息苦しい
「♪せ〜つげ〜つか〜 虚ろ〜わないのが 恋〜心〜」
……頭にくる。
この調子っぱずれの歌は。「♪せ〜つげ〜つか〜 ひたす〜ら募るばかり〜 Ah〜」
「うるさいぞッ、トノムラッ」
シャワールームの扉を開けて、思いっきり怒鳴りつける。
俺の怒鳴り声に驚いたのか、トノムラのバカッ声が止んだ。「ノイマンさんのスケベ」
「このバカヤロウッ」
思わず腹が立って、扉を思いっきり閉めてしまった。
これだと、一体何のために怒鳴り込んだのか、わかりゃしない。
無意識に手をやっていた髪をかきむしると、俺は扉に背を持たせて、中へ話しかけた。「トノムラ、いい加減にその歌はやめろ」
「え〜、いいじゃないッスか。いい歌でしょ、コレ」
「歌詞が気に食わん。大体なんだ、その低い歌声は」
別に、トノムラの声が特別に低いわけじゃない。
むしろ男性としてのキーでは、トノムラの声は高いほうだろう。
まぁ、どこかの地球軍の薬付けパイロットには劣るだろうが。「女の曲だから、仕方ないじゃないですか」
「男なら、男の曲を歌えばいいだろうが。大体、いつの時代の曲なんだ」
完全な日本語の発音。
今や各国が共通語を使う時代とあって、極東の小さな島国の言語を操れるのは極少数だ。
もちろん、特務で技術語を操る際には、今もってこの言語を使う地球軍ではあるが。「旧世紀の遺物ですよ。知ってました? オレ、極東地方の出身なんですよ」
「ファミリーネームでそれくらいはわかる。俺が言いたいのは、騒音苦情がきているからだ」
「あ、ひどいなぁ。これ、名曲なんですよ。この、男と会っていても不安な女心を切実に謳い上げる……」
「うるさいッ。とっとと身体を拭いて、今すぐ寝ろッ」
長々と歌の意味を語りだしたトノムラの言葉を遮って、俺は扉から離れた。
シャワーの音が止み、再びトノムラの歌声が聞こえ始める。
今度はメロディーが変わったらしく、自由を下さいとかほざいているようだ。ため息とともにシャワールームを出た俺は、前から歩いてくる人物に敬礼をするために足を止めた。
俺の敬礼に気付いてくれたのか、彼女は足を止めて敬礼を返してくれた。「哨戒任務、御苦労。何か異変はあるか」
「トノムラが例の曲を歌っている以外は」
「またか。いい歌ではあるが、アイツの声ではな……」
そう言って苦笑する中尉も、何故かあの曲がお気に入りだ。
誰か好きな男でもいるのだろうか。
いや、いないからこそ、あの歌詞を気にいっているのかもしれない。「貴方を愛してもいいという自由だけを下さい、か」
「……中尉は、自由を望まれますか」
俺の言葉に、中尉はわずかに帽子のつばを持ちあげた。
それが彼女の視線を遮っていたのか、俺と彼女の視線がぶつかる。「私は、もっと会うなどと、ねだれる女ではないからな」
そう言うと、彼女は通路の向こうへと歩き去っていった。
何気なく追いかけてしまった視線を元に戻し、艦内の哨戒任務を終える。艦内を一周するだけでも、この艦は酷く疲れてしまう。
圧倒的な人員不足のためか、閑散としている艦内。
現地徴用の未熟なクルー達が多い各部署。
どれ一つとっても、舵を預かる両腕に、重圧を与えてくれるばかりだ。「ねだれる女か」
中尉の口にした歌詞が気にかかった。
あれは、既に心に思う男性がいるということなのだろうか。
もしかすると、相手は軍人ではなく、なかなか会えないことを心のどこかで不満に思っているのか。軍人であるがゆえに、中尉が外部の人間と会う時間は限られてくる。
そして、会話ですらも気をつけなければならないだろう。
気を使いながらの逢瀬に、心が休まるわけはない。「相手が俺なら……」
考えたところで、栓のないことだ。
彼女の恋人に名乗りを上げるには、階級や身分が違いすぎる。
幸運にも尉官に昇格したとは言え、操舵士では大尉がせいぜい。
退官して初めて少佐の二文字が見えてくる俺と、作戦司令部付で、将位を狙える中尉。
どんなに頑張ってみても、階級上で対等になる可能性はない。
ましてや、バジルール家の御令嬢と、普通の家に生まれた俺では、身分も違う。「俺なら、会いたいときにいつでも会えるのに」
貴方の副官の地位ならば、俺にも務まるでしょう。
少なくとも、この艦で中尉を支えられるのは、この俺以外にはいない。
中尉を引っ張りあげることは、少佐達にもできるかもしれない。
だけど、中尉を下から支えられるのは、俺にしかできない。
艦橋に戻れば、トールが難しい顔をしながら操舵管を握っていた。
トノムラはまだ休憩中で、オペレーター席に座っているのは、あのフラガ少佐。
俺は副操舵士席に腰を下ろすと、少佐の方を向いた。「御苦労様です」
「あぁ、そっちこそな」
「状況は」
「相変わらず。海の上を走っているって言っても、そう簡単に敵のレーダーにひっかかるもんじゃない」
そう言いながら、少佐は大きく背伸びをした。
「襲ってきたとしても、それは統制のとれないままだろう。砂漠のトラの影響は、少なくないぜ」
紅海へ出るために、葬るしかなかった敵軍の将。
あのときも幸運に助けられていたが、その幸運は今もなお続いているようだ。「暗礁地帯までなら、あと三時間ある。寝ておけよ、今のうちに」
「そうします」
そう答えて、座ったばかりの席から立ち上がる。
上司に休めと言われて、休まずにいれるわけもない。立ち上がって退出しかけた俺に、少佐はいたずら子っぽく笑った。
「そう言えば、バジルール女史の具合が悪いんだってな」
「そうですか。そういう話は聞いておりませんが」
「言えなかったんだろうぜ。さっきシフトから外されるまで、結構グッタリしてたからな」
あの中尉が?
ついさっき会った時は、まるでそんなことは感じなかったが。まぁ、少佐の話は、全てを信じるわけにもいかないだろう。
あまり信じすぎると、バカをみる破目になりかねない。俺のそんな戸惑いを見抜いたのか、少佐が何気ない仕草で立ち上がった。
その手にあったのは、小さなテープレコーダー。
無造作にスイッチが入れられると、雑音とともに聞き覚えのある音声が流れ出した。『……具合でも悪いのか』
『いえ。少……お休みにな…ては』
『ノイマンの奴が休憩してんだろ。俺がここにいた方が、艦のためだ』
『私も同じ…えです』
『いや、それにしたって顔色悪いぜ』
『化粧のせいでしょう』
『いや、唇の色がいつもよりくすんでるからな。そう思っただけだが』そこで音声が途切れた。
どうやら、少佐がスイッチを切ったらしい。「顔色は確かにおかしかったぜ」
「つい先程、通路で会話をしましたが、そのような素振りは……」
「頑固なんじゃねーの。お前に弱みを見せられねぇとか思ってんだろうぜ。大体お前、どこで会ったんだ」
「あっ」
そうだ。
普通に考えれば、艦内を哨戒中だった俺が、艦橋から戻る中尉に会うはずがないんだ。
しかもあのシャワールームへ向かうわけでもなく、中尉は見当違いの方へ歩いて行ったじゃないか。「思い当たるところでもあったみたいだな」
「はぁ……まさか、方向を間違えるほど弱っていらしたとは」
俺の言葉に、少佐が大きなため息をついた。
……何に対するため息だ?
「お前に会いにいったんじゃねーのか」
「まさか。俺は医者じゃありませんよ」
医務室の方向とも違う。
多分、何か別の用事があったんだろう。「忘れんなよ。いつだって鈍感なのは男の方なんだぜ」
フラガ少佐の言葉が、俺を戸惑わせた。
敏いとは思ったこともないが、鈍感と言われるほどの覚えはない。頭のハナテマークを手で押しのけて、俺は艦橋を出た。
わずかに揺れた艦が、俺の頭から疑問を振り落としてくれたようだった。
<了>