印象
その日、外は強めの風が吹いていた。
湿った風ではなかったから、嵐になるほどではないだろう。
気象に敏感な天馬騎士も、雨が降るとは言わなかった。「交代だ」
風にあおられる髪を気にしながら、青髪の弓騎士が見張り台へ上がってきた。
解放軍の修道女を妹にもつ彼は、迷惑そうに空を見上げた。「強い風だな」
「あぁ。嵐にはならずに済むらしいが」
「これで雨ならたまらないな」
彼の後ろから上がってきた剣士も、同じように空を見上げる。
しかし、彼は何も言わずに再び奥へと入っていった。「デルムッド殿は、どうしたのだ」
「セリス様に天候を確かめてくるように言われたらしい」
「なるほど」
だとすれば、実直な彼のことだ。
無駄な会話をせずに報告することを選択したのだろう。この二人はいつも同じように行動しているように見えて、その性格はまるで異なる。
立場の違いもあるだろうが、立ち去った剣士には何かまだ隠されたものがあるのだろう。「この風だと、においはすぐに消えるだろうな」
「おそらく」
私がそう答えると、彼は眉間にしわを寄せた。
公国で過ごした私から見ても、彼のその表情は様になる。
さすがは帝国の社交界を席巻していたといわれるエーディン公女のご子息だ。父親もかなりの美形と聞いている。
彼は妹の分まで、両親の容姿を受け継いだのだろう。「では、休ませてもらおう」
「あぁ。そうしてくれ」
見張り台を下りて城内を歩いていても、起きている人の気配がほとんどない。
風にさらされていた身体が微妙に火照りはじめ、眠気はまだやってこない。「やれやれ、困ったものだな」
寝静まっている中、鍛錬場で音を出すのもためらわれる。
誰かとすれ違えば会話で気を紛らわすこともできようが、その期待も薄いものだ。「仕方ない。一杯、いただくとするか」
あまり気は進まないが、アルコールを摂取するとしよう。
軽い摂取ならば、明日に響くこともないだろう。厨房で侍女たちを起こすこともためらい、私は誰もいないはずの酒蔵へ向かった。
酒蔵の中には小さなカウンターが作られていて、一人で飲む分には何の支障もないはずだ。「おや、先客かな」
「ヨハン公子……ですね」
薄明かりの中で私を言い当てたのは、銀髪の公女だった。
解放軍の中にあって、数少ない帝国側にいた少女。
それほど接点はなかったが、どことなく気にはなっていた相手だった。「ティニー公女か」
「えぇ。公子も、寝酒ですか」
「見張りを終えた後でね。少しだけ、欲しくなった」
「まぁ……ご苦労様です」
歩み寄ると、彼女はカウンターの中に立っていた。
そして彼女の目の前には見事な色を注がれたトールグラスがあった。「誰か、いたのかな」
「いいえ」
彼女はそう答えて、目の前のトールグラスに視線を向けた。
「似合いませんか」
「いや。失礼ながら、公女ご自身でお作りになられるとは」
フリージの公女ともなれば、自分で動くことなど少なかったはず。
だが目の前のカクテルは明らかに作り慣れた者のそれだ。「趣味……というより、必要な技術ですね」
「カクテルを作るのが、必要な技術だと」
「それとも、遺伝かもしれませんね」
そう言われて、私は記憶の糸を手繰った。
彼女の父親は、あのヴェルトマーのアゼル公子だったはず。
社交界でも噂を残した彼の娘ということも関係しているのか。「何か、お飲みになりますか」
「そうだな」
彼女が彼女の為に作っていたのは、ホーセズ・ネックか。
しかもグラスに映る色から考えると、ブランデー・ホーセズ・ネック。「それは、ブランデーかな」
私がそう言ってグラスを指すと、彼女は嬉しそうに微笑んでくれた。
「はい。ブランデー・ホーセズですよ」
そう言えば、彼女の父親のアゼル公子にはこんな噂があった。
あの社交界の華を、カクテル一つで黙らせたという。
それも、社交界にデビューして間もない少年でありながら。にわかには信じられなかったが、もしかしてという思いが私の中に芽生えた。
「誰かのためにというわけでもなく、また、君に似合うとも思えないが」
「よいブランデーが手に入ったから……ではいけませんか」
「ブランデー・バックにしないところに、意味を感じたのだがね」
一人で飲むのなら、レモンの飾り切りなんて不要だろう。
しかも一つのレモンを丸々使いきらなければ満足しにくいホーセズを作るのだから。
材料が同じなら、ブランデー・バックでも十分なのだから。「よくご存知ですね」
「これでも、元は帝国の公子なのでね」
「プレーンを作って差し上げたんです」
アルコールを飲めない幹部となると、数は極端に限られてくる。
その中で彼女との接点を考えれば、おそらくはシレジアの王子だろう。「では、私はよいブランデーの方をいただこうか」
「あまり上手には作れませんよ」
「かまわないさ。アゼル公子の血を継ぐ方に作っていただくカクテルならね」
私が少し挑発気味に彼女にそういうと、彼女は不敵な笑みを浮かべた。
それは私の見間違いではないだろう。
現に、彼女は私に背中を向けてグラスを選び始めたのだから。「父のことを、知っているのですか」
「噂程度にだが」
「ラナさんの母様とは、ずいぶんと楽しんだようです」
「華やかかりし頃の話だね」
「そうですね。今はこういう遊びも少ないのでしょう」
そう言いながら彼女が出してきたカクテルは、どうみてもニコラシカ。
グラスにブランデーを注いで、スライスレモンでふたをして、上に砂糖の山を作るだけ。
飲む方が口の中でカクテルを作るというカクテルだ。「なるほど。確かにこれなら腕は必要ない」
「えぇ。後はご自由に」
とはいえ、本当に腕のある作り手ならば、砂糖の量さえ測っているのがこのカクテルだ。
私はこれ見よがしにすべてを口に含み、グラスのブランデーをあおる。「少し、ブランデーの量が少なかったようですね」
「あぁ。だが、味は完璧だった」
「ブランデーがよいのです」
「いや、レモンの厚さと砂糖の量に合ったものだった」
作り慣れているのだろう。
平和な世の社交界では、素晴らしい武器になりうる。
フリージの公女は、なかなかの毒針使いだ。「物足りなければ、フレンチコネクションでもいかがですか」
「いただこう。だが、馬が待ちくたびれているのではないのかな」
私の言葉に、公女が微笑んだ。
「久しぶりですね、このような会話は」
「心地よい疲れが残る程度の遊びでなら、これほど楽しいものはない」
「そして、飲み干せなければ楽しさも半減する」
彼女はそう言うと、グラスの中身を半分ほど飲み干した。
それほど度数の強いカクテルではないが、彼女も飲めるのだろう。「あと二杯ほど、お付き合いください」
「私の頭も、その程度が限界だろうな」
「まぁ……ありがとうございます」
そう言いながら彼女が開けたのは、スイート・ベルモット。
少し麻痺し始めた頭で、私は次のカクテルの予想を始める。「次を当てれば、もう少し君を教えてもらえるのだろうか」
「さぁ……どうでしょうか」
グラスを取るために背中を向ける直前の彼女の唇は、何を呟いたのだろうか。
その答えを知る必要はなく、その答えに辿り着く必要もない。今はただ、この時間と空気を楽しめばよいのだから。
<了>