敗者として


 私は敗れた。

 セリス皇子と敵対し、彼と内通したヨハルヴァの手によって捕えられた。
 イザーク城は無条件降伏し、セリス軍を迎え入れた民衆によって部下たちは殺された。
 惨めに逃げのびていくかつての部下の家族を見ながら、私は何もしてやれなかった。

 イザークの民は、未だに私たちに心を許してはいなかったようだ。
 随分と融和のための施策を行ってきたつもりだったが、私の見通しが甘かったと言わざるを得ない。

 更にはヨハルヴァと交わしていた密約が反故にされ、私は一人、牢獄の中に押し込められた。
 牢獄に入れられてすぐ、解放軍が父を倒したということだけは噂で聞いた。
 もはや、このイザークの地でドズルを慕う者などいなくなっているのかもしれない。

「……朝か」

 牢獄の窓から入ってくる朝日を受けて、私は横たえていた身体を起こした。

 既に牢獄に入れられてからの日数を数えることは止めた。
 もはや時間の感覚さえ失い始めた私に、日付などはどうでもよくなっていた。

 ただ朝日とともに身体を起こし、貸し与えられた机に向かうだけの日々。
 イザークのためにと私の施政していたものを書き綴っていたが、もはや紙くず同然だろう。

 それでも書き残さなければならないと思うほど、私は愚かな人間らしい。
 うずたかく積み上げられた紙は、一度だけ半分ほどに減ったことがあった。

 珍しく食事を運んでくれたラクチェが、紙の山に興味を示したときだ。

 正直なところ、彼女に理解できる代物ではない。
 だが、返された紙のところどころに線が引いてあるところからして、彼女は律儀に読んでいたらしい。
 そのようなことができる彼女だからこそ、私は彼女に惚れていたのだろう。

「おい、食事だ」

 セリス軍の本体がイザークを離れてから、既に何ヶ月も経っているはずだ。

 看守たちの噂を聞くしか、今の私には外界を知る術はない。
 けれど正規の訓練を受けたことのない民兵に、看守としてのありようがわかるはずもない。
 時には私に乞われるままに外界の情報を漏らしてくれる。

「ありがたい。今日は何かな」

「芋の収穫が終わったところだ。芋がゆだよ」

「ほぅ。これは珍しい芋の種類だな」

 湯気の立つ芋がゆの入った皿に視線を落とした私は、中に入っている芋を見てそう呟いた。
 この看守はとても話好きで、私の呟きを拾っては外の話を漏らしてくれる。

「ラクチェ様が以前に、植えてみてはと種をくだされたものだ」

「そうか。イザークの気候に合ったのだな」

「豊作だよ。さすがはラクチェ様だ」

 看守はそう言ってラクチェを称えているが、これは私がもたらそうとしていた作物だった。
 グランベルの一地方の特産品で、その土地の風土がイザークとよく似ていたのだ。
 収穫量の期待できるこの作物は、必ずイザークの主要な農作物になると思っていた。

「そうか。ありがたくいただくとしよう」

 食事を始めた私を残して、看守が牢獄から離れていく。

 口に含んだ芋がゆは、多少味気が薄いものの、今の私にはちょうどよい味だった。
 芋自体の甘みも申し分なく、これからの収穫に期待のできるものだ。

 私の書き上げた書類を持ち去ったラクチェが、これはと考えたのだろう。
 食糧事情は決してよくないイザークにとって、かなり優先順位の高い施策だったに違いない。

「少しは力になれたのだろうか」

 私にとって、このイザークの土地は私自身を試す土地だった。
 いつかはドズルから切り離されるであろうイザークで、私は出来る限りの手を打った。

 自警団の設立から、街道の整備。果ては法整備まで。
 過去の文献、直接に習った施政術。すべてを使って事に当たった。

 隣のソファラでもヨハルヴァが同じように力を発揮し、植民者は穏やかに融合するはずだったのだ。
 一度融合が進めば、イザークが独立しても内部から崩壊することはないと読んでいたのだ。

「浅い考えだったな」

 芋がゆをすべて食べ終えて、私は再び机へと向かって座りなおした。

「そろそろ一年か」

 この芋の収穫時期から考えて、私が牢獄に入ってから一年が経つだろう。
 二年もの歳月は流れていないはずだ。さすがにそれほどの肉体の衰えは感じない。

 しかし、斧を持たなくなった私の身体は、確実に衰え始めている。
 民兵ばかりのこの牢獄を脱獄することはたやすいが、脱獄したところで行くあてもない。
 いまさら帝国側を頼りにグランベルまでの逃避行をするなど、考えられる話ではなかった。

 そう思いながら筆を進めていると、にわかに牢獄の外の喧騒が大きくなってきた。

 この牢獄から外の様子を見ることは出来ないが、私は筆を置いて立ち上がった。
 明かり取りの窓に手をかけ、外の様子に目を凝らす。

「……無駄か」

 地下牢らしいこの牢獄の窓からは、地面に生えた草の様子しか窺がえない。
 ここまで聞こえてくるほどの大騒ぎならば、看守と世間話をすることも難しいだろう。

 窓から離れた私は、かつて聞き慣れた声を耳にする。
 久しく聞いていなかったその声は、いつになく弾んでいた。

「ヨハン、生きていたのね」

「……ラクチェか。どうしたのだね、急に」

「帰ってきたの、イザークに」

「終わったのか」

「えぇ。もう三ヶ月前になるわ」

「おめでとう、と言うべきかな」

 セリス軍が勝ったのだろう。

 ユリウス皇子の側近だけでは駒不足であることは、簡単に予測が立てられる。
 クーデター気味に実権を握ったのはいいが、それだけで事が済むほど帝国は小さくない。

 やはり早過ぎたのだ、ユリウス皇子は。

「ヨハン、貴方もよく生きていたわね」

「刑に処するにも、決定できる人間がいなかったのだろう」

「よかったわ。もう、貴方を刑に処させたりはしない」

「さて、それはどうだろうね」

「させないわ」

 ラクチェの瞳は、以前と変わらず透き通ったままだ。

 真っ直ぐに物事を見、そして突き進んでいく。
 羨ましいほどの行動力だが、それは平和になった世の中には馴染まない。
 平和という名のくすんだ空気の中では、彼女の行動力は使いどころが難しい。

「ともかく、今はここを離れるほうがいい」

「どうして」

「囚人に王女自ら会いに来るなど、よくないことだよ」

「わかったわ。でも、忘れないで。私は王女じゃないわ」

「ラクチェ、変わらないな」

「変われないもの。私は剣士、ラクチェよ」

 嵐のような一時を残して、彼女が牢獄の外へと戻っていった。
 しっかりと私の書き上げていた紙をその手に携えて。

 どうやら、この一年ほどの私の行動は無駄ではなかったようだ。

 どこかで期待していたのだろう。
 彼女の役に立てるのならば、この残り少ない命を彼女のためにささげるのも悪くはない。

「悪くはないな」

 

 


 

 イザークにシャナン王子が帰ってきたというのは本当だったようだ。
 看守も次第に民兵から正規兵へと変わっていき、私にとっての情報源は失われた。

「そろそろ、終わりだな」

 私が書き残すものもなくなった。
 既に私が知識として持っていたものは書きつくし、筆は進まなくなっていた。
 無駄に書き続ける気にもならず、私は一週間ほど前に筆を置いた。

 ここから先は、時間の浪費と戦わなくてはならない。
 ひどく退屈な時間が過ぎていくのだろう。

 そう考えていた私を救ってくれたのは、またしてもラクチェだった。

 王女として行政に携わりだした彼女は、私に施政術を学びに来た。
 それは不定期でごくごく短い時間に限られたが、彼女なりに問題と解答を用意して訪ねてくる。
 王女が牢獄へ通うことに関しては何回か忠告したが、彼女はそれを素直に聞く人間ではない。

「ヨハン、ここがわからないの」

 そう言いながら、彼女は今日も獄中の私を訪れていた。

「税率か」

「税の種類って多いのね。面倒だわ」

「だが、その一つ一つには意味があり、使用用途を明確にすることでも民たちへのよい道標となる」

「書き上げたのがこれだけど、こんなに複雑にする必要がわからないわ」

 彼女の言い分に、私は久々に苦笑を漏らした。

 顔の表情が動くなどということは、ここしばらくはなかったことだ。
 私は頬に違和感を感じながら、彼女の広げた紙を覗く。

「見たところ、妙なところはないようだが」

「ギルド税と商家税の違いがわからないの」

「まぁ、確かに対象となる人間は重なっているね」

「一つにまとめてはいけないの」

 この制度は、グランベルから取り込んだものだろう。

 グランベルは各地域ごとに同業者がギルドを組み、領主もそれを承認する形を取っている。
 正確に言えば、ギルドは商家の元締めのような組合組織で、ギルド自体に販売能力はない。
 どちらかと言えば問屋の元締めといった感じだろうか。

「ギルド制度をこのイザークが取り入れるべきかには異論はあるがね」

「税金がなくなれば、商品の値段は下がると思うの」

「確かにそうだが、今のイザークには貨幣流通を増やす必要がある」

「どうして」

「イザークはどちらかと言えば農業が主力だが、これからは公益も盛んになってくるだろう」

「そうね。貿易と言ったかしら」

「その通り。その前段階として、流通を活発にする意味でも必要な税だと思うよ」

 私の説明を、ラクチェは少し理解しかねているようだった。
 それでも何とか結論を見つけたのか、長い息をつく。

「通貨の流通量を増やすのね」

「ある意味ではそうだね。そして、もちろんその分の国家への還元も忘れてはならない」

「軍事費も自然的に値上がってしまうのね」

「ある意味、平和での発展だな」

「ありがとう、ヨハン。何とか納得できそうだわ」

 君の微笑が代価となるのなら、私は暴利を貪る商人に等しい。
 ここが牢獄の中であることさえ、忘れてしまいそうになる。

「……そこまでにしてもらおうか」

 冷たい声をかけられ、私とラクチェはすぐさま背後を振り返った。
 牢の外に立っていたのは、紛れもなくイザーク国王だった。

「シャナン王。お久しぶりにございます」

 騎士としての礼を立てた私に、彼はにべもなく近衛兵を牢の中へ入れてきた。
 両脇を固められそうになったラクチェが、反射的に近衛兵二人を弾き飛ばす。

「ラクチェ、出なさい」

「嫌だと言ったら」

「出なさい」

 イザークの解放軍を率いていた頃とは、さすがに口調も風格も変わっている。
 ラクチェに対する態度からは、もはや王と王女の関係でしかないことを思わせる。

「いつになったら、ヨハンを釈放するの」

「それはお前の知るべきことではない」

「嘆願書は何通も来ているはずよ。それも、族長たちからでさえ」

 それは初耳だ。
 誇り高きイザークの族長からの嘆願書とは。

 ラクチェの言葉に、シャナン王の顔が歪んだ。
 この辺りはまだ若さが残るようだ。

「ラクチェ、お前はここを出なさい」

「嫌よ。この際、はっきりさせてもらうわ」

 起き上がった近衛兵が、再びラクチェの体術で叩きのめされた。
 さすがの近衛兵も、戦女神には勝てないものらしい。

「ヨハンの釈放はない」

「何故」

「当然のことだ」

「納得できないわ。何だったら、ヨハンの功績をみんなにぶちまけてあげるわ」

 やれやれ。
 随分と信用されたものだ。
 その言葉だけで、私のこの一年は報われると言ってもいいだろう。

 そう思った私に、ラクチェが続けた言葉は衝撃的なものとなる。

「芋の件も、街道整備の件も、元々はヨハンの策じゃないの」

「ラクチェ」

「シャナン様が採用してくれた私の献策は、ほとんどがヨハンの書き記したものよ」

「ラクチェッ」

 声を荒げたシャナン王が、牢獄の中へと入ってくる。
 近衛兵を下がらせてラクチェと対峙する彼には、一瞬の隙もない。

「私は納得できないわ。何故、ヨハンが拘束され続ける必要があるのよ」

「その男を野に放てば、再び戦乱が巻き起こると教えたはずだ」

「ヨハンが私たちに復讐するなんて思わないわ」

「ラクチェ、よく考えろ。その男の経緯を」

「シャナン様。ヨハンがそんなことをする男に見えるの」

 二人の言い合いは、父娘喧嘩のようなものになってしまっていた。
 そして、私にはシャナン王の考えることがわかっている。
 ラクチェには話せない、裏のやり取りを。

 帝国側が敗れたとしても、全ての敗残兵や貴族たちが始末できたわけではない。
 彼らにそれなりの旗印を与えれば、すぐに復讐を企てていきり立つに違いない。
 そしてその旗印として、私はそれなりに価値があるはずだ。

 それなのに、何故か私の元へ接触してくる密偵がいない。
 それはすなわち、誰かが止めているのか、私が自身を見誤っているかだ。

 さすがに後者の可能性も否定はできないが、おそらくは前者だろう。
 ヨハルヴァに対する対抗馬としても、私には価値がある。
 ドズルの年寄り連中が秘密裏にでも私につなぎを取る可能性は、後者を完全に否定できるほどだ。

「何でもいい。お前はもう嫁ぎ先の決まった身だ。このような場所にいることは許されんのだ」

「嫌よ。私はドズルになんか行きたくない。私はここにいたいのよッ」

 どうやら、二人には私のことを気にする余裕もなくなったようだ。
 重要度の高い情報が口から滑り出てしまうほどに。

 思わず立ち上がった私に、シャナン王はしまったという表情を見せた。
 対峙して沈黙が流れる前にと、私は先に口を開いた。

「ヨハルヴァはドズルを継いだのだな」

「……あぁ」

「そして、両国の友好の架け橋として、ラクチェを使うと」

「そうではない。ラクチェの幸せを思って、私は」

「私はここにいたいのッ」

 そう叫んだラクチェをシャナン王へ引き渡し、私はシャナン王を睨みつけていた。
 今のやり取りですべてがわかるわけではないが、貴族のやり方の中で生きてきた自負がある。
 できて間もないイザークの内情やらを分析すれば、おのずと答えは見えてくる。

 いくらグランベルト同盟関係にあると言っても、それだけで交易が盛んになるわけではない。
 そこには必ず商人という仲介者が必要となり、その商人を動かせるのは具体的な公爵家となる。

 つまり、シャナン王はラクチェと引き換えに、ヨハルヴァから商人を引き出したいのだ。
 ドズルを継ぎ、イザークでの拠点も持っていたヨハルヴァなら、価値の高い商人を動かせる。
 それをシャナン王は欲しているのだ。

「シャナン王」

「何だ」

「早く私を処刑することだ。そうでなければ、最悪の事態にもなりうる」

「そう言われても、貴様を簡単に殺すわけにもいかん」

「見えてしまったものにふたをできるほど、私の心は清くはないのだよ」

 そう言い切った私の心は、久しぶりに波風が立っていた。

 どれだけの時を無駄にしたとしても、どれほどの時を有意義に過ごしてきたとしても。
 一度動き始めたものをとめられるほど、人間というものは便利にはできていないものだ。

 

 

 


 

 その夜、私は何故か寝付けずにいた。
 草木ですら寝静まった時間に、私は閉じていたまぶたを開いた。

 風の音さえ聞こえてくるような闇夜に、小さな足音が聞こえてくる。
 武人のそれは、私がどこかで期待していたものかもしれない。

「……珍しい時間だな」

 先んじた私に、彼女は少し戸惑いを見せた。
 それでも、ラクチェは牢の前で私に背中を向けながら腰を下ろした。

「起きてたのね」

「何故かな。今日は起きていなくてはいけない気がしてね」

「輿入れの日が決まったわ」

「ほぅ。それを伝えに来てくれたのか」

「あと半年で、私はこの地を去るわ」

「半年か。妥当なところだな」

 早過ぎもせず、遅過ぎもせず。
 ここから先は、婚約などの行事を立て続けにこなすだけだ。
 長い時間に見えて、さほど自由度は与えられない期間。

 この間の一件が、シャナン王の引鉄を引いてしまったのか。

「ねぇ、ヨハン」

「何かな」

「外に出た貴方は、私たちに斧を向けるの」

「正々堂々と戦って敗れたのだ。君たちに恨みはない」

 私の答えに、ラクチェが反転する。
 彼女の表情を見て、私は自分自身の卑怯さに気付いた。

「質問の仕方が悪かったわ。貴方は、シャナン様に敵対できるの」

「敵対して、利益はない。だが、外に出れば立たなくてはならない時もあるだろう」

 私の答えに、ラクチェは沈黙した。
 だが、ラクチェの意図するところはわかっている。

 答えはおろか、質問さえも求める彼女は卑怯だと思う。
 それを知りながらあえてはぐらかす私も、卑怯なのだ。

「……ごめんなさい。変なことを聞いたわ」

 そう言って立ち上がったラクチェに、私はできるだけ静かな声で話しかけた。
 そうしなくてはいけないと感じてしまうほど、彼女の背中が寂しげに見えたから。

「……それほど、我が弟は嫌いかい」

「……嫌いじゃない。けれど、愛してはいないわ」

 彼女からの返事は、しっかりとした声で返ってきた。
 こちらの意図にすがるものでもなく、吐き捨てるような感じでもない。

「君を理由に、私に戦えと言うのか」

「できるのなら、そうして欲しい」

「代価は」

「イザークを出た私に、残っているものを」

「この牢獄にいる私には、何もない」

「背中を預けられるだけでも、私は剣を抜ける」

 これ以上の茶番は必要ない。

 どうせ、何もすることはないのだ。
 この世でただ一人、惚れた女性のために最期をくれてやるのに支障はない。

「引き受けよう」

 私の答えに、ラクチェが牢獄の中へと入ってくる。
 抱きしめた感触は、昔に忌み嫌った貴族の女に等しい。
 それなのに、私はただ彼女の嗚咽を引き受けていた。

 

 


 

「……昼食か」

 一度きりの逢瀬だが、私には十分だった。
 孤独な牢獄の中では、身体を動かすこともできる。
 少しずつだが、私の兵士としての能力が目覚めていく。

 看守の足音から足さばきを想像し、一瞬の速さを鍛えるために気を練り澄ます。
 単純な動作の繰り返しが、私の筋肉に感覚を取り戻させていった。

 身体が感覚を取り戻せば、自然と体内時計も回り始める。
 既に時計がなくとも正確な時間はわかるようになっていた。

「今日は、また一段と静かだな」

 いつものように食事を置いた侍女は、一言もしゃべらずに出て行ってしまった。
 だが、食器の裏に貼られたものを見て、私は今日がその日であることを悟った。

 おそらくは、彼女と我が弟の婚約の儀が終わった直後。
 一番警備が手薄になると考えられる日だ。

 ”今夜”とだけ書かれた手紙に、ラクチェの意思が伝わってくる。
 そしてもちろん、彼女が思うほどイザークの将軍たちが甘くないことも。

「さて、どこまで私は愚かなのか」

 ラクチェを素直に逃亡させるほど、あのシャナン王は甘くない。
 前回のやり取りを見ても、王女としてラクチェを扱っていた。

 国益を大きく損なう彼女の逃亡を、彼が黙って見逃すとは思えない。
 ただ、未だに影を見せないスカサハの動きがどちらに転ぶかだ。

「随分と不確定要素に頼っているようだ」

 だが、時は無常にも過ぎていく。
 静かにそのときを待つしかない。

 緊張は焦りを生み、焦りは間違いを生む。
 理解はしていても、緊張するなというほうが無理だろう。

「……ヨハン」

「来たか」

 完全装備のラクチェの呼びかけに、私は思考を閉ざした。
 ラクチェに渡された長剣を持ち、慣れ親しんだ牢獄から抜け出す。

「一気に行くわ。城門は私の手の者で固めてある」

「さて、そうすんなりと逃がしてくれるものかな」

「無理やりにでも通るわよ」

 あぁ、この顔だ。
 この顔を待っていた。

 今の君こそ、世界中の何よりも美しい。

「行くわよ」

 ラクチェの合図で、私たちは城門へ向かって走り始めた。

 ラクチェが調べ上げたにしては、かなり順調なやり過ごし方だ。
 イレギュラーな巡回に関しては、彼女の嗅覚は誰にも負けない。

「これでゴールよ」

 ラクチェに従い、城門へと駆け寄ろうとした私は、急いでラクチェの肩をつかんだ。
 ラクチェが向かおうとしていた城門から、火のついた松明が投げつけられたのだ。

 足を止めた私たちを、潜んでいた兵たちが囲う。

「逃げられると思ったのか」

「まさか。だが、まさか君が直接出てくるとは思わなかった」

 どうやら、不確定要素は悪い方へ傾いていたらしい。
 もとよりアテになどできない相手だったが、敵にまわすには厳しすぎる。

「まぁ、お前たちを止められる人間は、そうはいないさ」

 暗闇から進み出てきたのは、大剣を抜刀して構えるスカサハだった。
 臨戦態勢の彼に、ラクチェが私の前に立った。

「やろうっていうのなら、容赦はしないわ」

「ラクチェ、諦めないか」

「嫌よ。私はヨハルヴァのお嫁さんなんてなりたくないの」

「その件に関してなら、もう一度シャナン様に頼んでみるから」

「それでも、ヨハンを外に出す気はないんでしょ」

「それはね。ヨハンを外に出せば、必ず帝国の残党が接触してくるはずだから」

「だからヨハンの功績に目を背けて、彼を飼い殺しにするなんて許せないわ」

 まぁ、あえて口を挟む必要はないだろう。
 私が何かを言ったところで、状況は変わらない。

 少なく見積もっても二十人。
 それにスカサハを加えたこの包囲を突破するには、別の何かが必要だ。

 ラクチェの手の者たちは、ここに駆けつけることはできないはずだ。
 私たちが脱出しようとした門から彼が出てきたことで、それは証明されたも同じだ。

「そんなの、認めないわ」

「最善の方法だと思うけどね」

「ヨハンは私たちを、イザークを裏切ったりしない」

「人は変わる。立場があるからね」

 そう言うと、彼の背後から弓を構えた兵士たちが隊列を組んで姿を現した。
 随分と慎重というよりも、私たち二人のためにどれだけの兵士を割いたのだ、君は。

 彼らを見たラクチェが、眦をきつく上げる。

「剣士の誇りを失ったのね、スカサハ」

「最善の策だよ。何も正直に、ラクチェとしあう必要はない」

「弓に頼るなんて、イザークの剣士も地に落ちたものね」

「構え」

 この距離では逃げ場がない。
 いくら矢を弾き返そうとも、いつまでも続くものでもない。

 私はラクチェの前に進み出ると、剣を構えてみせた。

「ヨハン」

「ともに朽ちる気はあるか」

「諦めるの」

「突破できるか」

「……無理ね」

 よかったよ。
 君が正常なままで。

「君は、どうしたい」

「剣士の誇りを取り戻させたい」

「ならば、一太刀でそれを証明してみせろ」

 私が突き進み、道を開く。
 君は最後の一太刀で、イザークの目を明かせ。

「いざ」

「射て」

 左頬を掠めた矢にも、痛痒は感じない。
 ただひたすら、一歩でも前へ。

「足を狙うんだ」

 スカサハの声は、もう遅い。
 この距離ならば、ラクチェにとっては結界の中だ。

「行け、ラクチェ」

 胸に刺さった矢が身体を後ろへともっていきそうになるのを耐え、前へ倒れこむ。
 ラクチェが前へ跳んでいくのを見ながら、私は静かに膝をついた。

「ヨハンッ」

 戻るな。

「射て」

 悲鳴を上げるでもなく、ラクチェが矢を抱え込む。

 次々と刺さる矢にも悲鳴を上げず、ラクチェが動きを止めた。
 手を伸ばすことさえできないはずの私の身体が、地面を蹴った。

「剣士隊、とどめを」

 迫り来る剣士たちに、私はもうなす術がない。
 ただ、一歩、ラクチェの前に出る。

 それが私の、最後の意地だった。

 

<了>