炊きたての感情


 外洋は揺れる。

 商船としてはかなり大型の船で、さらに揺れにくい船の底に近い部屋であっても。

 数日の間に見慣れた船室の壁に焦点を合わせた私は、隣の寝台が空になっていることにため息をついた。

 私が寝る頃にはまだ起きているのに、私が起きる頃には既に部屋を出てしまっているのだ。

「腹が立つわね」

 面と向かって言えるわけでもないが、正直、かなり傷ついているのも本当だ。

 私にまるで魅力がないとでも言いたげな、あの男の行動に。

 じっくりと時間をかけて着替えると、まるで着替え終わるのを見計らっていたかのように男が戻ってくる。

「いつまで寝てるつもりだ、お姫さん」

「船があちらへ着くまでよ」

「そりゃ、残念だったな。まだしばらくはかかるようだぜ」

「そう」

 何回も繰り返したやりとりを終えて、男は隣の寝台に腰を下ろした。

 無精髭が格好良くなってきたところなど、腹立たしいくらいに羨ましい。

 こちらはといえば、日に日に髪の艶が気になっているというのに。

「気分はどうだ」

「最悪よ」

「残ってりゃよかったんだよ」

「……どうして」

 何度目のやりとりだ。

 それなのに、私にはわからない。

 どうしてこの男が、私を残したがるのか。

「貴方を雇ったのは、この私です」

「安く買い叩かれたがな」

「十分、破格な報酬だったと思うけれど」

 傭兵の相場は知らないけれど、後でアレクが目をむいていたのだから。

 傭兵クラスなら、一個小隊が雇える額だとも聞いている。

「俺の人生が、たった一万だと」

「でも、貴方は期限をきらなかったわ」

 契約の書面も、この戦が終わるまでとしていたはず。

 アグストリアから場所を移したとしても、グランベルとの戦争状態が続く限り、契約は履行され続ける。

「ありゃ、お姫さんの側近の手柄だな」

 この男は嘘吐きだ。

 契約の書面は、この男から示してきたもの。

 私の部下であるイーヴは、この男の不器用な優しさだと言っていたけれど。

 嘘吐きに、優しさなど残っているわけがない。

「グランベルとの戦争なんざ、巻き込まれたらおしまいだ」

「あそこに残っていたら、何かが変わったとでも」

 私の問いかけに、男はいつものように肩をすくめた。

「こんな場所にいるよりは、よかったんじゃないか」

「そうかしらね」

 あのままノディオンに戻っていれば、どれだけの時間が稼げただろう。

 おそらく、グランベルの有力貴族のもとに嫁ぎ、幾許かの時を稼いで終わりだろう。

 とても、十年、いや、十五年の歳月は稼げない。

「十五年は無理よ」

「十五年……てのは、どういう意味だ」

 私の呟きを拾った男が、怪訝そうに眉をひそめて尋ねてくる。

「お兄様は、十三歳で戦陣に立たれたわ」

「……お姫さんは、十六だったか」

「そう。あと十五年もすれば、ノディオンは甦るわ」

「獅子の子か」

「今の私では、相手に取引のきっかけを与えてしまうだけよ」

「シレジアで何を変えられるんだ」

 一人の男を抜けられない状態にできる。

 そしてその男は、獅子の子を導く狼となる。

「シレジアに、グランベルを相手にする力はないぞ」

「長い外遊だと思えばいいわ」

「意味のない、お姫さんの珍道中か」

 ある意味では、そうね。

 獅子に憧れた少女が、狼へと変わるための旅路。

「旅のお供に、追加報酬は必要かしら」

「おいおい。まだ、前の契約が残ってるんじゃないのか」

「傭兵なら、追加報酬は望むところではなくて」

「あいにくと、俺は懐に正直なタイプでな」

 予防線を張り巡らせても、私には意味はないわ。

 だって、貴方は自覚しているはずだから。

 まずは、この身体を見せてみよう。

「貴方の人生を買うには、十分だと思うのだけれど」

 服に手をかけた私を、貴方は冷めた目で見つめてくる。

「そういうことは、堕ちきってから言うもんだ」

「堕ちきる必要はないわ。貴方は、アグストリアの英雄になるのだから」

「英雄ね。獅子王を殺しておきながら、か」

 この男も後悔をしているのだ。

 私にお兄様を説得させたことを。

 結果が予測できていながら、何故か許してしまったことを。

 お兄様の若さと、友に期待した男自身の甘さを。

「貴方の人生は、私のものよ」

「たった一万で売っちまったんだなぁ」

「買い戻すつもりなのかしら」

「なるほど。売っちまったものなら、買い戻せと」

 買い戻させるつもりはないけれど。

 新しい契約が必要だというのなら、喜んでこの言葉を口にしよう。

「私の人生をあげるから、貴方の人生を私に寄越しなさい」

「おいおい。それは一体、どこで読んだお話の台詞だ」

 残念ながら、船旅に本は欠かせないという事実がある。

 この台詞も、どこにでもある台詞の一つだ。

 それでも、どうせならば芝居じみた台詞で貴方を縛ろう。

「茶番を終わらせたければ、さっさと言葉を繋いでみなさい」

「やれやれ」

 ため息をついて、貴方は私の前に立つ。

 見上げた私の頬を押さえて、力強く頬をつねる。

 たまらずに抗議しようと立ち上がろうとして私の額を、男は的確に突いてきた。

 寝台へと逆戻りした私の額を指で弾いて、思わず目をつむってしまった私の唇をふさぐ。

「これで十分かな」

「……お釣りがいるでしょう」

「随分とお安いお姫さんだ」

 そう言いながらも私を抱きしめてくれた男の腕をつかむように、私は手を置いた。

「貴方は、いなくならないでね」

 失いたくないから。

 この温かみも、かすかな罪悪感でさえも。

 

 

<了>