好きなら好きと言えばいい


「お兄さま」

 人気の少なくなった夕方の鍛錬場で、ファバルは一人、矢を射る鍛錬を続けていた。

 他人よりも少し離れた距離で弓を構え、誰よりも強い弓をより強く弾く。

 その威力だけは解放軍の誰よりも、いや、大陸随一とまで評される強弓がしなる。

 鈍い音をさせて的を射る彼は、兄を呼びながら入ってきた少女に視線を向けた。

「ラナさんだっけ」

「はい。あの、お兄さまはどちらに」

 ファバルに声をかけられたラナが、少し視線を動かしながら尋ね返す。

 ファバルは再び矢を手に取ると、小さくため息をついた。

「ここにはいないよ」

「どちらへ行かれたか、ご存知ではありませんか」

「知らない。俺が来たときはもう、誰もいなかったから」

 弓を引き絞り、再び的を射る。

 寸分違わず狙った場所へ納まった矢に、ラナが感心したようにため息をついた。

「凄い……」

「慣れだよ、慣れ」

 そう言いながら、ファバルは次の矢を構えていた。

 ふとラナが視線を向けると、ファバルのそばには矢筒一杯の矢が置かれている。

「あの、それだけの量を射られるのですか」

「日課だから」

「日課、ですか」

「うん」

 会話をしながらも、ファバルは一定のペースで矢を的へ突き刺していく。

 集中がそがれることもなく、まるで話している人間とは別の人間がいるかのように矢は的へ納まり続ける。

「あの、どれくらい」

「適当。疲れたらやめる」

「疲れたら、ですか」

「うん。疲れたら怪我をするからしないんだ」

 ファバルに弓を教えた者の言葉を、ファバルは忠実に守ってきた。

 よく言えば律儀に。悪く言えば愚直なまでに。

 ただ、成果だけはあがっているといえるだろう。

「もし、ここで私がライブをかけて疲労を癒せばどうなりますか」

「そのときに考えるよ」

 意地悪なラナの言葉にも、ファバルは素直に言葉を返した。

 彼にしてみれば、疲れるまで鍛錬を続けるというだけで、過程は特に気にならないのだ。

「ところで、レスターを探してるんじゃないの」

「はい。でも、もう少し見ていてもよろしいですか」

「別にいいよ。面白いものじゃないけどさ」

 一定のペースで矢を放ち続けるファバルに、ラナが少し立ち位置を変えた。

 彼の背後から少しずれた場所で、ラナが腰を下ろす。

「そこに椅子があるよ」

「でも、真後ろになりますから」

「俺は気にしないのに」

 そう答えて、ファバルはまた矢を射る。

 すでに的に突き刺さった矢は、的をハリネズミのように変えていた。

 五分もすると、ファバルのそばの矢筒の矢が半分ほどに減っていた。

「よし、仕上げ」

 弓の具合を確かめ、ファバルは足元に視線を落とした。

 わずかに踏みしめられていた足場を整えなおし、軽く視界を閉ざす。

 風の音を確かめて、ファバルは手にしていた矢をつがえた。

「ラナさん、怖くなったら逃げてね」

「はい」

 ファバルのまとう空気が、周囲の温度を冷やしたかのように引き締まる。

 戦場に立ち始めて幾度も危険を感じてきたラナの肌が、異質な空気に触れて反応する。

 どんなときでも兄では感じることのなかった恐怖が、ラナの額に無意識の汗を流れさせた。

「一つ」

 的の中央に突き刺さった矢が、ファバルの視点を定める。

 すでにつがえた二本目の矢が、ピタリと動きを止めた。

「二つ」

 一本目の矢を引き裂くように、二本目の矢が一本目の矢の軌道をなぞった。

 すでに構えをといたファバルは、二本目の矢の軌道に頬を緩めた。

「うん。いい調子だ」

 一本目の矢が二本目の矢に破壊されたのを見たラナが、額の汗をぬぐった。

 彼女の喉は、異様な渇きを覚えていた。

「凄いです」

「毎日の鍛錬を続けていれば、誰にでもできるよ」

「いいえ、無理だと思います」

「そうかな」

 ラナの賞賛に照れたように頬をかいて、ファバルは矢を片付け始めた。

 矢の先端には矢じりを取り付けていない練習用の矢だが、矢が曲がってしまっては使い物にならない。

 ファバルは多少の曲がりは気にせずに使っていたのだが、レスターに指摘されてからは注意をしていた。

 一本一本の矢の状態を確かめながら、曲がってしまったものを自身の矢筒へと入れていく。

「手伝います」

「ありがとう。これ、向こうの矢筒に返しておいてよ」

 選り分けた矢の集まりを指して、ファバルは的に刺さった矢を引き抜いていく。

 しばらく無言で片づけを終えた後で、ファバルは改めてラナに礼を告げた。

「ありがとう。助かったよ」

「いいえ。良いものを見せていただきました」

「ただの鍛錬だけどね」

「いいえ。心が晴れました」

「レスターに何か相談だったの」

「はい。お兄さまに話を聞いていただこうかと」

「いい兄貴なんだ、レスター」

「はい」

 ラナと並んで鍛錬場を出たファバルは、赤く染まる空を見上げるために足を止めた。

 同じく足を止めたラナが、ファバルの視線を追う。

「明日も晴れるかな」

「そうですね。晴れると思いますよ」

「雨は嫌だな」

「雨はお嫌いですか」

「嫌い」

「意外です」

「そう。でも、雨の日は気分が沈むから嫌いなんだ」

 そう言ったファバルは、ふと隣のラナに視線を向けた。

 ファバルの視線に気付いたラナが、あわてて目元を隠した。

「泣いてた」

「……忘れてください」

「女の子の涙は忘れるなって言われたんだ」

「パティにですか」

「いや、母ちゃん」

 そう答えて、ファバルはラナから視線を外した。

「俺でよければ聞くよ」

「でも」

「今からレスターを探しに行くより、早いよ」

 ファバルの言葉に、ラナが小さく微笑んだ。

「ありがとうございます。でも、情けない話ですので」

「まぁ、無理には聞かない。でも、誰かに聞いて欲しいんじゃないの」

「聞けばきっと、私のことを軽蔑しますよ」

「でも、好きな子の相談には乗ってあげるのが男だ」

 ファバルの言葉に、ラナの微笑が固まった。

 日が暮れて、薄明かりの中に浮かぶようになった金髪に手をやって、ラナが結論を見つけ出す。

「からかいが上手なんですね」

「そうかな。俺はよく、単純だってパティに言われるけど」

「そうだとしたら、性質が悪いですね」

「それもよく言われた」

「……女の子に」

「そう。あとで、そんな気がないなら気にかけないでって怒られた」

 ファバルは小首を傾げると、ラナに食堂のほうを指して歩き始めた。

 ラナが後を追いかけて、ファバルの隣に並ぶ。

「もしかしなくても、ファバルさんはお兄さまのことが好きですね」

「好きだよ」

「そして、私のことも」

「うん」

「だから、怒られるんですよ」

「ごめん。そこが俺にはよくわからないんだよ」

 そう言って頭をかくファバルに、ラナがため息をつきながら視線を落とす。

 しかし、再び前を向いたラナの目に、涙はなかった。

「私、失恋したんです」

「セリス皇子かな」

「よく知ってますね」

「レスターから聞いた」

「そこは、私をよく見てたからと答えるところですよ」

「じゃ、そういうことで」

「何ですか、それ」

 ラナがクスクスと笑いだし、ファバルは再び小首をかしげた。

「ラナさんをよく見ていたわけじゃないけど、今のラナさんは元気そうだ」

「はい、元気です。ファバルさんのおかげです」

「よかった」

「はい。ありがとうございます」

 微笑み会う二人を、食堂からの喧騒が包み込んでいく。

 食堂の扉を開ければ、もう話すことはないだろう。

 いつもの仲間たちとともに、いつもの夜が始まっていく。

「さ、夕飯だ」

 もう少し廊下が長くてもいいなと思いながら、ファバルは隣にいるラナへ笑いかけていた。

 

<了>