油性


 名前だけ残った士官待機室。

 私は解放しようと思っていたのに、結局のところ、士官待機室はそのままの扱いになっている。

 そう、作戦司令室と名前を変えて。

「……それで、どのような話なのかしら」

 先に椅子に座って、私の後から作戦司令室に入ってきた男を振り返る。

 彼は書類を納めたファイルを手にしていた。

 しかし、彼は情報戦担当ではない。

 今は私の副官だけれど、人手不足を懸念して、報告は担当者から直接受けるようにしている。

「艦長にだけ、御報告しておくべき事です」

 私にだけ……。

 そう聞かされて、心の中で安堵の吐息をつく。

 正直、いきなりシャトルを貸せとか言われたら、どうしようかと思っていた。

 今ここで彼に退艦されると、この艦は全く戦力にならない。

 それ以前に、ここで死を待つだけになってしまうだろう。

「私にだけ、ね」

「フラガ少佐にも相談なさらぬように」

「心得ておくわ」

 彼も知っているように、今の私はムゥ=ラ=フラガという男性に頼りきってしまっている。

 一度は捨てた筈の、男性への依存。

 私の全てを受け入れてくれたムゥは、私にとって最も大事なものだ。

 無意識にムゥをつかむ腕が、私に女性として生きていることを思いしらせてくれる。

「ただし、内容については早急に答えを出していただきます。迷われる時間はありません」

「随分と無茶な話ね。今の私を知っていて、それでも?」

「俺では出来ないことですからね」

 ムゥには劣るけど、目の前の彼、アーノルド=ノイマンもいい男だ。

 ムゥのように華々しさや軽やかさはないけれど、寡黙そうで、決断力と実行力を兼ね備えている。

 ナタルのようなしがらみに囚われながらもがき続ける人間には、丁度いいタイプだろう。

「……話を聞かせて」

 私が先を催促すると、彼は一枚の書類を私の方へ示した。

 ちらりと見た限りでは、暗号を印刷した裏に、解読した文章が彼の字で書いてある。

 ただ、書類を渡してくれる気配はなかった。

「バジルール少佐が出撃しました。ブルーコスモスの中枢と接触して」

 あまりのことに、目が点になった。

 ナタルが……ブルーコスモスに?

「狙いの詳細はつかめず、少佐との連絡もこれが最後になるでしょう」

「ナタルが……ブルーコスモスに?」

 考えがまとまらずに、私は場繋ぎのために思ったことを口に出した。

 彼に心の中が読まれたのか、彼の表情が静かになった。

「オーブで戦った新型MS。あれがブルーコスモスのものだったのかもしれません」

「狙いは……フリーダム」

「戦闘経過報告書を読む限りでは、フリーダムに対する執着度が窺えます」

「この艦を追って来るということね」

 上層部はブルーコスモスに支配されていると見ていいだろう。

 ブルーコスモスがフリーダムに興味を示したとなると、私たちを無視するわけにもいかなくなる。

「バジルール少佐がここへ来ます。彼女が説得に来た場合……」

 不意に切られたセリフに、私はただ待つことしか出来なかった。

 退艦だけはしないで欲しい。向こうに行くなんて言わないで欲しい。

 彼の覚悟を疑ってしまう自分が情けなかった。

「貴方はどう動きますか?」

 尋ねられるとは思わなかった。

 私に下駄を預けようと言うの?

 ムゥに頼るなと言っておきながら、私に預けるの?

「か、考えさせてもらえる?」

 やっとのことで、そう言った。

 ナタル、貴方の男は残酷よ。別れたほうがいいわ。

 全てを知った上で、責任を私に押し付けるんだから。

「俺は突っぱねていただきたいと思います。ただし、口上は貴方自身の言葉で」

 ナタル、訂正するわ。

 彼は本当にいい男よ。

「それは、副官としての進言ととらえて良いのかしら」

「もちろん。地球軍を捨てたという真実を、今更曲げてもらっては困ります」

「……そうね」

 そう、最初から迷うことなんてないのだ。

 私たちは地球軍を捨てて、ここまで来たのだから。

 私が迷うことはない。既に答えは出てしまっているのだ。

 それをナタルが説得に来るという場面を利用して、艦の内外に再確認させることが必要なだけ。

「演説の原文、考えておくわ」

 ”茶番”という意味を込めて、演説と言ってみる。

 彼は私の意図に気付いてくれたようだった。

 上役の無茶な命令にも応える元特務の操舵士は、ようやく口許を緩めた。

「お願いします。今の艦長は艦のアイドルです。道を指し示す役割も担っていただきます」

「あのピンクのお嬢様ではなくて?」

「戦艦を動かしているのは大人です。大人を動かせるのは大人だけです」

 自尊心をくすぐるのが上手いわね、少尉。

 正直、あの歌姫様が戦局を変えることはできないだろう。

 あちらの艦を動かしているのは、砂漠の虎。

 クサナギを動かしているのはキサカ一佐だろう。あのお姫様はまだ全体の将としては物足りない。

 とどのつまり、戦姫・ジャンヌ=ダルクは私だというわけだ。

 綺麗な象徴ではなく、前線を率いるアイドル。血塗れのアイドルだ。

「私は構わないわ。でもね、貴方はそれでいいの?」

 あらあら、私にも余裕が戻ったみたいね。

 お節介かしら。

「ナタルとの別れは、既に済ませています」

「えっ……」

 別れてるの?

 今のナタルの出撃情報、ナタル自身から送ってきたものではないの?

「勘違いされているようですが、俺とナタルの関係は続いていますよ」

「でも、今の言葉じゃ……」

「進む道が分かれただけです。まだ、お互いに縛りあっている。それを関係とは言いませんか?」

 本当に年下だろうか、この男は。

 ナタルにしてもそうだったけど、軍人としては私よりもずっと上だ。

 彼らに支えられてきたからこそ、アークエンジェルは不沈艦だった。

「俺達のことは考えないで下さい。艦長が迷っていては、全軍の士気にかかわります」

「えぇ、わかっているわ。でも、本当に後悔だけはしないで。今の私が言っても、あまり意味はないかも知れないけど」

「えぇ、無意味です」

 ナタルといい、彼といい、私は副官に恵まれていないようね。

 あっさりと私をいじめてくれる。

 いいわよ、ムゥに慰めてもらうから。

「フラガ少佐を失った時は、どうぞ退艦なさって下さい。チャンドラを艦長に据えますから」

「どうせ依存してるわよ……貴方も相当に嫌味の上手い人ね」

 多分、大丈夫よ。

 ムゥがいなくなっても、表面上は仕事をこなせるわ。

 そう、きっと大丈夫。彼がいなくても、私は生きてきたんだもの。

「嫌味のつもりではありません。それぐらい、この艦は人がいないということです」

「誰一人欠けても、ね」

「いっそ、沈んでしまえばいいのかもしれません。不安定な艦など、友軍の足手まといになるだけです」

 今更ながら、トール君の死が響いてきている。

 ナタルの退艦なんて、もっと酷い。

 ムゥがいなくなった時、彼女らがいれば、目の前の彼に全てを任せることが出来たのに。

 ……狂えなくなっている、今の私。

 それは良いことなのか、悪いことなのか。

 いいえ、考えることだけ無駄なこと。

 ムゥは死なないから。トール君は死んだから。私は生きているから。ナタルは敵だから。

「まぁ、ナタルが沈めてくれるかもしれませんがね」

 そう言って、目の前の彼は小さく肩を竦めた。

 これがこの男の魅力なのだろう。

 あの鉄壁のナタルでさえも陥落させた、この男の。

「やはり、戦力差はかなりのものと判断しているわけね」

「対艦戦で、艦長がナタルに勝てると思いますか?」

「……いいえ」

「確かに、こちらの主要メンバーは特務を受けた人間です。ですが、彼女はこちらの癖とプログラムを知っている」

 あ、プログラムの変更指示を忘れていたわ。

 気付いていたのなら、教えてくれれば良かったのに。

「砲撃一つとっても、ナタルと艦長の指示の差は歴然です」

「……でも、向こうにはこちらほど優秀な操舵士はいないわよ。逃げ切れるわ、私たちが」

 これくらいしか言えない。

 本当、副官に恵まれないのね、私って。

「誉め言葉として受け取っておきます」

 そう言って出て行こうとした彼に、私は言葉をかけた。

「回避パターンのプログラム変更は済ませたの?」

「全て打ち合わせ済みです。ですが、攻撃系のプログラムは修正していません」

「貴方の判断ね?」

「はい」

「そう、ならいいわ。負けるわけにはいかないのよ。例え相手が、あのナタルでもね」

「見事な演説、期待しています」

 扉の閉まる音がして、私は部屋に一人残された。

 誰もいなくなった部屋で、私は端末を開いてワードソフトを動かした。

 誰かが来るまで待ちたかった。

 この空っぽの部屋が、私自身に思えたから。

 ナタルでもムゥでも、ノイマン少尉でもいい。

 誰でもいいから、私を寂しい部屋から外へ誘ってくれるのを待ちたい気分だった。

 

<了>