戦場の玉姫
1
「我々は、ラクス=クライン嬢を保護している。これより先、当艦に戦闘行為が及んだ場合、ZAFTのラクス=クラインに
対する責任放棄とみなし、この案件を当方のみで解決する」アークエンジェルの艦長であるマリュー=ラミアス大尉を完全に無視した、副官・ナタル=バジルール少尉の全周波宣言
は、それでもZAFT軍戦艦・ヴェサリウスの戦闘行為を止めさせた。
既に救援に駆けつけた筈の味方戦艦は撃沈され、アークエンジェルはラクス=クラインという人質を盾に、戦闘宙域から
の離脱を図るほかはなかった。「ナタル!」
艦長席から立ち上がって、マリューがオペレーター席のナタルを睨みつけた。
その視線を真っ向から受け止めて、ナタルが冷たく言い放つ。「我々は、アークエンジェルとストライクをここで失うわけにはいきません」
「わかっているわ」
「でしたら、何も仰ることはないでしょう」
「ナタル……!」
一時騒然とした艦橋内を、ナタルが見渡す。
既に操舵士であるアーノルド=ノイマンは進路を変更し、副操舵士である少年兵に指示を与えている。
ナタルからヘッドセットを返されたパルが静かに作業を開始し、CICから顔を突き出していたトノムラも、
小さくため息をついた後、CICの中へと姿を消した。「アーガイル弐等兵、アルスター事務官の娘を医務室……いや、士官用の個室が空いている。寝かせてやれ」
「は、はい」
ナタルの指示で、ずっと泣き続けている少女を支えていた眼鏡の少年兵が、少女の肩を叩いた。
荷物を運ぶようにして無重力の中で少女を連れて行く少年兵が姿を消した後で、マリューが再び口を開いた。「貴方、何をしたのか、わかっているのね?」
「艦長こそ、我々の任務を覚えていらっしゃるのですか?」
非難の色を隠そうともしない、艦内最高責任者の言葉に、ナタルは正面から反論する。
戦闘中よりも緊迫した艦橋内の空気に耐えかねたのか、副操舵士の少年兵が、隣のノイマンの袖を引いた。「ノ、ノイマン曹長……」
「気にするな。誰が何と言おうと、俺たちは生き延びる必要がある。それに、死にたいのか?」
いつもよりも無表情な表情を装い、前を見つめたままのノイマンがそう告げた。
告げられた少年が息を呑むと、その音が聞こえたのか、ノイマンは小さく苦笑した。「この艦には、何人もの民間人が乗っているんだ。彼らを死なすわけにはいかないだろう。
それに、少尉だって無理を承知で人質を取ったんだ。お前が悩む必要はない」「で、でも、やっぱ……艦長とか、マズイと思うんですけど」
ちらちらと背後の艦長席を気にしている少年の方へ身体を寄せ、ノイマンは副操舵士席のコンソールを叩いた。
「ほら、集中しろ。お前は、まだ未熟なんだからな。そこ、関数の入力値が違うぞ」
「え、あ、すいませんっ」
ノイマンの指摘に、少年が慌ててディスプレイを見つめなおす。
しばらくそのままの体勢で少年の動きを見守っていたノイマンは、背後で繰り広げられていた舌戦が止むのを待って、
操舵士席から立ち上がった。ノイマンの動く気配を感じた少年が振り返ろうとするのを、ノイマンは手で押さえつける。
「トール、お前は舵を取ってろ」
「は、はい」
「航路設定に従って動かすだけだ。速度は今の状態からやや落としても構わない」
「わかりました」
直接ハンドルで舵を取るノイマンと違い、副操舵士席からはプログラムを介してしか操艦することはできない。
それでも、普通の学生から副操舵士に就いたばかりのトールが舵を取ることは、非常に大変である。「ハウ弐等兵、くれぐれも索敵と周囲の状況確認報告を怠るな」
「はい、すいません」
ノイマンの指示に重ねるようにして、ナタルがオペレーター席に座る少女の仕事を再確認する。
少女の報告がトールへ届いていることを確認して、ノイマンは完全に操舵士席を離れた。
無重力の床を蹴り、アークエンジェルのトップ二人が睨みあう、艦長席の側へと移動する。「艦長、航路設定を変更しました。直線ベクトルでアルテミスへ向かいます」
敬礼をしながら報告するノイマンに、ラミアスは渋い表情を見せながら敬礼を返した。
「許可します」
「ありがとうございます」
二人のやり取りを見たナタルが、CICの方へと移動する。
既にトノムラとチャンドラという二人の下士官が、忙しそうに事後処理を行っていた。「トノムラ軍曹、シフトまで何時間だ?」
「二時間ですねぇ。まぁ、このファイルの処理は三十分くらいで終わりますけど」
答える間にも、トノムラの前のディスプレイは流れるように作業が進められていく。
元々は索敵手でありながらも、トノムラも元来からアークエンジェルに搭乗予定だった下士官である。
オペレーターの能力も群を抜いている。「今の状況ならば、奇襲をかけてくることもないだろう。三十分後には休息に入れ」
「わかりましたぁ」
声だけで返事をして、トノムラが笑顔を浮かべた。
ナタルはそんなトノムラから視線を動かし、もう一人の部下へ指示を与える。「ダリダ軍曹、燃料の再計算を頼む。引力磁場などを無視したコースでのロスを算出してくれ」
「了解しました。トール君のロスはどうされますか?」
「一般的なロスとして算出してくれ。軍曹はノイマン曹長と組んだ事が無かったな?」
「そうですが……」
口端を上げたナタルの表情に戸惑ったのか、チャンドラの表情が戸惑いの色を浮かべる。
その表情に更に笑顔を浮かべて、ナタルは自分の席を蹴った。「今にわかる。曹長の凄さがな」
チャンドラの視線を推進力に換えたかのように、ナタルの身体が艦橋内に浮く。
浮かんだナタルを右手で手繰り寄せ、ノイマンは通信士席に座っているパルを呼んだ。「パル、上がってくれ。艦橋には俺と艦長が詰める」
「OKです」
通信士席を離れたパルと入れ替わるようにして、ノイマンが上へと登る。
そして、カタパルトとして彼を支えたナタルを振り返り、自らの右手首を示した。
「少尉も、お休みになって下さい。これで連続、十六時間勤務になりますよ」
「……お前も、無理はするなよ」
そう応えて、ナタルがパルを追って、艦橋の外へと出る。
アークエンジェル随一のうるさ型が艦橋を去ったことで、艦橋内の空気が穏やかなものへと変わる。
その中でも最も濃い殺気が漂う艦長席には、ノイマンがしっかりと側に付いていた。
そのことに気付いたマリューが、大きくため息を洩らす。「……ふぅ」
通信士席に座り、ヘッドセットを付ける前のノイマンが、下を覗き込むようにして、マリューのため息を捉えた。
「申し訳ありません。勤務時間から、少尉の方が先に休むべきかと思いまして」
「そうね。でも、そのことではないわ」
「では、お疲れになりましたか?」
「いいえ。あなたのことを知りたくなったわね。あのナタルを黙らせる、あなたの正体を」
そう言って微笑を浮かべたマリューへ、ノイマンは小さく微笑み返していた。
「俺も、特務の人間ですから」
「それを言うなら、私もよ。それでも、ナタルを黙らせることはできないわ」
「……男だからでしょう」
そう答えて、ノイマンは身体を起こした。
ノイマンの動きに軽い拒否の感情を読み取ったマリューも、それ以上、追及するつもりはなかった。「頼りにしているわ、ノイマン曹長」
はっきりと聞こえている筈のマリューの言葉にも、ノイマンが返事をすることはなかった。
2
戦闘が終了して自機の整備が終われば、エースパイロットであるムゥ=ラ=フラガには仕事がない。
しかし、彼は日常業務と課している艦橋での息抜きを、一日とて忘れることはなかった。「よぉ、お疲れさん」
扉が開くと同時に発せられた能天気な声に、艦長席からきつい言葉が返される。
「大尉、お休みになられたらどうですか」
「先任大尉が、そういうわけにもいかないでしょ。結局、書類の決裁はオレの名前が要るんだしさ」
マリューの言葉をさらりとかわして、フラガは操舵士席へと身体を流した。
移動してきた彼の気配を感じたのか、副操舵士席のトールが小さく頭を下げる。
トールの挨拶に手で応え、フラガは操舵士席に手を付いて、艦長席を振り返った。「おい、ノイマン……て、お前、何でそこにいるんだよ」
艦長席の背後に見えるノイマンの姿に、フラガがそう尋ねた。
「今なら、いい実践の機会かと思いまして」
「そりゃかまわねぇが、そこでお前が休まなくてどうすんだよ」
「有事のためです」
「それこそいらねぇよ。今、連中が突っかけてくるわけねぇんだからさ。お前こそ休めよ」
そう言って、フラガがマリューに目配せをする。
それに気付いたマリューは少し考える仕草を見せてから、背後のノイマンを振り返った。「大尉の言うとおりだわ。今の間に、休息を取っておいて頂戴。さすがに、今は大丈夫でしょう」
「……では、そうさせていただきます」
上官二人の言葉に、ノイマンが席を立つ。
背中を向けて通路へと身体を流そうとしたノイマンへ、マリューは指示を付け加えた。「それから、アルスター事務官の娘さんの様子も調べてきてくれるかしら。そのまま、士官室で有事に備えて」
「……わかりました」
ノイマンが扉の向こうへ消えると、マリューが視線をフラガへと戻す。
その視線を待っていたかのように、フラガはニヤリと笑い返していた。「これでよろしかったですか、大尉」
「ん。まぁ、上出来じゃない? ノイマンも、一人部屋で眠ったほうが疲れが取れるだろうしさ」
「それだけとは思えませんが」
「あれ? オレ、何も言ってないけどなぁ」
そう言って鼻歌交じりに、フラガは操舵士席で前を向いた。
舵はトールが代わらずに取っているし、フラガがその席に座る必要性はない。
しかし、艦長席から唯一表情を読み取ることのできない空いている席が、操舵士席だった。「……大尉、後で教えていただけますね」
「ん〜♪」
上機嫌でそう答えた先任大尉に、マリューは小さくため息をついていた。
「どうしてこの艦の士官は、こうもひねくれ者が多いのかしらね……」
マリューの呟きをしっかりと聞きとりながら、フラガは目の前のディスプレイに。
そして、変更された航路図を、真剣な表情で宙図と照らし合わせていた。
3
艦橋を離れて食堂でおにぎりのセットを受け取ったノイマンは、ゆっくりと身体を漂わせていた。
実際のところ、ノイマンが休息を取れている時間は少ない。
そのせいか、身体は休息を求めないようになっていた。「フラガ大尉には気をつけないとな」
先程の艦橋でのやりとりを思い出し、ノイマンは真剣にそう呟いていた。
彼にとって、マリューのような技術畑出身の士官は扱いやすい上官である。
注意すべきは、歴戦の勇者であり、”鷹”の二つ名を持つ男だと感じていた。「まさか、すべて気付いているわけではないと思うが」
通路の端で手を付き、直角に通路を曲がる。
士官用の居住区には、ほとんど人気がない。アークエンジェルに搭乗している士官は、たったの三人。
先程使用するように言われた二人を入れても、計五人ほどしかいない計算になる。
しかも、そのうちの二人は艦橋でシフトに付いているのだ。おにぎりを口に加えたノイマンが通路を進んでいると、かすかな嘔吐の声が聞こえてきた。
人の気配すらしない静かな場所だったからこそ聞こえた嘔吐の声に、ノイマンの心当たりは一人しかいなかった。「少尉?」
通路の壁に手を付いて、身体の動きを止める。
左右を見回し、ノイマンが目を付けたのは、士官用のWCだった。壁を蹴って、加えていたおにぎりを飲み込む。
唇に付いた海苔を手の甲でぬぐい、手の甲をズボンの裏へ擦り付ける。
擦り付けた部分をさらに手で払いながら、ノイマンはWCの入り口へ顔を突っ込んだ。「少尉!」
排水口に屈み込んで嘔吐を繰り返していたのは、ナタルだった。
床に両手を付き、獣のような体勢で、口許だけが痙攣しているかのように上下動を繰り返していた。「ア、アーノルドか……」
「どうされましたかっ」
慌てて駆け寄り、ノイマンはナタルの背中を撫でていた。
他人の温かみが再び胃を刺激したのか、ナタルの嘔吐が繰り返される。「うっ……き、気にするな……胃洗浄を、飲んだだけだ」
「どうして胃洗浄なんか」
「ヴグっ」既に嘔吐物は液体だけになっていた。
それでも、ナタルの苦しげな嘔吐が止むことはない。
黙って背中をさすり続け、ノイマンは周囲を見回した。排水口の縁に見えたのは、鉛色の丸い痕。
かすかに漂う鉄の匂いが、ノイマンの疑問に答えていた。
その様子に気付いたナタルが、右手でノイマンの左手をつかむ。「も、もう、大丈夫だ」
つかまれた手を握り返して、ノイマンはナタルの身体を支えながら立ち上がった。
半身をノイマンにもたせかけ、身体を伸ばしたナタルが頬を引きつらせる。「すまない。助かった」
「いえ、構いませんが。どうして、胃洗浄なんか……」
ノイマンの質問に、ナタルがノイマンの胸元の服を引っ張る。
その意味に気付いたノイマンは、ナタルに振動を与えないようにして、ゆっくりと床を蹴った。重力下ならば歩かなければならない距離を、無重力を利用して、同じ体勢のままで移動する。
そうすることで、ナタルの嘔吐はおさまりをみせていた。「着きましたが……」
ナタルの部屋の直前で床に手を付き、ノイマンがナタルの顔をのぞきこむ。
「胸ポケットに入っている。開けてくれ」
「失礼します」
そう断りを入れてから、ノイマンはナタルの胸元に手を差し入れた。
カードキーを取り出し、扉の横に差し込んで扉を開く。
部屋に入って、やや奥まった場所にあるベッドの上にナタルを座らせ、ノイマンは念のために扉の鍵をかけた。鍵のかかる音を聞いたナタルが、大きく息を吐く。
「すまんな」
「いえ……ですが、話していただけますね」
「あぁ……胃洗浄を飲んだのは、どうも具合が悪かったからだ」
「それは、体調から来るものですか? それとも、別の何かですか?」
ノイマンの質問に、ナタルはやや間を置いてから、視線を外して答えた。
「医務室の連中の話では、ストレスからくる胃炎だそうだ」
「大丈夫なわけがないでしょうッ」
ナタルの告白に、ノイマンの声が一オクターブ上がる。
それに対して、すぐさまナタルの叱責がとんだ。「馬鹿者ッ。外に聞こえたらどうするッ」
「す、すいません……ですが」
「心当たりがあるとすれば、ラクス嬢の件かな」
「どうしてそう思われるのですか」
大分落ち着いてきたのか、ナタルはベットの上に座りながら、膝の上で肘をついていた。
それを見下ろしながら、ノイマンが眉をしかめる。
立ったままでいるノイマンに気付いたナタルは、右手で執務机の椅子を指した。「まぁ、座ってくれ」
「それより、具合はいかがですか?」
「大丈夫だと言っただろう。私を信用できないのか?」
怒り気味の声でそう答えたナタルに、ノイマンは小さく首を振った。
その仕草に、ナタルは眉をひそめて口を閉ざした。「身体よりも、気持ちです。そちらの具合を聞いているんですよ」
「……辛いと言ったところで、何かが変わるわけでもない」
「辛いですか」
答えないナタルに付き合って、ノイマンも口を閉ざす。
無機質な音を立ててまわる換気扇の音だけが、部屋の中の空気を震わせていた。
通路から聞こえてくる喧騒もなく、睨みあう様にして、座っているナタルと立ったままのノイマンの視線が交錯する。「……どうして、お前は私をいじめるんだ」
沈黙に耐え切れなかったのは、ナタルの方が先だった。
ついていた肘を外し、重心を後ろへと傾ける。
ベットのスプリングの反動で浮き上がったナタルの視線が、ノイマンの高さまで上がった。「いつだってそうだ。お前は、私をいじめたがっている」
「……そんなつもりはありません」
「だったら、何故、答えられそうにもないことを聞くんだ。お前なら、私の答えなどわかっている筈だ」
ナタルの視線の高さが、ノイマンの背丈を超えた。
宙に浮いたまま両手で顔を覆ったナタルへ、ノイマンが一歩を踏み出す。
伸ばされた手を振り払い、ナタルはノイマンに背中を向けた。その背後から、跳び上がったノイマンが背中越しにナタルを抱きしめる。
「少尉の答えなんて、俺には想像できませんよ」
「知らんッ」
ノイマンを突き放そうと、ナタルが両腕を後ろへと引いた。
脇にできた隙間を、ノイマンの腕が器用にすくう。
背中にピタリと合わせられたノイマンの胸に、ナタルは慌てて両腕を下ろそうとするが、男の腕力に不十分な体勢で抗うことは難しかった。
ナタルがそう気付いたときには、ノイマンの囁きが耳許をくすぐっていた。「ナタル=バジルール少尉」
「くっ……放せッ」
「放しません」
「上官命令だ、放さんかッ」
「それとも、過去の亡霊でも気になりましたか? 中国系で、俺たち共通の友人の仇のアイツの亡霊が」
「放せと言っているのが聞こえないのか!」
ノイマンの腕が、スッと前へ伸ばされる。
落ち着いていれば、誰でもすぐに身体を離せる筈だった。「艦橋の状況がわかっている軍人なら、少尉には誰も手を出さない。面と向かって刃向かってくることもない」
「黙れと言っているッ」「それだけに、誰も彼もが少尉の前では大人しくなる。少尉はそう感じているんだ。軍人だって人間です。
感情に流されることだって少なくない。実際に今まで生き延びてきた軍人だけが、少尉の必要性を感じている。
それだって、必要性でしかない。人間として必要としているのではなく、能力を必要としている。少尉は、そう感じている」ノイマンの指摘に、ナタルの顔が紅潮する。
「黙らんか!」
「少尉を失う事が、一体どれだけの事態を引き起こすか。それをわかっていて、見過ごすことはできません」
ナタルの背中が、ノイマンの胸からわずかに離れた。
それを受けて力を抜いたノイマンの腕に、今度はナタルの体重がかけられた。
二人して同じ方向を向いたまま、ナタルがゆっくりと足を下へ伸ばしていく。「ノイマン。今、この艦の責任者である女性の噂を聞いたことはあるか?」
「……グレムレス。機械悪魔の女、ですか」
記憶の糸を手繰り寄せ、ノイマンはナタルの問いかけに答えた。
ナタルの肩が、ゆっくりと力を取り戻していく。
ノイマンの腕を完全に抱き込み、ナタルはノイマンの腕にあごを乗せた。「まことしやかな噂が流れた事があるだろう。艦長の恋人が亡くなった直後から、AA計画の進行が遅れ始めたと」
「噂の域は出なかったと聞いています」
「大西洋連合だけの技術で無理があったことも、原因の一つだろう。
しかし、原因不明の事故が多発した時期が一致しすぎている」「それだけでは、理由にはなりませんが」
「私もそう思う。だが、民間人を乗せ、軍事機密を載せ、死ななくても良い人間が動かしているのだぞ、この戦艦は。
艦長が壊れるという仮定は、万が一にも許されん事態だ」「簡単に潰れるような人だとは思えませんが」
「あの”鷹”が、あれだけ熱心に艦長の元を訪れているのだぞ。艦長が心配だからに決まっている」
ナタルの言葉に、ノイマンは反論することを止めた。
男性としての本能と下心を、この上官に言っても無駄だろう。そう、ノイマンは感じていた。
「しかも、戦場における優先事項の喪失など、やはり技術畑の人間に戦艦の艦長は無理だったのかもしれん」
「しかし、少尉が代わるわけには……」
「いかんだろうな。仮にも大尉がいるのだし、技術畑の人間だからと言って、基礎を学んでいないわけでもない」
「それで、憎まれ役だけを買って出るというわけですか」
「それが一番、あの艦長を守れるやり方だ」
「でも、それで少尉が倒れたら、何にもなりません。この艦は、少尉の戦闘指揮で切り抜けてこられたんですよ。
もちろん俺の腕も自負はしていますが、少尉の指揮なしに、トノムラやチャンドラだけで乗り切れるわけがない」ノイマンの指摘に、ナタルの腕がノイマンを突き放す。
されるがままに壁へ飛ばされたノイマンは、頬を紅く染めているナタルへと微笑みかけた。「俺もトノムラも、チャンドラもパルも、能力だけではない、貴方自身を必要としています。無理に追い込まないで下さい。
少なくとも俺は、貴方がいてくれればそれでいい」ノイマンの告白に、ナタルの目が潤んだ。
「アラスカまで、辿り着いてからです。アルテミスで人員の補給ができる可能性もあります」
「ただの戦術指揮官に戻れるか?」
「わかりません。今後とも、お飾りの艦長を支えていく必要性がなくなることはないでしょう」
「それでは同じことだな。私が締めねば、この艦の組織は崩壊する」
そう言って潤んだ目をこすろうとしたナタルの手を、ノイマンの手が留める。
無意識に壁から跳ね返ってきたノイマンから身体をそらそうとしたナタルを、ノイマンは勢いのままに身体を押さえつけた。「血を吐いてまで、やり遂げなければならない任務ではないでしょう」
「任務などではない。生き残るためだ」
顔を背けようとするナタルのあごに手を添えて、ノイマンが微笑む。
「……次にこんなことになる前に、俺に話して下さい。いいですね?」
「わ、わかった。わかったから……放せ」
「無理」
ノイマンの拒否に、ナタルが背けていた首の力が緩んだ。
しかし、次の瞬間に、ナタルは後悔をしていた。「……いつもだ。お前にはいつも踊らされる」
「目は瞑って下さい」
ノイマンの言葉に従って、目の端に留まっていたナタルの涙がこぼれ落とされた。
流れる滴に見ないふりをして、ノイマンはナタルと唇をあわせた。
束の間の触れ合いが静かに終わった時、ナタルはゆっくりと体勢を預けた。ナタルに押されたノイマンの身体が、再び壁へと流れ始める。
今度は、二人分の質量を伴って。「重いだろう、私の身体は」
「軽いとは言えません。でも、価値ある重みです」
ノイマンの背中が壁に当たり、空気を失った風船のように、二人の身体が下降し始める。
先に床へ着いたナタルの爪先が、二人を壁へと圧迫する。「あと一時間だけ、このままでいい」
「すいません。もう少しだけ」
深く抱きしめたノイマンに抵抗することなく、ナタルはノイマンの肩に顔を埋めた。
シフトの交代時間まで、あと二時間。
心の傷を埋めるまで、あと何時間……。
<了>