朝の井戸水


「どうした」

「悪い。当たっちまったか」

「いや、かまわない。それより、何かあったのか」

「何も」

「そうか」

 レックスの隣に並んで、私は視線を遠くへ向けた。

 しかし、彼の見つめたものが何なのかわからず、私は首を小さく左右に振った。

「私にはわからん」

「俺にもわかんねぇよ」

「そうか」

「そうだ」

 朝焼けが始まるまでには、もうしばらく時間がかかるだろう。

 私はレックスの表情も読めないまま、彼が動くのを待った。

「……何か話でもあったのか」

「いや、敵襲に気付いたのかと」

「それなら、もう少し大声を出すな」

「一人で対処しようとしているのかと」

「俺がそんな男に見えるか」

「見えんな……すまん」

 私が即座に否定してしまったことに、彼は笑い声を上げた。

「謝るなよ」

「そうか」

「どういう男に見られているか、情けなくなってくる」

「そうか」

 うっすらと空が白み始め、朝の始まりが告げられる。

 ようやく表情が読みされるようになって、私は視線を隣の男へと向けた。

「……泣いていたな」

「さぁね」

「隠すようなことなのか」

「さぁね」

「そうか」

「そうだ」

 朝焼けに続いて、湿った風の匂いが鼻をくすぐってくる。

 大きく伸びをしたレックスが、首を鳴らしながらきびすを返した。

「雨が降るな」

「あぁ」

「一応、オイフェに言っておいてやるか」

「進軍の予定はないはずだが」

「そうだったか」

「居眠りでもしていたのか」

「そうだろうな」

「嘘吐き」

 私の最後の言葉には答えずに、レックスがそばを離れていく。

 私は繋ぎとめようとした言葉を、声に出していた。

「泣いていたのだろうが。愚か者め」

 彼は立ち止まらず、甲高い足音を残して姿を消した。

 私は背後を振り返らずに、そのまま朝焼けを見つめていた。

「誰も、お前を責めたりはしないさ」

 父に向けた刃は、愛した女を守るため。

 友に向けた刃は、裏切りではなく真実のため。

「嗚咽も漏らせぬぐらいなら、戦わなければいい」

 軍の後方で、支援部隊にまわっていればよかったのだ。

 そうしなかったのは、弱い己と向き合うことを恐れたから。

 手にかけることで、罪の重みで己を縛り付けるため。

「……アイラ」

 背後からかけられた女性の声に、私は朝焼けに背を向けた。

 声の主は、これから同じ道を辿ろうとする者だった。

「どうした、ティルテュ殿」

「泣きそうな顔で、レックスが歩いていったから」

「バカが一人で浸っていたのでな」

「涙も見せられないのよ、男の人って」

「そうか」

「そうよ」

 どこか似ている幼馴染たちの口癖に、私は不満を感じてしまう。

 その不満を、歩き出すことで意識の奥へと閉じ込めよう。

「イザークでは、男の涙は何で買えるの」

「涙は変える必要などない。泣きたいなら、泣けばいい」

「変化ではなく、手に入れるための代償よ」

「涙を買って、どうすればいい」

「ここにつけるのよ」

 そう答えたティルテュが、彼女の頬を縦になぞって見せてくれた。

 私は同じように頬を撫でたが、その意味はわからなかった。

「はぁ……理解できんな」

「女の涙はすべて嘘。泣きたい時には、男の涙を借りるものよ」

「私を薄情な女だと思うか」

 あの男に代わって、泣いてやれない薄情な女だと。

 泣くことを忘れた、悲しい剣士だと。

「いいえ。男の涙も奪えない、不器用な女」

「不器用か。私は、剣しか知らぬから」

「そう言って、男を追いこむのが好きなのね」

「悪趣味なつもりはないが」

 そう見えてしまうのだろうか。

 ……あの男にも。

「男の涙ぐらい、引き受けてあげなさいよ」

「あいにく、私の手は空いていない」

 剣と国で、両手がふさがっているのだ。

「そうかしら」

 先程の彼と同じように、私は彼女を場に残して立ち去ろうとした。

 その腕をつかまれ、私は足を止める。

「あたしは知っているの」

「何を」

「あたしが、アゼルのために死ねる卑怯な女だってことを」

「だから」

「もしもあたしが死にそうになったら、助けに来てくれないかしら」

「何故、私に頼む」

「貴女の手がふさがっているのなら、近寄ってきたところで叩き落としてあげようと思って」

 何のために。

「何のために」

「かわいそうな幼馴染みを助けるのに、理由なんてないわ」

 彼女の言葉に、私は左手をひらひらと、逆さまに振って見せた。

「これで満足か」

「どこまで意地っ張りなんだか」

「これも性格でな」

 そう答えた私に、彼女は吹き出していた。

「顔に書いてあるわよ。励ませなかった自分が恨めしいって」

「残念だ。自分の顔は見れないものでな」

「鏡で見てきたら」

「そうするとしよう」

 そう答えると、私は今度こそ彼女を残してその場を立ち去った。

 朝の井戸水で、顔を洗うために。

 

<了>