何も出ません


 約束の時間は過ぎちゃった。

 久しぶりに気分も乗ってて、たくさんいいことしてあげようと思ってたのに。

 時計を見れば、もうすぐ二時間は経っちゃう。

 これは罰としておあずけにしちゃおうかな。

「ふぅ……ごめん、遅くなっちゃって」

 そう言いながら入ってきたアゼルを見て、あたしはびっくりしちゃった。

 いつもの赤いマントじゃなくて、まるで純白のファーマントを着ているみたいだった。

 もちろん、薄っすらと透けて見える赤い色が、本来のアゼルの着ているマントだとわかる。

 一体、どれだけ外にいたらそんな雪だるまみたいになっちゃうのよ。

「ほら、早くマントを脱いで」

「うん」

 暖炉の薪を多めに入れ直して、アゼルを振り返る。

 てっきりマントを脱いだと思っていたアゼルは、まだ白いマントを羽織ったままだった。

「何してるの。風邪、引くわよ」

「うん。それが、手先がかじかんじゃって」

 あぁ、そういうことね。

 だから何度も、マントの留め具をカチカチやってるんだ。

 そういうことなら、早く言いなさいよね。

「ほら、じっとしてて」

 アゼルの手を下ろさせて、あたしはアゼルのマントの留め具に手を伸ばした。

「わ、冷たい」

「ごめん」

「いいから、早くあったまろ」

 溶けた雪を吸い込んでじっとりと重くなったマントを打ち捨てて、あたしはアゼルを暖炉の前へ押しやった。

 アゼルは何度か身体を震わせて、ようやく暖炉の暖かさに慣れたみたいだった。

「ふぅ……ありがと」

「どうしたのよ、一体」

 午前中から出かけてるのは知ってたけど、こんなになって帰ってくるなんて。

 今日のあたしは一日中室内にいたから、外がどんな天気かは知らなかったけど。

 それでもこんな格好で帰ってくるなんて、普通じゃ考えられないわ。

「レヴィンに頼まれて、測量の実地検分に行ってきたんだ」

「今日、外の天気はどうだったの」

「午前中はそうでもなかったんだけど、午後からだんだん雪がひどくなっちゃって」

「だったら、さっさと帰ってこればよかったのに」

「あと少しと思ってるうちに、帰れないくらいになっちゃってさ」

「昔から、アゼルってそこが抜けてるのよ」

 いつもそうだ。

 アゼルって、貧乏くじを引きやすいように生きてるのよ。

 まぁ、あたしがいるから、そんなにひどいことにはさせないけどね。

「約束してたのに、遅くなっちゃってごめん」

「いいから。早く温まって」

「うん」

「紅茶、入れるね」

 最初に用意しておいた紅茶は冷めちゃって、もう飲めたものじゃない。

 だけどお湯さえ沸かせば、侍女に使いを頼まなくても大丈夫。

「さ、お湯を沸かさないとね」

 ヤカンに冷めたお湯を入れ直して、暖炉の上へ置く。

 シレジアの暖炉は上の部分が薄い鉄板で覆われていて、すごく便利。

 これ、フリージに帰ったらお父様に言って、作ってもらいたいくらい。

「ようやく温かくなってきた」

「いくらレヴィンから言われたことだって、シレジア人とあたしたちじゃ、寒さの耐性が違うわよ」

「途中から馬が動かなくなっちゃって」

「それで歩いて帰ってきたの。バカね、宿ぐらいあるでしょ」

「測量地は街から離れたところだったから」

 そこからアゼルの話を聞いてるうちに、ヤカンから湯気が上がり始めた。

「お湯が沸いたわ。紅茶、飲むでしょ」

「うん。ありがと」

 お湯の沸いたヤカンを持って、毛布に包まっているアゼルから離れる。

 少し冷ましてからでないと、紅茶の葉が傷んでしまうもの。

 大変なことをしてきたアゼルには、少しでも美味しい紅茶を飲んで欲しいし。

「まったく、損な性格よね」

 昔からそうだ。

 アゼルは人のものを頼まれると、絶対に嫌とは言わない。

 だからあたしもよく頼みごとをしたりしちゃったけど、いつだって引き受けてくれた。

 別にその優しさに惹かれたわけじゃないけれど、あたしはいつもアゼルのそばにいた。

 だって、あたしがいないとどうなるかわかんないもん。

「もういいかな」

 まだ少し熱いけど、身体の芯から温めてあげないといけないし。

 いつもより少し熱めの紅茶を入れてアゼルのところに戻ると、アゼルはこっくりと身体を前後に揺らしていた。

「アゼル」

 呼びかけても返事がない。

 顔を覗き込んでみたら、暖炉の前で眠っちゃったみたい。

「もう、何よ」

 疲れてるのはわかるけど、彼女の前で先に寝ちゃうなんて。

 こっちは色々準備までしてたっていうのに。

「先に寝るなんて、反則よ」

 アゼルのことだから、あたしの前では無防備なんだろう。

 この寝顔を見ていると、それだけは信じられる。

「こんなところで寝たら、風邪ひくぞー」

 頬を突付いてみても、反応は無し。

 本格的に寝ちゃったみたい。

 アゼルの身体ぐらいなら、ベッドのそばまで運ぶくらいはできるかな。

「まったく……」

 毛布をはいで、わきの下に腕を差し込む。

 さすがに男の人の身体になっちゃってるけど、引きずるぐらいなら大丈夫。

 引きずってる間に起きてくれればよかったのに、アゼルは本格的に寝息を立て始めちゃった。

「よいしょっ……と」

 ベッドの上に引きずり上げて、改めて毛布をかけてあげる。

 紅茶も無駄になっちゃったけど、今日はゆっくり寝かせてあげようかな。

「あ、そうだ」

 これぐらいは許されるよね。

「おやすみ、アゼル」

 寝ているアゼルの頬に頬を合わせて、おやすみなさいの挨拶。

 それと、ちょっとだけ意地悪をしてみたくなる。

「乙女の気持ちを踏みにじった罰」

 唇に乗せていた紅色を指でこすり落として、アゼルの額につけてあげる。

 明日の朝も、何にも言わないでいておくんだ。

 朝食のときに誰かに見つかって、一杯からかわれたらいいのよ。

 記憶なんてないのにからかわれるアゼルが見れたら、今日のことは許してあげる。

「おやすみ、アゼル」

 聞こえてはいないだろうけど、最後にもう一度だけ言っておこう。

 アゼルの隣で寝てあげるんだから、感謝してよね。

「足、冷たいね」

 毛布の中でアゼルにつかまりながら、あたしはゆっくりと目を閉じた。

 まだもう少し眠れそうにはないけれど、アゼルを温めてあげるから。

 明日の朝まで、おやすみなさい。

 

<了>