楽しい二杯目を


「どうかな、こういう店は」

「別に。興味はないわ」

「そうか」

 横を向いて窓の外を眺めているラクチェに、ヨハンは笑顔を崩さずにそう答えた。

 食事の最中から、彼は目の前に座るラクチェへ飽きることなく話しかけては、無碍にあしらわれていた。

「羊はイザークから導入された家畜の一つでね。まだ調理には至らない点もあるようだ」

「申し訳ありません。次にお越しくださる時までには、新しい料理をご用意しておきますので」

 メインの肉料理にさえ眉一つ動かさないラクチェには、ベテランのウェイターでさえも顔をしかめていた。

 ヨハンはウェイターに客との会話という仕事を与えつつ、ラクチェに笑顔を向け続けている。

「口に合わなかったかな」

「……別に。食事って、一緒にいる人も大切なのね」

「手厳しいね」

 ラクチェの言葉に大袈裟に肩をすくめ、ヨハンはウェイターを呼んだ。

「はい」

「あとはデザートかな」

「左様でございます」

「では、運んでもらえるかな」

「かしこまりました」

 夜空を見ていたラクチェが、ちらりと視線を動かす。

 彼女の視界の隅で、ウェイターが彼女の食器を片付けていく。

「……まだ、あるの」

「あぁ、すまないね。次のデザートでコースも終わりだよ」

「そう。早く帰りたいわね」

「もうしばらく、待っていてもらえるかな」

「仕方ないわね」

 ため息をつくラクチェに、ヨハンは笑顔のままグラスを傾けた。

 二人で飲むために開けたボトルだったが、ヨハンが口をつける程度で、その中身はかなり残されている。

「いいワインだったが、お気に召さなかったかな」

「別に。貴方と飲む気がしないだけ」

「それは残念だな。久しぶりに奮発したのだが」

「関係ない」

「まぁ、確かに」

 頬杖もつかず、顔をそむけ続けるラクチェに、ヨハンは心の中で喝采を送っていた。

 あまりにも意固地な態度を取り続けるラクチェに、彼は改めて惚れ直していたのだ。

「本日のデザートです」

「やぁ、何かな」

「本日はレアチーズケーキをご用意しました」

「ソースはラズベリーかな」

「はい。少し時期外れですが、いいものが手に入りましたので」

 鮮やかな赤色のソースが、白いレアチーズをより際立たせている。

 しかし、ウェイターが下がると同時に、 ラクチェの視線は窓の外へと向けられる。

「贅沢ね」

「そうだね」

「ケーキなんて、お祝いでもなければ食べられないもの」

「それは贅沢だ」

 ラクチェの言葉に同意して、ヨハンはケーキを口へと運ぶ。

 甘酸っぱいその味は、宮廷の味に慣れている彼にしても目を見張るものがあった。

「なかなかに美味い」

「そう」

「あぁ。贅沢な味ではないが、美味しいよ」

「私には似合いそうもないわ」

 ヨハンが半分ほど食べ終えるのを待って、ラクチェがケーキへと手を伸ばす。

 大ぶりに切り分けたケーキを、雑にならない程度の速さで食べていく。

「食後にお飲み物は」

 ラクチェが食べ終えるタイミングを見計らって、ウェイターが姿を現した。

「……いらないわ」

「かしこまりました。お連れ様は」

「そうだね。私はもらおうか……お任せするよ」

 ウェイターが一礼して下がると、ラクチェが前触れなく席を立った。

「もういいでしょ。先に帰らせてもらうわ」

「急ぐようだね」

「えぇ。こうしている時間も惜しいの」

「あわてても仕方のないことだよ」

「私は貴方と違って、偵察の任務を受けてこの街へ来たのよ」

「そうだったかな」

「そうよ」

 ラクチェが席を離れる前に、戻ってきたウェイターが素早くテーブルの上へグラスを置いた。

「おや、私の分だけでよかったのだが」

「厨房が作り過ぎてしまったようで」

「それはもったいない。どうかな、ラクチェ」

「いらない」

「そうか」

「えぇ」

 ウェイターへ会釈を済ませ、ラクチェが席を離れていく。

 入り口付近にいる仕事仲間へ合図を送り、ウェイターがグラスへと手を伸ばしたヨハンに頭を下げた。

「お力になれず、申し訳ありません。ヨハン様」

「私を知っていたのか」

「はい。ドズル家の公子様を知らぬ者はおりません」

「それは嬉しいことだね」

「後継者候補からは外れていても、時期が来れば欠かせぬ人材だと聞いております」

 ウェイターの言葉を聞き流したヨハンは、ゆっくりとグラスを揺らした。

「……これは、カルーアかな」

 グラスから上るその香りだけで、ヨハンはグラスの中身を推測した。

「ブラック・ルシアンでございます」

「ルシアンというと、ウォッカかな」

「はい。カルーアをウォッカで割ったものです」

「随分と甘いが、度数のありそうなカクテルだな」

「三十度強といったところです」

「あまり若い女性に出すのは感心しないね」

「口当たりはカルーアですから、若い女性にも好まれるカクテルの一つですが」

 ひとしきりカクテルの話題で場の時計を動かしたヨハンは、静かに席を立った。

「君は、彼女がどう見えたかな」

「トラキアの将軍のご息女でしょうか」

 ラクチェの黒髪からそう判断したウェイターに、ヨハンは楽しそうに笑った。

「イザークの姫だよ」

「それでは、部族の」

「いや、正真正銘、イザークの王女だよ」

 ヨハンの告白に、ウェイターの表情が引きつる。

 イザーク王家のことは、このドズル本国領内では禁句に近い言葉だった。

「ヨハン様……よろしいのですか」

「かまわない」

「いくらヨハン様でも、お戯れが過ぎます」

「私も理由無しに、宮廷で道化を演じているわけではないのだよ」

「ですが、今は時期尚早かと」

「私が酔狂で動いているという噂を、それとなく流しておいてもらおうか。セバストークさん」

「ご存知でしたか」

「ウェイター姿の支配人のいる店は、私の知る限りこの店しかないからね」

 自分の名前と素性を口にしたヨハンに、ウェイターが表情を消す。

「そのような噂話で、よろしいのですか」

「あぁ。そろそろ限界に来ているからね」

「それは、ヨハン様に残された時間でしょうか」

 グラスを空けたヨハンは、コトリとグラスを置いて席を離れ始めた。

「時代の流れは、神にすら止められないものだよ」

 そう言って立ち去るヨハンを、ウェイターが深く頭を下げて見送る。

「……親殺しが、神に認められるはずもないのだがね」

 寂しげに呟いたヨハンの目に、季節外れの雪がチラチラと舞っていた。

 

<了>