最後の円月刀


 戦争が終わったとしても、人の狂気と憎しみはおさまらない。

 勝者と敗者に振り分けられ、それを受け入れるまでにはかなりの年月を要する。

 ましてや支配者階級でありながら敗者へと振り分けられたとき、人はその憎しみを増幅させる。

 

「……シアルフィ公」

 空気の押し出されるわずかな音だけをさせて、静かに部屋の扉が閉められた。

 闖入者はしばらく薄闇に目を慣らさせると、音を立てずに長剣を鞘から抜き出す。

「香は効いているようだな」

 口許を布で覆い、呼気さえも隠した刺客は、ベッドの上のオイフェを見下ろす位置に立った。

 そしてオイフェの喉元へ長剣の狙いを定めた瞬間、背後から叩きつけられた殺気に、咄嗟に身体をひねった。

「そこを退きなさいッ」

 無抵抗に鼻先を掠めた剣戟が、刺客の口許を覆う布を剥ぎ取る。

 窓から入る月の明かりに浮かび上がった口許には、女性特有の艶やかさがあった。

「女……」

 動きの止まった闖入者の隙を突いて、刺客がオイフェへと狙いを定めなおす。

 そのことに気付いた闖入者が、伸ばされていた剣を手元へと引き寄せる。

 闇に慣れた女刺客の目は、余裕をもって相手の剣の動きを見極めていた。

「させるものかッ」

 横薙ぎに繰り出された剣戟をかわし、女はすり抜けるようにして退路となる扉を背中に確保した。

 今までとは逆にオイフェを背に護ることになったレイリアが、半身になって女を威嚇する。

「名乗りなさい」

「円月刀……護衛にしては珍しい」

 水平に構えられた刀の独特の形が放つ光を見て、女が口許を緩ませた。

「さて、本物かな」

 突き出された長剣の一撃を体捌きだけでかわし、レイリアの持つ円月刀の切っ先が下がる。

 次に繰り出される斬檄の軌道を予測していた女は、その動きが緩慢だったことに気付くと、小さく舌を打った。

「貴様の動き、演舞だな」

「さぁ……この場を賊の血で汚すつもりがないだけよ」

「シアルフィの踊り子……貴様、レイリアだな」

 刺客に名前を当てられたレイリアは、横に構えていた円月刀を慣れている縦向きに構えなおした。

「そうよ。この程度の香は効かないわ」

「踊り子風情が。シアルフィ公も落ちたものだ」

「貴女こそ、シアルフィの公爵を暗殺しようなんて、馬鹿な考えは止めなさい」

「死ね」

 レイリアに最後まで言わせず、女が長剣を突き出す。

 数回の太刀合わせの後、意図して遅らされた一撃を捌ききれず、レイリアの左肩に鮮血がにじんだ。

「踊り子の演舞など、タイミングを狂わせれば役立たずだ」

「……長引かせる余裕があったのかしら」

 悔し紛れのレイリアの言葉に、余裕を持った女が改めて殺気をまとい、呼吸を消した。

 冷や汗を背中に感じたレイリアの背後から、布団を跳ね上げる大きな音がおきた。

 音に女の注意がそれた瞬間、オイフェの声がレイリアを伏せさせる。

「レイリア、伏せろ」

 身体を低くしたレイリアの頭上を、オイフェの放った枕が刺客めがけて飛んでいく。

「くッ」

 白い羽を飛ばしながら枕を長剣で払った女は、追いすがる殺気を感じて咄嗟に後ろへ跳び退いた。

「次は首をはねる」

 女の頬に、赤い筋が浮かんでいた。

 わずかに視線を自分の頬へと向けた女が、長剣を構えなおす。

 対するオイフェも、使い慣れない円月刀を横に構えていた。

「まさか……香が切れたのか」

 信じられないといった様子の女に、オイフェの背後に移動したレイリアが種を明かす。

「踊り子に、香で勝てるのかしら」

「気付けの香か」

「他人の武器は、自分の武器よ」

 円月刀を構えるオイフェを一瞥した女が、袖口から白い煙を振るい出す。

「また香か」

「風上はこちらです」

 とっさに窓を開けたレイリアをかばうように、オイフェが移動する。

 その隙を突いて、刺客は扉を蹴り放っていた。

「その首、預ける」

 一瞬身構えたオイフェの隙を突いて、刺客は扉の向こうへと姿を消していた。

「……行ったか」

 オイフェが緊張を解こうとした瞬間、屋敷の中がようやく目を覚まし始めていた。

「オイフェ様、ご無事ですか」

 刺客の消えた扉から、慌てふためいた兵士が鎧姿のまま姿を現した。

「賊だ。女だが、長剣を持っていた」

「申し訳ありません。隣の詰所にいる兵士たちは、皆、薬をかがされているようでして」

「香だ。おそらく、暖炉に仕掛けられたのだろう。私も、レイリアの気付けがなければ危なかった」

「申し訳ありません、奥方様」

 レイリアに頭を下げた兵士に、レイリアは黙って首を左右に振って見せた。

「外の様子を確かめてくれ」

「かしこまりました」

 兵士を部屋の外へやってから、オイフェは自らの肩を抱くようにしていたレイリアの手を開かせた。

「剣に毒はないようだな」

 傷跡とレイリアの手の動きを確認しながら、オイフェが安堵の息をつく。

 自分を心配するオイフェに対して視線を伏せたレイリアは、気付かれないように手のひらを布で縛る。

「大丈夫です。掠めただけですから」

「だが、しばらくは衣装を考えたほうがよいな。肩の傷が隠れるようなものを選ばなくては」

「そうですね。窮屈なドレスは苦手なのですが」

「それも仕方ないだろう。それとも、誰もが納得するそれなりの理由を作ってしまおうか」

 そう言うと、オイフェは床に落ちていた円月刀の鞘を拾い上げた。

「君が身籠ったとか」

「子供の件でしたら、以前にお話ししたとおりです」

 円月刀を鞘に収めたオイフェの手元を見ながら、レイリアが肩の血を拭った。

 手のひらから流れ出た血と肩の血が混じり、もはや区別はつけられないだろう。

「円月刀を使う女など、貴方には相応しくありません」

「残念だな」

「御子の顔が見たければ、どうぞ妾をお娶り下さいませ」

 そう言って部屋を出て行こうとしたレイリアの手を、オイフェは力強くつかんでいた。

「どこへ行くのかな」

「部屋へ戻ります」

「今は危険だ。今日は部屋を変えたほうがいい。それ以前に、そばを離れるな」

「……部屋は変えます」

「今、君を一人にするわけにはいかない」

「私を狙う者など」

 そう言ってオイフェの手を振り解いたレイリアに、オイフェは静かな声でその足を止めさせた。

「君を護りたいという願いさえ、君は聞き届けてくれないのかね」

「……その言葉は、貴方に相応しい女性のためにあるのです」

 そう答えるレイリアに、オイフェは黙って円月刀を鞘ごと突き出した。

 まるで刀を取れというオイフェの行動に、レイリアが戸惑いながら手を伸ばす。

「……何ですか」

「この円月刀は君のものだろう」

「えぇ」

 レイリアの手が鞘をつかんだのを見て、オイフェは円月刀から手を離した。

「なら、今の君は、丸腰である私の護衛としてこの場にとどまる必要があるわけだ」

「本当……強引なのですね」

 ため息をつきながら刀を引き寄せるレイリアの耳は、駆けてくる侍女長の足音をとらえていた。

 あと数秒ほどの二人きりの時間。

「人が来たら、離れます」

 オイフェに身体を寄せるレイリアの耳は、廊下から聞こえる侍女長と護衛兵のやりとりを聞いていた。

 二人きりの時間が、もう少しだけ長くなりそうなことに喜びながら。

 

<了>