気付いてください
歴史書は知っている。
彼が誰に仕えていたか。人々は知っている。
彼が残してきた業績の凄さを。解放軍は知っている。
彼が味わってきた苦痛と喜びを。レンスターの仲間は知っている。
彼がこれまでに流してきた汗を。僕は知っている。
彼がこらえた涙の数を。
「おはよう。早いな」
「おはようございます、フィン様」
レンスターの近衛騎士をまとめる彼の朝は早い。
近衛騎士として誰よりも早く目覚め、近衛騎士としての任務に着く前に彼自身の訓練をするためだ。「今日もついてくるのか」
「はい。僕の目標ですから」
僕がそう答えると、彼は苦笑しながら了承する。
毎日のようなやりとりを終えた僕たちは、体の各部に異常がないかを確かめながら身体をほぐしていく。少しでも異常があるならば、日々の訓練をこなしてはいけないというのが彼の口癖だ。
型通りの訓練をするのなら、正しい動きを覚えるために、異常があることを隠してはいけないのだという。「昨日は戦闘がなかったが、哨戒任務には就いていたな」
「はい。深夜には交代しました」
「緊張の具合はどうだ」
「少し緊張していると思います」
兵士として、身体の筋肉の張りは感じられなくてはいけない。
今日の朝の動きはかなりスムーズで、身体の緊張は哨戒任務の時から続いているとわかる。「激しく動いても大丈夫そうだな」
「はい」
彼は身体のどこかに異常があっても、型通りの訓練をこなす。
それは彼のように完成された兵士だからこそ許されることで、僕のような若い兵士には許されていない。
許されていない間は兵士としての伸びしろがあると判断され、それを削ってしまわないために。
だから、僕たち若い兵士は将来のために我慢することを覚えさせられる。それはひどく辛いことだけど、凄く大切なことだ。
一度は崩壊したレンスター王国騎士団のベテランの騎士たちは、皆が一様に我慢することの大切さを説く。「今日は私が相手をしよう」
「ありがとうございますッ」
フィン様から直接指南いただける日は多くない。
戦時中だからこそ、この機会は大切にしなければならない。「鍛錬場へ行こうか」
「はい」
彼の後ろに続いて、鍛錬場へ向かう。
中庭ではイザークの剣士隊が訓練をしていて、長柄のレンスター兵士は鍛錬場を使用する場合が多い。
たまには野戦の練習があるけれど、それは団体訓練の時がほとんどだ。「おはよう、フィン」
「おはようございます、アルテナ様」
先に鍛錬場にいたのは、アルテナ様とその後衛兵の少女だった。
レンスターの王女様だったという彼女も、よく顔をあわせる方だ。
飛龍隊を率いる彼女は哨戒任務が多いため、毎日というわけではないけれど。「今日は相手をしてもらえるのかしら」
「申し訳ありません。今日はジャンと手を合わせる予定でして」
「そう。最近、よく伸びているようね、その子も」
「はい。見学なされますか」
「時間が合えばね。私も、あの娘の相手をするわ」
そう言って、アルテナ様は護衛兵のほうへ歩いていった。
僕がちらりと見た護衛兵は、軽く会釈をしてくれた。「さぁ、始めようか」
彼は一度だけ軽く木槍を振るって、僕を誘った。
僕は長柄の木槍を手にして、軽く感触を確かめる。「手加減は無用。存分にきなさい」
「はいッ」
手許をしっかりと絞って、叩き落とされないように突きを繰り出す。
狙うのは肩の関節と股関節。
半身になってかわされるとすれ違いざまに痛撃を食らうので、やや内側を狙って繰り出す。
単に急所を狙うだけでは、打撃の威力が弱くなる。
それに、関節を傷つけることができれば、相手からの攻撃は大きく阻止できるからだ。「いい狙いだ。だが」
余裕をもってかわされているかもしれないけれど、ここは圧すしかない。
踏み出された一歩には躊躇せず、圧力を加える。「前後の動きだけでは、少し足りないな」
そう言われた瞬間、僕の木槍が激しく左右にぶれた。
あわてて手元を絞ってみても、もう遅い。「手元を絞るだけでは、止められないな」
下から弾かれ、踏み込もうとしていた僕はあらぬ方向へ木槍を突き出してしまった。
「がら空きだ」
木槍を引き寄せるだけでは間に合わない。
僕は窮余の策で根元の部分を身体から離し、木槍の持ち手の部分で彼の槍を弾こうとした。「その判断は悪くない」
片手で木槍を操れるほどの握力を持たない僕は、完全に木槍を弾き飛ばされていた。
彼が力を込めずに、素早く木槍をさばいただけなのに。「そこまで」
割って入ってきた声に、僕はその相手を確かめる余裕すらなかった。
だが、彼は割って入ってきた声に微笑んでいた。「少し、張り切りすぎましたか」
「えぇ。そのようね」
緊張から腰を落として立てなくなっていた僕の頬の汗を、少し粗い布が拭いていく。
「そこまで本気を出す相手でもないでしょう」
「本気でなければ、相手を成長させることはできません」
「固いわよ、フィン」
あぁ、この方たちが僕の仕える人なんだ。
厳しくて、優しくて、暖かい。
誰にも負けない強さと、決してくじけない優しさ。「……大丈夫ですか」
「もちろん。ありがとう」
目の前にいた少女にお礼を言って、僕は立ち上がった。
いつか、彼に追いつくために、少しでも早く立ち上がれ。「フィン……左腕、どうかしたの」
「いえ。古傷です」
「医務班に見せなくても平気なの」
「心配は無用です」
どうして、彼はすぐに見抜ける嘘をつくのだろう。
そして、どうして彼女は見抜いていながら目を伏せるのだろう。「不器用すぎるわ」
耳元で呟かれた言葉に、僕は目を丸くしていた。
少女も気付いていたのだ。
彼と彼女の、見ていて苦しくなる嘘を。「僕が強くなれば、きっと変えられるさ」
「……私も、負けないから」
フィン様が安心してアルテナ様の隣にいけるように。
お二人の悲しくて寂しい笑顔を見なくて済むように。僕は、強くなるんだ。
<了>