嘘をついてくれた人
勝利に沸くバーハラ城。
この熱気が収まる頃には、私の生活も元に戻るだろう。
今回はたまたま勝利する側の権力者に気に入られ、嘘のような境遇で過ごすことができた。これが師の言っていた、戦乱の果実というものだろう。
甘い果実を食べられた私は、踊り子の中でも果報者だと言わざるを得ない。「レイリア、こんなところで何をしているのかな」
風の勇者と呼ばれるセティ王子が、明かりを落とした部屋に一人でいた私の背後に立っていた。
軍内でも右に出る者がいないほどの高い魔力の持ち主は、その風評に劣らず神出鬼没だ。「月を見ていたのです。セティ様は、このような場所に何か」
「いや、気配を感じたのでね」
「お邪魔でしたか」
「少し気になってね。魔力を感じたものだから」
セティ王子に言われたように、私にも多少の魔力があるらしい。
魔法が使えるほどではないけれど、以前には修行すればものになるかもしれないと聞かされた。「母方の祖父の血が残っているようで」
「魔道士だったのかい」
「下級兵士だと聞いたことがあります」
ただそれも、親戚を転々としている間に小耳にはさんだ程度の噂だ。
幼いころに両親と死別した私に、誰も身内と呼べる人間はいない。
そして何より、私の両親の記憶はなかった。「それで、シャルローが君を誘ったのか」
「ご存知でしたか」
「彼に君を説得するように言われたこともある」
「誰に言われようとも、この決意は変わりません」
戦が終われば、私のような踊り子が軍に留まる理由もない。
旅一座にでも入れてもらい、その日暮らしに戻るのが一番だ。「別に、君を説得するつもりはないよ」
「ありがとうございます」
シャルローに修道院へ来ないかと誘われたとき、私はきっぱりと拒否した。
踊り子として裏の世界に暮らしたこともある私には、修道院など似合わない。説得を諦めてくれた風の勇者に頭を下げると、彼は私の隣に並んだ。
隣に並ぶと、怜悧とも言われる彼の横顔はため息が出るほど美しい。「いい月夜だと思わないか」
「はい」
「人知れず軍を去るには、あまり相応しくないね」
彼の言葉に、私は小さく息を飲んでいた。
彼は気付いているのだろうか。
私がここ数日の間で決めたことに。「私が、ここを去ると」
「そう言っていたよ、君の瞳は」
私はただ、テラスの奥を眺めていただけだ。
彼はそれを見ただけで、私の心を読んだというのか。「不思議ですね」
「そうかな」
「人は夢を見るのです。叶えてはいけない、愚かな夢を」
勘違いしてはいけない。私は踊り子だ。
生きるために舞を踊り、時には人を惑わせて命をつなぐ。
卑しいと蔑まれても、私はこの生き方が性に合う。「誰かに止めて欲しいと、君の心は叫んでいるようだね」
「さぁ、どうでしょうか」
私はそう言って微笑むと、テラスの外を眺める彼に背を向けた。
この月夜では、彼でなくても私を見つけてしまうだろう。
城を抜け出すのなら、闇夜に紛れて出て行こう。
誰にも見られることなく、私は私の居場所に戻りたい。「あぁ、一つ聞き忘れていた」
「何でしょう」
「ティニーを探していたんだ。レイリア、君は見かけなかったかい」
「残念ながら」
「そうか。なら、別の場所にいるんだろう」
そう言うと、彼は再び私の隣に並んだ。
「ホールへ戻るのに、一人では寂しくてね」
「では、ご一緒いたします」
この男も、さりげなく私を監視しているのだろう。
ティニー様の話は、私をホールへ戻すための方便かもしれなかった。
戦勝の宴も一段落ついたホールでは、軍の幹部たちが今後について話し合っていた。
その表情にもどこか熱から醒めたような空気が感じられる。まだ幼く見える彼らも、祖国に帰れば誰よりも大きな期待を受ける身だ。
その不安を見せる者もいれば、何一つ不安を見せることなくのんびりとしている者もいる。私に話しかけてきた彼などは、後者の部類に入るだろう。
もっとも、彼は戦争中も冷めた目付きだったかしら。「よぉ、セティ」
「何かな、アーサー」
「珍しい組み合わせだな」
「そうか」
「さっき、お前んところの部下が探してたぜ」
このアーサーという魔道士は、かなりの食わせ者だった。
やる気のない表情で、あっさりと人や軍の行く手を阻む。
軍略のことは分からない私でさえ、名前を覚えてしまうほどに。「ユリア皇女の件か」
「さぁね。聞いてなかったな」
そう言って肩をすくめたアーサーが、私に視線を移してくる。
「ま、そっちの踊り子さんの件もあるかもな」
「私の話ですか」
「まぁ、正確にはアンタに惚れてる男の件だけどな」
オイフェ様のことだろう。
軍の幹部の中でも一目置かれている彼に、私が似合う筈もない。
それなのに、戦乱の中の果実は未だに私を魅了しているらしい。わずかに視線を動かしてしまった私を見て、アーサーの口許が笑っていた。
「何だ。脈はありそうだな」
「さぁ……私はただの踊り子ですから」
「出生なんて、この時代に意味なんてないさ」
「身は弁えております」
そう言って場を辞そうとした私を、彼が腕をつかんで引きとめる。
振り払おうにも、やはり男の握力を超える力は持ち合わせていない。「放していただけますか」
「素直になれよ」
「私は私を知っています。それで、もう十分でしょう」
「はいそうですかって、言うわけにもいかないんだよ」
そう言うと、アーサーが私の腕を静かに放した。
無意識につかまれていた腕をさすった私に、彼が小さく舌を出してきた。「アンタの目を見ればわかる。悲しい目だよ」
「貴方に何がわかるの」
久しぶりに、きつい言葉が私の口から発せられていた。
どうしてこんなにもイライラするのだろう。
いつものように権力者の戯言としておけばよかったのに。
これではまるで、私がやり切れない思いに心を苛立たせているようだわ。「失礼致します」
「待ってると思うぜ」
アーサーの言葉には返事をせずに、私はホールを出た。
この気持ちを抑えるには、どうすればいいのだろう。
今、オイフェ様に会ってしまうのはよくないだろう。
心にかけておいた鍵が、あの人に触れてしまえば音を立てて弾け飛ぶ。間違いなく、確実に。
オイフェ様がシアルフィへのご帰還を教えてくれた。
そして、一緒に来てくれないかとも言ってくれた。その場で答えられなかった私は、オイフェ様に顔を伏せてその場を立ち去ろうとした。
そして……彼からは待っていると言われた。「……未練、かしらね」
オイフェ様に告げられた時間まで、あと数刻もないだろう。
私が今いる場所から待ち合わせの場所までは、どんなに急いでも間に合わない。それなのに、どうして私はこのような廊下で、窓の外を眺めているのか。
「忘れることはできない。けれど、甘えることもできなかった」
素直に彼のところへ行くことはできなかった。
私が邪魔になるという配慮からではない。逃げたのだ。
彼から。「不思議なものね」
窓から視線を引き剥がした私の足は、彼の部屋へと向けられていた。
すでに待ち合わせ場所で私を待ってくれているであろう彼の、無人の部屋に。「オイフェ様」
思わず呼びかけてしまい、小さく首を左右に振った。
いない筈の人に呼びかけてどうするというのか、私は。明かりのない部屋は主人がいないこともあり、やけに寒々としている。
澱んだ空気の中に、かすかに香る私の残り香が私の目を覚まさせる。「これでいいのよ」
彼の残り香も、いずれ消えていくだろう。
戦争という特別な時間に、私が彼のそばにいたことも忘れられていくのだ。だが、それでいい。
それが正しいのだから。彼と寝たベッドに手を触れた。
すでに冷たくなっていた敷布を彼の心と思うのだ。
熱に浮かされた時は過ぎ、彼は公爵へと、あるべき場所へと戻っていった。ただ、それだけなのだ。
「また、逢いましょう」
さよならは言わない。
私たち踊り子は、絶対に別れの言葉は告げない。
いつか再会した時に、変わらぬ気持ちで舞えるよう。「随分と恋したものね、レイリア」
いつの間にか握りしめていた敷布が、私の涙で濡れていた。
頬を流れおちた涙の感触に、思わず敷布を顔に当てた。彼が、あの人が、どれだけだと言うのだ。
遊びだ。戯れだ。いつものことだ。静まらないこの気持ちは、何よりも偽の感情だ。
早く、私を取り戻せ。
この無様な姿を、誰かに見られるわけにはいかない。私は、レイリア。
踊り子だ。「無茶苦茶だ」
強引に涙をぬぐい、私はそう呟いて立ち上がった。
今日中に……出立しよう。
彼を追いかけないように。「やはり、ここに居たね」
あり得ない声に、私は飛び上がっていた。
敷布をつかんだまま、声がしたほうとは逆の、部屋の奥へと身を寄せる。あり得ない。
彼はすでに城門にいるべきなのだ。
それとも、あまりにも長く涙しすぎていたのか。
彼が城門から引き返すほどの時間を。「私は城門には行ってないよ」
「そんな」
「君は来ないと、最初からわかっていたのでね」
「どうして」
「君が返事をくれなかったときに、わかっていた」
どうして、神様は残酷なの。
私の願いは、ほんの些細なことでさえ聞き届けてはくれないの。「だから、賭けてみた。君が、待ち合わせの時間に此処へ来ると」
「どうして……」
「君を知っていたから」
「ここにいるの……」
「ある人に言われてね。女を妻にするなら、賭けごとに勝てと」
私は、じっと耐えた。
彼に飛び込みたい。
けれど、彼に飛び込めばすべては終わる。私は私でなくなり、踊り子ではなくなってしまう。
今まで築いてきたものが、崩れ去るのが怖い。「勝ったようだね、賭けには」
「……卑怯ね。嘘をつくなんて」
「それだけ、君にそばにいて欲しいんだ」
「悔しいわ。貴方に騙されたことが」
異常な感情だ。
騙されたことを悔しく思うなど。もはや、私は踊り子ではないのか。
ただの、身寄りのない独り者なのか。「最後の嘘だ」
彼の言葉に、私は腕を前に差し出していた。
腕からこぼれおちた敷布が、彼への道を作る。最後の意地として、奪われたいと願う。
彼の執念に絡めたられたと、心に言い聞かせるために。「二度と嘘はつかないと、君に誓う」
私の腕を、彼の指が触れた。
ぎゅっと握った拳が、彼の左手に優しく開かれていく。「レイリア。君を、我が妻として迎え入れる」
「……はい」
気の利いた言葉は返せなかった。
彼の力に、私は屈したのだ。
踊り子という職を奪われたのだ。だから、一生彼にたかってやろう。
彼の重荷となってやろう。
彼が私に飽きようとも、絶対に離れてやるものか。それが私の、最後の復讐だ。
<了>