人差し指で
* 1 *
ヴェルトマー家を継いで三ヶ月。
徐々にしきたりにも慣れて、段取りの仕方もわかってきた。
そしてもちろん、この忙しさにも……。「慣れるわけねー」
とにかく、この忙しさだけは何とかして欲しい。
ひっきりなしに足されていく書類の処理だけでも大変なのに、やりたくもないパーティーに視察。加えて訪問者の謁見から、戦闘訓練という名の部隊整理まで。
これでもかというくらい、仕事が雪だるま式に増えていく。「フェイン、サイアスを呼んでこい」
「宰相殿でしたら、今日は教会に出向いていらっしゃいます」
「クソッ」
前公爵のアルヴィスの私生児だったサイアスも、今はヴェルトマーの宰相に就いている。
いつもは頼れる年上の従兄だが、決まって肝心なときにいないのだ。「なら、お前が代わりにサインしておけ」
「あ、あの……無理です」
「何だよ。公爵の命が聞けないって言うのか」
「そんな……」
泣き出しそうなフェインに、少しだけ憂さが晴れた。
侍従としては優秀でも、こういう機転が利かないのが嬉しい。「冗談だよ」
「は、はい」
それはそれとして、休みたい。
戦場を駆け回っていた昔のほうが、まだゆっくりできた気がする。そんな風に考えて、ふと未だに戦場となっている国のことを思い出す。
アグストリアの統一戦争は、まだ終結していないはずだ。「なぁ、アグストリアの情勢ってどうなってんだ」
「えーっと……」
フェインが棚を調べ、報告書を持ってくる。
こういう几帳面さはオレにはないものだから、すごく助かる。「未だ西部に独立国家が散在しています。アンフォニーには、旧帝国軍が集まっているとのことです」
「密偵は送ってあるよな」
「はい。この報告書もその者たちによるものと思われます」
さすがにヴェルトマーの隠密部隊は優秀だ。
昔からこの公国を支え続けてくれていた暗部の連中は、アルヴィスの命で国を離れていたらしい。体制が変わると同時に戻ってきた彼らのもたらす情報は、新生ヴェルトマーをこの上なく助けてくれる。
ただし、どこかで見たような顔がちらちらするのだけはいただけないが。「フェイン、紅茶」
報告書に目を通しながら、手持ち無沙汰になった左手を振った。
この手の書類は真剣に読むものじゃない。適当に流し読まないと、報告者の主観にとらわれるから。「あ、はい。すぐにお持ちいたします」
フェインが部屋を出ようとすると、侍女を連れたフィーが入ってきた。
侍女が押しているのは、紅茶とクッキーを乗せたカートだ。「アーサー、一休みしましょ」
「いいタイミング」
うーん、いいねぇ。
阿吽の呼吸ってやつかな。辛い公務を頑張れるのは、やっぱりフィーのおかげだな。
こうして時間になるとおやつを持って部屋にきてくれるフィーがいるから、何とかもってるんだよ。「アンタたちも飲みなさい」
「あ、ありがとうございます」
フィーの言葉に、フェインが恐縮しながら、侍女からカップを受け取る。
侍女たちの間では、初々しいフェインに人気があるらしい。
普通は公爵様が一番人気だろ。「はい、アーサー」
「お、どうも」
正式に式を挙げてからも、フィーは必ず自分の手で紅茶を入れてくれる。
これがいいんだよなぁ。
フィーが白くて細い手で、俺のために紅茶を入れる。
それを見ているだけで、残り時間も頑張ろうって気になれる。温かい紅茶を飲んでいると、フィーが手紙の束を机の上に置いた。
俺が目顔で尋ねると、一番上の手紙の差出人の名前を指す。「スカサハとユリア……珍しい」
「そろそろなんじゃないの」
「あ、結婚式か」
スカサハとユリアがセリス様の目を盗んで交際していたのは、周知の事実だ。
連名で手紙が送られてきたってことは、ようやく意地悪な兄様が折れたんだろう。「中、開けてみた?」
「こういうおめでたいものは、二人で見るのが決まりでしょ」
そう言うと、フィーがオレの背中に回る。
身体をピッタリとくっつけて、顔をオレの横に近づける。何でも、フィーの母親がこうして手紙を読んでいたらしい。
その父親があのレヴィン様だというのが、未だに信じられないけど。「開けるぞ」
「うん」
フィーの視線にせかされるようにして、封を開く。
中には結婚式の招待状と、ユリアが書いた手紙が入っていた。「……伯父上の墓前に添えてやらなきゃな」
「サイアスも呼んであげなきゃね」
一緒に暮らしたことはなかったけれど、ユリアもこのヴェルトマーの一族だ。
ことにサイアスにとっては異母妹になる。「何か、いいよな」
「あら、あたしたちももう一回、挙式する?」
「花嫁衣裳だけでいいや」
「いやよ。だって、あたしだけヒール履いたら、アーサーの身長超えちゃうもん」
そうなんだよな。
だから結婚式ではシークレットシューズだったんだよ。「うわ、嫌なこと思い出したな」
「ま、いい思い出じゃない」
そう言って、フィーが頬を合わせてきた。
冷たさと同時に、顔が熱くなるがわかる。無意識にやってくれるもんなぁ。
可愛いよ。可愛すぎるって、フィー。フィーの顔に手をやって口付けをかわすと、侍女が無粋な咳払いをする。
「奥方様、私どもの前でそのような御振舞いは」
「いいじゃない。シレジアでは、誰だってすることよ」
フィーのいうシレジアは、ほとんどレヴィン様とフュリーさんのことだ。
最近になってわかってきたことだけど、何でもありだったんだな、あのお二方は。「それでも、節度というものがございます」
「はいはい。アーサーが悪いんだからね」
「何でだよ」
理不尽なやり取りにそう言い返して、オレは招待状の日付を確認する。
一月後と書かれた文面からは、ようやくナーガの呪縛から解放されたユリアの嬉しさが伝わるような気がした。
* 2 *
「ねぇ、やっぱり拙いんじゃないの」
風になびく髪を片手で押さえながら、フィーが前を向いたまま尋ねてきた。
尋ねられても、もう遅いとしか言いようがないんだけどね。「何言ってんだよ。今から戻ったら、間に合わないぞ」
風にあおられたマーニャが傾いて、俺は思わずフィーの身体にしがみついた。
少し柔らかいような気がしたけど、これは仕方のない不可抗力だ。「ちょっと、変なところ触らないでよ」
「いいじゃん。もう夫婦なんだし」
「夫婦でも何でも、マーニャに伝わっちゃうから危ないのよ」
伯父上の陵墓に報告してから参列するというサイアスを騙して、オレたちは天馬でバーハラに向かっていた。
それも、解放軍に参加していたときの衣装のままで。言い出しっぺはオレだけど、フィーだって直前になるまで楽しそうに準備をしていた。
少し長くなりはじめていた髪まで切っちゃって、ノリノリだったくせに。「あ、見えてきたな」
「もう……知らないからね」
ここに来て文句を言い始めたフィーをつついて、マーニャを中庭へおろさせる。
既に集まり始めていた招待客が、何事かと俺たちを取り囲んだ。「……まったく、非常識だな。君たちは」
「お兄ちゃん!」
ローブ姿のオレを見て、真っ先にセティが口を開く。
そういうセティだって、身軽な略式軍装のくせに。「お前だって、軍装じゃないか」
「これから着替えるところだよ。遠目にマーニャが見えたんでね。また、何をやらかしたのかと」
天馬から下りて、セティとにらみ合う。
久しぶりに会う義理の兄は、また少し背が高くなったみたいだ。
俺は一向に伸び悩んでいるというのに。「いい余興だろ」
「あ、あたしは止めようって言ったのよ。なのに、アーサーが無理やり」
「あ、ひでぇ。フィーだってノリノリだってくせに」
「違うもんッ」
あぁっ、セティの視線が痛い。
私の可愛い妹に何しやがったって顔だな。「えーと……その」
「おふざけもそこまでです。さっさと着替えてくださいね」
今にも引き金を引きそうなセティの背後から、サイアスが姿を見せた。
ナイスフォローだ、従兄上。「はいはい。もう時間もありませんから、オープニングセレモニーはここまでです」
* 3 *
控え室用に与えられた部屋に入って、着替えを持ったフィーを侍女とともに奥へ下がらせる。
二人きりになった部屋で、従兄はオレを遠慮なく睨んできた。「まったく、ロクなことをなさりませんね」
「反省してるって。でも、目立ちはしただろ」
「後でしっかり挽回してくださいよ」
「心配すんなよ。きっちり決めるところは決めてやるって」
ため息を吐いたサイアスにそう言って、オレは予め入手しておいた楽曲表を見る。
一応はセリス皇子が主宰だが、バーハラのパーティーにヴェルトマーが関与していないわけじゃない。
さっきのおふざけだって、挽回できることがわかっているからできたものだ。「最初は挨拶まわりだな」
「そうですね。できれば、ドズル公には最後にお会いしてください」
「わかった。ユリアのところへ行くときは、お前も同行しろよ」
「承知しました」
いくつかの打ち合わせを終えたところで、深紅のドレスを着たフィーが部屋に入ってくる。
本当は純白のほうが映えるけど、花嫁を前に贅沢も言えない。「まったく、お兄ちゃんに怒られちゃったじゃない」
「ここから挽回するさ」
「次に何か起こしたら、関係なしに引っ叩くから」
信用ないね、オレ。
「公妃も、楽曲表に目を通しておいてください」
「はーい」
サイアスに言われて、フィーがオレの手の中にある表を覗き込む。
鼻先に漂う香りは、いつものフィーよりも少し香りがきつい。「バラか」
「まぁね。侍女がうるさくって」
「ヴェルトマーの伝統だからな」
「ま、たまにはいいわ」
緑色の髪に深紅のドレス。
そして香水はローズ系。どこか違和感があるけれど、伝統は重んじるべきものもある。
特に今回のように、ヴェルトマー健在を内外に示すには仕方のない場合もある。「なるほどね。フリージの楽曲を練習させたわけは、これね」
そう言って、フィーが中盤よりやや前に固められた、フリージ楽曲の群を指す。
グランベルの中でも最難関とされるフリージ楽曲は、今も踊り手は多くない。
ましてや戦乱の後となっては、指で数えるほどのはずだ。「ヴェルトマーの健在振りを示す、いい機会だろ」
「ティニーは当然踊れるわけでしょ。本当に意味があるのかしら」
「ティニーの相方はセティだろ。グランベルの楽曲は、さすがのセティだって不慣れだ」
「わかんないわよ。ウチのお兄ちゃん、天才だし」
たとえそうだったとしても、フリージに上手く踊られるのは織り込み済みだ。
それにティニーの評判が上がるのなら、オレは一向に構わない。「怖いのはヨハン公子だけど、誘いには乗らないさ」
「まぁ、普通の相方じゃあ、その方が賢明か」
「なら、公爵家でこれを踊りきれるのはヴェルトマーだけになる」
「上手い具合に、そこまで注目されるかしら」
「されるさ。そのために、ド派手に登場してやったんだから」
何も考えなしに余興を演じたわけじゃない。
そこの部分はしたたかにさせてもらってますよ。そう言って口端を上げた俺に、フィーがため息を吐いた。
ただ、肩をすくめているところを見ると、呆れたというよりは負けたって感じだな。「先に行くわよ。みんなと話したいこともあるし」
「あぁ。はしゃぎ過ぎないでくれよ」
「アーサーじゃあるまいし。それじゃ、お先」
先に出て行ったフィーを見送って、オレはサイアスと軽く手を合わせた。
「舵取り、よろしく」
「ボロだけは出さないでくださいよ」
そう言うサイアスの目だけは、まったく笑っていなかった。
「お前こそ、とちんなよ」
「ご心配なく。貴方とは違います」
まったく、いつまでたっても怖い従兄だこと。
少しくらいは頑張ってる従弟を信用するもんだぞ。
* 4 *
パーティーが始まれば、少し不機嫌なセリスと、対照的に華やかなユリアの下に人が集まる。
初めはセリスと妹を奪われた会の会員として話をあわせ、頃合を見てユリアへと挨拶に向かう。
奇しくもタイミングを計っていたらしいヨハンと鉢合わせするが、これも想定内だ。「おめでとう、ユリア」
「ありがとうございます、フィーさん」
「いいよねぇ、ユリアは。スカサハみたいな真面目な人と結ばれて」
「なぁ、トゲがないか」
「胸に手を当てて考えなさいよ」
フィーに言われるとおり、胸に手を当てる。
ここは軽い道化を演じて場を和ますだけで十分だ。「ないな」
「出直してきなさいッ」
フィーの張り手を空振りさせて、サイアスを前へ押しやる。
ユリアがヴェルトマーの血筋だってことをわからせるには、一番の切り札だ。「おめでとうございます、ユリア様」
「ありがとうございます、サイアスさん」
「亡き父も、喜んでいらっしゃるでしょう」
「そうでしょうか。そうだと嬉しいのですけれど……」
策は我にあり。
ユリアを最初にダンスホールへ招くのは、ヴェルトマーだ。
異母兄であるサイアスの誘いなら、ユリアも受けないわけにはいかないだろう。「不躾なお願いではございますが、最後に一曲、踊っていただけますか」
「サイアスさんと、ですか」
「えぇ。妹を手放す兄として、スカサハ殿に渡すのも惜しく感じまして」
「まぁ……わかりましたわ」
花嫁をエスコートするサイアスに軽く頷いて、俺は先手を取った相手を探す。
しかし、意外にも彼は俺の目の前で微笑んでいた。「アーサー公、お見事」
「そっちこそ、無理に入ってこなかったな」
ユリアがダンスホールへ向かい、人気の薄くなった場所でヨハンと並び立つ。
体格だけはどうしようもなく、俺は自信を持って顔を上げる。「サイアス殿を出されては、こちらとしても退かざるをえません」
「そこは読ませてもらったからな」
「筋を通すことがドズルの流儀でして」
「大した家訓だ。ウチとは違うと言いたげだな」
「炎のように冷静に猛るのがヴェルトマーの家訓ですか」
公爵家だの、何だのと、俺たちには関係ない。
ヨハンの表情がそう言っていた。よくよく考えれば、ヨハンだって旧臣を抱えながらの船出だった。
俺たちの考えは似通っているのかもしれないな。「いや、炎のように艶やかに、雷のように速く、風のように包み込むのが我が家の家訓でね」
そう言い切った俺の隣に、笑顔のフィーが並んでくれた。
俺たちと並ぶように、ヨハンが娶ったというドズルの貴族の娘がヨハンの脇に立つ。密偵の調べでは、ヨハンがイザークの城主だった頃からの許婚らしい。
棒術の使い手で内政にも通じているという、なかなかにできた娘さんだ。今の立ち位置一つ見ても、さすがに貴族の娘さんだ。
ヴェルトマーの諜報員は些細な人物まで詳しく調べているようだ。「なるほど。いい嫁さんだな」
「単身イザークに来るような、無茶もするがね」
「そこはお互い様か」
差し出された手を握り返して、目の前の情報と資料の中の情報を突きあわせる。
報告書にあった、棒術の使い手というのは本当のようだ。
理知的な瞳は本物だし、控えめでいながらもその存在感は褪せることがない。まぁ、ウチのフィーにはかなわわないだろうけど。
それなりに認めてあげようじゃないか、ドズルの公爵夫妻も。「今宵の宴、楽しもうではないか」
「あぁ。貴族の楽しみ方で、か」
「言うまでもない」
踵を返したヨハンの背中を護るように、ヨハンの妻が付き従う。
こんな一瞬でさえ、列席する貴族たちの目には勝負に映る。妻を従えるヨハンと、妻と並び立つ俺。
どちらが勝利したかはわからない。
けれど、確実に優劣をつけている輩は存在するのだ。「面倒くさいわね、貴族って」
「あぁ。だけど、変わらないものもあるさ」
そう言って、俺はフィーの手を握った。
もちろん、ダンスホールへ向かうため。「さぁ、踊ろうぜ」
「はいはい。練習の成果を見せてあげるわよ」
楽曲は既に把握済みだ。
ヨハンの姿も確認した。さぁ、ここからが第二幕だぜ。
<了>