文字のない絵本


 

 束の間の帰国。

 最初は駐留軍に従軍するつもりだった私を、母さんと父さんは強引に帰国させた。

「客間だけど、自由に使ってくれてかまわないよ」

「ソワレさん、ありがとう」

 慣れない呼び方で母さんにお礼を言うと、母さんは笑いながら私の肩に手を置いた。

「無理しなくていいさ。ボクは母さんでかまわないよ」

「でも、変に思われるわ」

「その程度。大体、ボクに君のような年頃の娘がいると思うかい」

「それは、そうだけど」

 普通は、どう考えても私を産める年齢ではない。

 義理の娘というのならありえそうだけど、父さんだって、それほど歳が離れているわけでもない。

「軍の中の愛称だと、相手が勝手に誤解するさ」

「わかったわ。母さん」

 それでいいとばかりに微笑み返されて、私は意識的に、髪に手を伸ばしていた。

 久しぶりに水浴みをしたせいか、髪がサラサラだわ。

 セレナのように気を使うつもりはないけれど、平和な時間が続けば、手入れぐらいはしてもいいわね。

「二、三日、ここでゆっくりしてくれるかい」

「かまわないけど、母さんは」

「ボクには、少しだけやることがあるんだ」

「手伝えることがあるなら、手伝わせて」

 私がそう申し出ても、母さんは首を縦に振らなかった。

「これは、ボクにしかできないことだからね」

 何か、大事なことなのだろうか。

 私の疑問は顔に出ていたのか、母さんは小さく肩をすくめた。

「まぁ、それほど複雑なことじゃないけどね」

「そう」

「あ、これを渡しておくよ。これを見せれば、イーリスの軍の施設には自由に出入りできるはずだよ」

 そう言うと、母さんは証明書を渡してくれた。

 クロム王子の署名の書かれた証明書は、一目見ただけでもかなりの効力がありそうだ。

「ありがとう。これで、鍛錬もいつものようにできそうだわ」

「君の乗馬は、まだ怖いけどね」

「無理はしないわ」

「そうして欲しい。本当なら、フレデリクに教わるほうがいいんだろうけどね」

「父さんも忙しいもの。それに、私は母さんに教わりたいの」

「そう言ってくれると嬉しいな」

「間に合わせてみせるわ」

「期待はしておくよ」

 母さんはそう言って部屋を出ようと扉に手をかけたところで、私を振り返った。

「そうそう。君の祖母、つまりボクの母上が訪ねてくるかもしれない」

「どうすればいいの」

「ボクの部下だってことになっているから」

「わかったわ」

「それじゃ」

 母さんが出て行き、私は少ない荷物を片付けることにした。

 この世界へ持ち込んだ私物は少なかったし、従軍中に増えた荷物は微々たるものだ。

 あらかた片付け終えてぼんやりと窓の外を眺めていると、どこか母さんに似ている女性が顔をのぞかせた。

「デジェルさん」

「はい、何か」

 窓際から離れて女性を出迎えると、女性は嬉しそうに私を見上げた。

 母さんと印象が違うのは、背の高さがかなり違うからだわ。

「デジェルさん、ソワレのことをお聞きしたいのだけど」

「ソワレ……隊長のことを」

 急いで”隊長”と付け足して女性の様子を窺うが、不審に思われた様子は無さそうだ。

「えぇ。あの子、ほとんど帰ってこないものだから」

「申し訳ありませんが、貴女は」

「ソワレの母です」

 会ったことのなかった祖母様。

 母さんの母さんにしては、可愛い印象の女性だ。

「……何をお聞きになりたいのですか」

「そうね。あの子の日頃の様子とか」

「隊長……は、騎士として、常に己に厳しい訓練を課しておられます」

「相変わらずなのね」

「相変わらず、とは」

「この家には男の子がいないのよ。私が産めなかったの」

「では、この家の跡取りは」

「あの子しかいないの。それもあって、あの子は男でも女でも関係ないとよく言うようになったでしょう」

「そうだったのですか」

「それに、旦那様が”女にも騎士はいる”と、女騎士の活躍を描く絵本を読み聞かせたりして」

「では、隊長は」

「そうなの。ますます女騎士に憧れてね。もちろん、初めてで馬を乗りこなす才もあったのでしょうけど」

 そうだったのか。

 祖父様のおかげで、母さんは騎士を目指したんだ。

「あの……その絵本というのは」

「あぁ。多分、貴女は知らないものよ」

 確かに、絵本を読み聞かせてもらった記憶はない。

 記憶から消し去ってしまったのかもしれないけど。

「だって、その絵本は旦那様が特別に書かせたものなの。今はもう、バラバラにしたのではないかしら」

「そうですか」

「あ、ほら。貴女のすぐ後ろにかけられている絵がその一枚ね」

 予想外の言葉に、私は背後を振り返った。

 額に飾られているのは、どこか私の世界の母さんに似た女騎士の絵だ。

「あら、お気に入りの一枚だったのに、この部屋に飾らせていたのね」

 祖母様の絵を懐かしむ声を聞きながら、私は絵に釘付けになった。

「不思議なのよね。あの子、騎士の正面からの絵ではなくて、この背中から見える構図が好きだったのよ」

 多分、母さんも今の私と同じことを考えていたに違いない。

 騎士の背中が見えるということは、その背中に誰がいるということ。

 だから、絵の中の騎士は、その背中に誰かを守りながら戦っているのだ。

 誰かを守ることこそが騎士の本分なのだといっているこの絵が、母さんの中で理想の騎士なのだろう。

「……あら、随分と嬉しそうね」

「いえ。隊長の……ソワレさんの理想が見られた気がして」

「そう」

 祖母様は私の目を見て、穏やかに微笑まれた。

 その微笑みは、記憶の中の母さんとそっくりだった。

 

<了>