遠いね。


 

 遠い。

 こんなに近くにいるのに、あなたが遠い。

 

 その笑顔に、その真剣な表情に、私の視線は吸い込まれていく。

 ふと視線が合った時の、あの人が微笑んでくれる仕草。

 最初は慣れない私の緊張を取る為だったのかもしれないけど、今は違うってわかる。

 だって、その笑顔は私にだけ向けられたものだから。

 

 ドキドキしながらあなたの指を見つめるの。

 少し磨り減った爪も、男の人にしては繊細な指先も、ちょっと頼りない手首も、私の瞳に焼きつくの。

 

 ……好きなのかなぁ、この感覚。

 うん、きっと好きなんだと思う。

 

 だって、和谷がいつも言ってくるから。

「お前、いつも何かあると伊角さん誘うよな」

 

 言われて初めて気付いた、あの人への気持ち。

 最初は憧れだった。

 私よりも強くて、私よりも先を見つめていて、どんな相手にも怯まない。

 年上の人との対戦で、腕が竦んでしまう私とは違う。

 全力で叩きのめすわけでもなく、全力で相手を納得させる彼。

 

 遂に彼が院生トップになった時、私はようやく1組。

 彼と対局できるだけで、私は幸せだった。

 今までの、院生仲間としてじゃなく、対局相手として、「奈瀬 明日美」を認識してもらえそうで。

 

 初めての対局で、彼は私に向かって微笑んでくれた。

 

「この間のカラオケ、凄く良かったよ」

 

 たった一言なのに、私の頭はパニック寸前。

 記念すべき対局なのに、棋譜なんてサッパリ覚えてない。

 覚えているのはあの人の手と、対局した後のあの言葉。

「早く終わっちゃったね。みんなはまだ大分かかるみたいだし、お茶でもどう?」

「え?」

「迷惑かな」

「全然! お願いしますッ」

「ハハッ、お願いされたら仕方ないかな」

 

 心が舞い上がってたんだね、私。

 

 それから随分と時が過ぎた。

 彼は最後の年。

 私も、残された時間はあと二年。

 丁度、彼が成人する年。

 なんか、運命的。だから、私は夢をみてる。

 成人した時、一緒に合格出来たらいいな。

 それで、彼は私にささやくの。

 

「結婚しよう」

 

 夢、見過ぎかなぁ。

 でも、夫婦でプロ棋士なんて凄いよね。

 一緒の部屋で起きて、一緒に棋院に行って、一緒に帰ってくるの。

 たまにはケンカして、たまには他人が見れないくらいラブラブして……

 

「帰ろう、奈瀬」

 トリップしてたのかな。何度も呼んでくれてたみたいだった。

「うん、ゴメンネ、伊角君」

「大丈夫か? 顔、赤いぞ」

「平気だよ。このとおり、予選も通過したしね」

 そう言って、本戦出場の登録領収書を見せる私。

 最後まで無理言って、伊角君に協力してもらったんだ。

 本当は一人でも何とかやれたと思うけど、一緒に勉強してたら、伊角君と一緒に予選通過した気分になれるし。

 

「今日はお祝いに、何か奢るよ」

「ホント? 何でもいい?」

 伊角君はチラッと考えて、微笑んでくれる。

「いいよ」

「じゃ、イタリアンレストラン」

「イッ、イタメシッ?」

 引きつる彼の声。

 フフッ、私の特権だよね。

「……まぁ、何とか足りるかな」

 私の前で財布を覗いてた彼が、そう言って私の方を振り向いた。

 こんなとこ、抜けてるんだよね、彼。

「じゃ、行こうか」

「うん」

 

 

 院生試験が始まった。

 今年も私はいきなり4連敗。麻衣ちゃんには勝ったけど。

 今年も伊角君は実力どおりの成績。

 とても追いつけない。

 真剣な眼差しは、私をも射抜ききってしまう。

 

「調子、いいみたいね、伊角君」

 休憩時間、珍しく上位軍団といなかった伊角君を見つけて、ようやく声をかける。

「あぁ。今年で最後だからな」

「そっか。18だっけ、伊角君」

「そう。気張るわけじゃないけど、そろそろ合格したいしな」

 

 遠い。

 遠いよ、伊角君。

 私なんて、今年ももう絶望的。伊角君との直接対決までに、上位には食い込めないよ。

 

「頑張ってね」

「……奈瀬、今日、暇?」

「え、うん。手合わせが終了したら……」

 ……ヤダ。

 期待しちゃってる。

 どうして? あんなに誓ったじゃない。今は試験に集中するんだって。

「じゃ、一緒に帰ろう。俺、今日は早く終われそうだから、待ってるよ」

「うん」

 

 あれで気合入る私って、結構バカ。

 でも、せっかく一緒に帰れるのに、負けたなんて言えないよ。

 

「これでイーブンか。調子、上がって来たね、奈瀬」

「まぁね」

「じゃ、話しても大丈夫かな」

「何を?」

 ……やっぱり期待してる。

 彼が私を見てくれるなんて、私の妄想に過ぎないのにね。

「奈瀬、最近キレイになってるじゃん」

「そ、そうかな?」

「誰かと付き合ってるの?」

 付き合ってるよ、心の中で……あなたと。

「俺さ、その、院生追い出されるけど、その、何て言うか、奈瀬とはいつも会いたい……んだ」

 え?

 いすみくん?

「俺達の為にも、ここでスッパリ答えてくれないかな。返事待つのは互いに辛いし」

 ……待たせるもんですか。

 待たせませんよ、私は。

 

 飛びついて、一気に伊角君の唇を奪う。

 今日は予感がしてたから、チェリーピンクの口紅。

 これもだんだん私に合う色になってきた。

 誉めてくれたの、伊角君だったっけ。

 

「奈瀬?」

「明日美」

「明日美?」

「何、慎一郎?」

「……返事は?」

 朴念仁ッ!

「ファースト・キスだからね、今の」

 

 私の彼は朴念仁。

 でも、とってもいい人。

 どんなことがあっても、私の中の一番。

 だから、私は彼の一番になるために頑張るの。

 彼が果たせなかった夢を果たすために。

 

 遠いね、伊角君。

 プロへの扉が。

 でも、一緒に行こうよ。二人でさ。

 

「ただいま」

「おかえりなさい、あなた」

「はい、おみあげ」

「大好きッ」

 

 でも、プロじゃなくっても、私はいい。

 こんな会話ができて、いつでも一緒に囲碁が打てる夫婦になれるなら。

 遠くないよ、この夢は。

 ね、慎一郎♪

 

<了>