その瞳に


 今日、珍しく私はゆっくりとした朝を迎えた。

 アルヴィス様がバーハラに召喚されたため、突然の休暇となったのだ。

 事前に準備することができれば視察の一つもするのだが、昨日の晩に言われては何もできない。

 仕方なく、私は久しぶりに十分な惰眠を貪り、昼近くになって登城したのだった。

「おはようございます、アイーダ様」

「おはよう。貴方は早いのね」

「はい。今日はティルテュ様がお見えになられておりますから」

「そう。それ以外に変わったことは」

「ございません」

 侍従長を勤める彼の言葉に軽く頷いて、私は城に与えられている私室へと向かう。

 すれ違う城内の人間は、皆が一様に緩やかな空気に包まれていた。

 主であるアルヴィス様が不在とはいえ、これほどまでに空気が変わることはない。

 原因はただ一つ。あの破天荒なフリージ公女にあるのだろう。

「まったく……アゼル様が戻られて以来、ほぼ毎日」

 ヒルダ様の要請で、アゼル様がこの城を離れたのは三ヶ月前。

 一週間ほど前に戻ってこられたのだが、それから一週間とおかないペースでこの城へやってきている。

 まるで会えなかった三か月分を取り戻そうかという訪問ぶりだ。

「アゼル様も人が好すぎる。追い返してしまえばよいものを」

 部屋住みの公子とはいえ、アゼル様のお立場は決して軽いものではない。

 ただでさえ人手が少ないヴェルトマーにおいて、アゼル様は重要な公爵家の一人だ。

 未だに独身でおられるアルヴィス様の異母弟として、爵位継承権も与えられている。

 バーハラの上級士官学校を卒業されてから、その重要性は日に日に増しておられる。

 あのティルテュ様も、フリージの公女でなければ追い返したいところだ。

「おや、アイーダ様。今日は休暇ではなかったのですか」

「あぁ、アンジェ。溜まっている書類を片付けに来ただけだ。夕刻には屋敷へ戻るわ」

「お夕食はどちらで」

 おかしなことを聞くものだ。

 夕刻には屋敷へ帰るのだから、食事は屋敷の者に用意させているのに。

「屋敷のつもりだが……何か」

「いえ、アゼル様お一人で食事をされるのもどうかと思いまして」

 そうか。今日はアルヴィス様がいらっしゃらないから。

 そう言えば、たまに食事をご一緒させていただくときは、いつもお二人一緒に食事をされている。

「そうね。あの破天荒公女を同席させるのも面白くないわね」

 アゼル様は将来のある方だ。

 フリージの部屋住み公女も悪くはないが、やはりそれなりの女性も考えなければならない。

 特にあの破天荒公女は、ユングウィの聖女との仲が悪いことは周知の事実。

 運が悪ければ社交界全体を敵にまわすとも限らない。

「いかがいたしますか」

「そうね。私の分も用意させておきなさい」

「かしこまりました」

 アゼル様付きの侍女を下がらせ、私は自室の扉を開いた。

 昨夜のうちに頼んでおいた清掃は済んでいるのか、花瓶の花も活け変えられている。

「あぁ、お茶を頼むのを忘れていたな」

 やはり、休暇の日だということがあるのだろう。

 目の前に積み上がっている書類から目をそらすように呟くと、私は部屋の外へと出た。

 せっかくの休日なのだから、あまり仕事はしたくないというのが本音なのかもしれない。

 もしくは、今日の城内の空気に毒されたとでも言うべきか。

「まぁ、今日一日ぐらいはかまわないだろう」

 私はゆっくりとした足取りで厨房へと向かった。

 時間帯のせいなのか、はたまた主不在のせいか、食堂に人の姿はない。

 だが、少し奥まったところまで足を伸ばすと、香ばしい香りが漂ってきた。

「何かを焼いているのか。いいタイミングだな」

 お茶請けに一つくらいもらうとしようか。

 虫のいいことを考えながら歩を進めていくと、小さなテーブルの前にアゼル様が座っていた。

「アゼル様」

「あ、アイーダ。いいところに来たね」

「そのようですね」

 どうやら、アゼル様が所望されたようだ。

 近くに公女の姿が見えないが、案外お茶でもいれに行っているのだろう。

 そう見当をつけた私が微笑むと、アゼル様は向かいの席を勧めてくれた。

「失礼します」

「今ね、パイを焼いてくれてるんだ」

「パイですか」

 アゼル様にしては珍しい。

 普段はどちらかと言えばクッキーなどの手でつまめるものを好まれるのだが。

「ティルテュが習ったんだって」

「では、厨房におられるのは」

「ティルテュだよ」

 相変わらず、破天荒な公女だ。

 貴族の娘が嫁入り道具の一つとして菓子作りに励むことはあるが、部屋住みとはいえ公女なのに。

「この前、二人で食べに行ったパイが美味しくて、作りたくなったんだって」

「さすがというか……相変わらずですね」

「僕もそう思うけど、ティルテュらしいよね」

「えぇ。その行動力には驚かされます」

 いくら部屋住みの気軽さがあるとはいえ、やりたいと思ったことを真っ直ぐにやってしまう。

 その部分に羨ましさを覚え、私は視線を厨房の奥へと向けた。

 天真爛漫とは、彼女のような人間のことをいうのだろう。

 羨ましいと思う反面、社交界や政界にはむかない人材だとも思う。

 アゼル様のようなしたたかさがあれば素直さも武器にはなるが、彼女はどうなのだろう。

 今後、ヴェルトマーを支えられるような女性になっていくのだろうか。

 もちろん、政界の濁りを飲み干す役目となる者も必要になるだろうが。

 それは私やルークなどの臣下が引き受ければいいことだ。

「お待たせ」

 焼き上がったのか、一段と美味しそうな香りが辺りを包む。

 侍女とともにプレートごと運んでくる公女に、私は思わず眉をしかめていた。

「あら、アイーダ」

 私の姿に気付いた公女が、思わず足を止めていた。

「代わります」

 そう言って厨房に置いてあった手袋をつけた私に、公女は首を左右に振られた。

「ダメ。焼いた人の特権なの」

「ですが、お怪我をされては」

「大丈夫よ。それより、そこ、離れて」

 私を押しのけるようにして、調理台の上にプレートを下ろす。

 プレートの上で湯気をあげるパイは、なかなかにいい焦げ目がついていた。

「特製のアップルパイよ。アイーダ、お皿をとって」

「はい」

 なるほど。

 切り分ける瞬間までを楽しもうというわけか。

 パイを正面にナイフをかざす公女の表情が、ここまでで一番の笑顔を見せた。

「えい」

 小気味よい音をさせながら、公女がパイを切り分けていく。

 いつの間にかそばに集まっていた私たちに見せるように、公女が切り目をナイフで押し分ける。

 切り目から覗いたパイの中身は、見事に食欲をそそる。

「美味しそう」

「そうよ。お父様にも美味しいって言われたんですもの」

 いや、レプトール卿ならたとえ不味くとも美味しいと言うだろう。

 あの方の娘の可愛がりようは尋常ではないからな。

 だが、今回ばかりはその言葉を信用してもよさそうだ。

「凄いね、ティルテュ」

「三ヶ月もあれば、できないことなんてないわ。アゼルに負けてられないもの」

 アゼル様が出向されていた三ヶ月の間に、公女はパイ焼きをマスターしたということらしい。

 少しズレているとも思えるが、公女なりに成長したところを見せたいのかもしれない。

 それがアゼル様への対抗心や見得だとすれば、少し微笑ましく感じられる。

「僕も何かしようかなぁ」

「アゼルは勉強すればいいの。あたしにはできないもん」

「でもさ、やっぱりものを作れる人が偉いと思うなぁ」

 そう言えば、アゼル様は昔から焼物などの工人には尊敬の眼差しを送られていた。

 それが本質的なアゼル様の性分なのだろう。

 ヴェルトマーの公子に生まれていなければ、その道の人生もありえたのかもしれない。

 手先も器用でおられるし、何よりも研究熱心な方だから。

「アゼル様、ものを作る人、売る人、買う人。そしてそれをまとめる人が世の中には必要なのですよ」

「うん……わかるよ」

「では、作って下さった方に感謝して、いただきましょう」

 そう言って私が頭を下げると、アゼル様も倣うようにして頭を下げられた。

 それを見て、公女が少し照れたような表情で切り分けたパイを皿に盛り付けていく。

「はい、アゼルの分」

 いつの間にか用意されていたナイフとフォークを並べ、お二人が仲良く机に向かい合って座る。

 私と侍女は厨房の中で、少し行儀悪く立ちながらお相伴に預かることにした。

 恐縮していた侍女も、私が一人でいないためにと強引にその場へ残したのだ。

「美味しいよ、ティルテュ」

「当たり前でしょ。あたしが作ったんだから」

「でも、本当に美味しいし」

「あたしだって、やるときはやるんだからね」

 素直に褒めるアゼル様と、口調とは裏腹に喜びを隠さない公女。

 傍から見ていると、背中が痒くなるような光景だった。

「微笑ましいですね」

「そうだな」

 ここがヴェルトマー城でなく、彼女が公女でなければ。

 私は微笑ましく見守ることもできただろう。

「この紅茶、リンゴの香りがするね」

「リンゴの皮を混ぜてるの。ウチの侍女がね、そうすると無駄がないからって」

「今度、アンジェにいれてもらおうかなぁ」

「多分、知ってるわよ。どこの家でもするって聞いたから」

 もしもあの二人が市井の家の者ならば、まるで理想の二人だっただろう。

 だが、権謀術数の渦巻く世界で生きていかねばならないのだ、アゼル様は。

 そしてもちろん、あの公女でさえも。

「でも、たくさん焼いちゃったね」

「冷めても美味しいわよ。リンゴがね、少し硬くなって歯応えが出るの」

「でも、パイ生地はしなるんじゃないかな」

「その分、リンゴの果汁がじわりと出てくるのよ」

 サクリ。

 まだ焼きたてのアップルパイは、音を立ててパイ生地が崩れる。

 職人に作らせたものと比べれば落ちるが、それを望むことは酷だろう。

 何より、公女が客人に振舞うものとしては文句のつけようがない。

「妻としては十分か」

「まぁ、そこまで考えておられるのですか」

「単に可能性だ」

 小さく微笑んだ侍女にそう言い返しておいて、私は足音を立てずに厨房を出た。

「今はまだ、早いからな」

 そう、今はまだその時期ではない。

 アゼル様が成人され、公女が成熟なさったときに考えればよいことだ。

 その頃までに、ヴェルトマーの基礎は作り上げなければならない。

 真っ直ぐな二人が当主になろうとも、決して揺るがないほどの基盤と人材の壁を。

「頑張らねばな」

 空を見上げれば、青空が広がっている。

 今日の休暇は、もう少し気温が上がりそうだ。

 

<了>