「そんな筈はないわ。昨日、買ったばかりだもの」
「いや、ブタはあるんだけどよ。牛肉がねーぞ」
「肉なら何でもよくなかったのね」
「当たり前だろー。カレーには牛肉。初心者はブロックだ」
「仕方ないわね。買いに行くわ」
「なら、アタイも行くよ。沢近だと、また妙なの買って来そうだからな」
「……一言多いわよ」そう言い返しても、周防は笑っていた。
そして、ガシッと沢近の肩をつかむと、耳元に唇を寄せる。「相手は誰だ? それによって、肉も変えた方がいいんだぞ」
「……何を勘違いしてるかわからないけど、お父様よ」
「よし。なら、バラ肉だな」周防が微笑みながら、肉の種類を決定する。
沢近にしてみれば、その理由がわからない。「どうしてバラ肉なのよ」
「大人ってのは、結構外でカレー食ってるからな。ブロックは食い飽きてんじゃないか」
「なるほど」心のノートにメモをしながら、沢近はバッグを持って、執事を呼んだ。
すぐにやってきた執事に車の準備をさせ、周防と一緒に玄関へ向かう。「あと、気をつけることは?」
「初心者は野菜をなるべく大きめに切って、煮崩れてもいいようにする」
「なるほど」
「あと、少し濃いぐらいに作らないと、シャバシャバになる」
「う……」沢近の反応を見て、周防は沢近の背中を叩いた。
「経験してるな」
「う、うるさいわねッ。書いてあった通りにやったのよ」
「レシピなんて信用すんなよ。すべては感だ」
「無理言わないで」
「だってよ、三十人前とかになると、レシピなんてねーぞ」
「美琴じゃないんだから、そんな状況にならないわ」
「あと、単純に掛け算ってわけでもねーからな」
「う……」沢近の失敗点を的確に言い当てていく周防に、沢近がへこんでいく。
その様子を見ながら、周防は先に自分の靴を履いた。「ま、ようは愛情と食い気だな。自分で美味いの食いたけりゃ、美味くなるさ」
「そうね。少し練習してみるわ」
「そうしろ、そうしろ」玄関の外に出た彼女たちを、黒いリムジンが待っていた。
運転席にいた中村が二人を車内へ招きいれ、車が静かに進みだす。「ありがとうね、美琴」
「気にすんな。こっちも泊めてもらうんだから」そうだ。
美琴が泊まるのなら、いくらでも復讐の機会はある。不穏な仕返しを考えながら、彼女は美しく微笑んでいた。
<了>