スタンダード


 目の前が闇に閉ざされようと、動きを止めてはいけない時がある。
 闇雲に動くのではなく、自信を持って歩き続けなければならない。

 もはや前進しているのか、後退しているのかさえわからない。
 だが、立ち止まっていてはならないのだ。

「イシュタル様、出陣の準備が整いました」

「御苦労。留守居役、お前に任せる」

「はい。御武運を」

「あぁ」

 部下を下がらせ、再び机上の地図を眺め下ろす。
 周囲の雑音が消え、私は軽く息を整えた。

 もはや地図が目に入っているわけではない。
 この体勢で思考を巡らせている時が、一番効率よく計算できるだけだ。

「ティニーが裏切るとはな」

 解放軍の中に、ティニーの実兄が参陣しているという噂はあった。
 もちろん、それだけの理由であのティニーが帰順するとは思わなかった。

 噂の実兄の正体を探りに行かせたが、密偵は帰っては来なかった。
 その時点で、本物だと判断してもよかったのかもしれない。

 かつて皇帝の片腕になる男とまで見られていた男の息子。
 そして、あの母上がティニーを隠れ蓑にしてまで手許に残した男。

 それほど面識はなかったが、確かに聡明な瞳をしていた。
 だが、私よりも年下の少年に、何ができるものかと見くびっていたのだ。

「考えが甘かったと言われれば、それまでのこと」

 過去を悔やんでいる暇はない。
 だが、過去を悔やみたくなるのは何故だ。

 あの時、ティニーを行かせていなければ。
 あの時、母上の謀反心を察知することができていたならば。

「どちらにせよ、母上の手のひらの上で踊らされていたのか、私は」

 何故、私がバーハラへ赴くことに反対しなかったのか。
 私はただ単純に、ユリウス様の妃候補としての立場になることを母上が歓迎したものと思っていた。

 だが、実際には私との距離を置くことで、母上自身が動きやすくなることを期待していただけなのだ。
 ユリウス様の近くにいられることを喜んだ私は、そのことを見誤っていたのだ。

「ここまできて、後には退けん」

 もはや講和の道はない。
 母上は、最後に死という形で解放軍に協力した。
 フリージの残された将としても、ユリウス様の側近としても、私は出陣以外の選択肢を採ることができない。

「実の娘よりも、ティニーを選んだのか」

 いや、己に流れるヴェルトマーの血か。
 それとも、ユリウス様に与した私を見限ったのか。

「考えるだけ、無駄だな」

 外套を羽織り、部屋を出る。
 廊下で待っていた部下が、後ろに付き従いながら報告を始めた。

「イシュタル様。先鋒、出陣します」

「任せる」

 既に十二神将はすべてユリウス様の下へ送った。
 私が率いるのはフリージの私兵だけだ。
 戦況を覆すには、あまりにも少ない。

「深入りは無用。私の到着を待てと伝えよ」

「ハッ」

 私の命を奉げることに、意味があるのだろうか。
 もはや私の命一つでは、解放軍の進軍は止められない。

 ユリウス様の私兵に十二神将を合わせたとしても、解放軍に太刀打ちできるかは未知数だ。
 だが、フリージを継いだ者として、一戦も交えずにバーハラへ退くことも許されない。

「母上の凄さか」

 ティニーの実兄を解放軍へ参陣させ、ティニーをフリージの一族として解放軍に帰順させる。
 そのうえで自らを討たせ、私の帰順による講和という道筋を絶たせた。
 父と母を討たれながら、なお従妹に降伏するということはできない。

 私の性格まで読んだ、見事な演出だ。
 何故、母上は私を裏切ったのだ。

「負けるものか」

 母上にも、解放軍にも。
 私はフリージの最高傑作、イシュタルなのだ。

 神器の継承が叶わなかった兄上とは違う。
 闇に飲み込まれかけているあの方とも違う。

 平和な世を治めるために生まれたのではなく、嵐の世を治めるために生まれた闘将。
 母上の熾烈さと、父上の狡猾さを受け継いだ女王。

「出陣」

「本隊、前へ」

 乗り慣れない馬を下り、先鋒を追いかける。

 トールハンマーが、私の鼓動に応えてくる。
 この高揚感は、神器を継ぐ者だけに与えられた特権だ。

「私の相手は、シレジアの王子かな」

 圧倒的な魔力を持つ、シレジアの王子。
 これまでの情報では、シレジア王は軍師として最前線に立っていない。

 だが、これほど盲目の戦いが難しいものとは思わなかった。
 常に情報戦で優位に立ってきたからこそ、ユリウス様は勝利を収められていたのだ。

 その情報戦の主力となっていた者たちが、すべてヴェルトマーの旧臣であったことは間違いない。
 アルヴィス皇帝が討たれて後、彼らは一度も姿を見せていないのだから。

 暗黒教団に期待してはみたが、彼らは占いというあやふやなものを崇拝していた。
 占いという不確かなものでは、軍を動かすことはできない。
 宗教家というものは、所詮実戦向きではなかったのだ。

「まさか、ティニーが相手ではなかろう」

「ティニー様のことが、気になりますか」

「謀反人とはいえ、我が妹だ。気にならないわけがなかろう」

「先の攻防では解放軍の先陣を務められた様子。まだ信頼されているわけではないのでしょう」

「此度も先陣でくるのなら、一気に蹴散らす」

 ティニーが先陣を任されているのなら、それはこちらにとって好都合。
 従妹だろうと、勝利のためならば私はためらいなく討てる。
 それが母上の教えであり、貴族たるものの背負う業だと信じている。

 母上との一戦で、解放軍がティニーを試すのは教本通りだ。
 随分と甘いと聞いていたが、さすがにドズルの公子とは扱いを変える必要があったのだろう。

 忌々しい。
 何故、この戦場で推測に頼らなければならないのだ。

 密偵の損耗率さえ低ければ、もう少し情報が入るはずなのに。
 一体、いつからこれほどの劣勢に立たされたのかすら、判断するカードに乏しい。

「これがスタンダードな戦いか」

 盲目な戦場というものが、これほど悩ましいものなのか。
 これが私たちが蹂躙してきた者たちの味わった苦しさなのか。

 いや、負けるものか。
 私は戦神、イシュタルだ。

 

<了>