逃がしません
「オイフェ様」
身体を揺り動かされ、私はゆっくりと目を開いた。
随分と深い眠りに落ちていたらしく、意識がすっきりとしない。こんなことは久しぶりだ。
長く戦場に身を置く私にとって、よくない傾向だな。「まだ、暗いじゃないか」
眠り込んでしまっていたのかとも思ったが、空はまだ暗いままだ。
意識がすっきりとしないのは、視界が確保されていないことも理由の一つだろう。身体を起こそうとすると、冷たい手が私の肩に触れていた。
無意識のうちに手を伸ばすと、肩に触れていた手が去っていく。「誰かが来ます」
「敵襲か」
ささやく声を聞いて、ようやく私は隣にいた女性のことを思い出した。
どうやら彼女が駆けてくる足音を聞きつけたらしい。「わかりません。とにかく、準備をした方がいいのではなくて」
「君はどうする」
「今からは出ていけません。上手く対応してください」
「わかった」
脱ぎ捨ててあった服を着込み、気付いた彼女の服を部屋の隅へと運ぶ。
湿った服に袖を通している間に、少しずつ頭が回転していくのがわかる。
完全に仕度を整えた頃には、廊下を走る足音が私にも確認できた。しかし、彼女は寝ていなかったのだろうか。
私もかなりそういう気配には敏いほうだが、彼女は私よりも早く気付いていた。
知りたくはないが、彼女の過去に何かがあったのかもしれない。「オイフェ様、起きていらっしゃいますか」
遠慮がちなノックの後で、ラクチェが尋ねてくる。
私はちらりと背後のベッドの上を確認すると、ゆっくりとドアを開けた。「あぁ。何かあったのかね」
「レヴィン様がお呼びです。急いでオイフェ様に来ていただくようにと」
「わかった。すぐに行こう。レヴィン殿はどこにいるのかね」
「私室でお待ちだそうです」
中の様子に気付いたのだろう。
中を覗きこもうとしたラクチェの視線を遮るように腕を上げ、私はラクチェの肩を押した。「セリス様にも、このことを」
「わかりました」
ラクチェが駆け出すのを見送って、私はドアを閉めた。
それと同時に、布団の中に潜っていたレイリアが顔を出す。「気付いていたようですね」
「あぁ。だが、誰かはわからないだろう」
「女の子の勘を甘くみないことです」
ラクチェも女の子か。
どうにも私はそのあたりの感覚が疎い。「とにかく、私は行くことにする。君は、どうする」
「頃合を見計らって出て行きます。慣れていますから」
そう言った彼女の瞳は、彼女の瞳ではないような気がした。
いつもよりわずかに伏せられている睫毛に気付くほど、私は彼女のことを見ているのだろう。そのことに気付いたとき、私は不謹慎にも嬉しくなっていた。
だが、今はそのことを口にしている時間もなさそうだ。「敵襲なら、最前線には行かないで欲しい」
「戦力にもなりません。大人しく、城の片隅で震えています」
「ここまでは来させないさ」
「ご武運を」
「あぁ」
夜襲をしかけてくるということは、相手はトラキア軍の残党だろうか。
もしもそうだとすれば、この城では簡単に迎撃体勢を整えることができない。普通の平城で彼らを相手にするには、ロングアーチ隊の設置が不可欠だからだ。
もちろん、通常の弓隊は配備してあるが、それでは心許ないだろう。「面倒なことにならなければいいが」
夜襲の恐ろしさは敵の数が視認できないところだ。
どうしても勢いというものに飲まれがちになり、主導権を握り返すことが難しい。「今日の夜勤はセティ殿だったはず。万が一のことがなければいいが」
セティ殿ほどの風使いなら、むざむざと夜襲を許すとは考え辛い。
楽観的な考えかもしれないが、セティ殿が夜襲の気配を読み取った可能性も低くはない。「レヴィン殿、入りますぞ」
ノックもなしにレヴィン殿の部屋に飛び込むと、そこにはセティ殿が厳しい表情で立っていた。
どうやら、既に迎撃体勢は整え終わったということか。「オイフェか」
「至急とのことでしたが、何かありましたか」
「バーハラからの報告が入った」
レヴィン殿が独自に遣わしていた密偵なのだろう。
少なくとも、私の知っている限りではバーハラへ密偵などは送っていない。
シレジアの密偵だということを考えれば、夜勤のはずのセティ殿がこの場にいる事も納得できる。「それで、何がわかったのですか」
「懸案だったアリオーン王子がバーハラで確認された。おそらく、ユリウスに匿われているのだろう」
「バーハラにいたのか……」
フィン殿の話では、自決する直前に魔法陣に包まれたという話だった。
それが多分、ユリウスの放った移動魔法の魔法陣だったのだろう。「アリオーンがこのトラキアにいないという確証を得た以上、ここに留まるのは愚作だ」
レヴィン殿の言うように、これ以上はトラキアに留まる理由もない。
アリオーン王子の動向によっては難しい局面もあり得るが、今は時間も惜しい。「明日には出立の用意をさせる。それでいいな、オイフェ」
「わかりました。セリス様には、私の方から知らせておきましょう」
そう言って部屋を出ようとした私を呼び止め、レヴィン殿はセティ殿をセリス様のところへ遣わせた。
私が戸惑いながら部屋に残ると、レヴィン殿が私に対して苦笑を浮かべた。「すまんな。あの息子は誰に似たのか、責任感が強すぎるくらいでなぁ」
「間違いなく、フュリー殿の息子ですね」
「言うようになったな、お前も」
あの頃には言えなかったことだ。
シグルド様がご健在なら、今も絶対に言うことはなかっただろう。「まぁ、今のお前をセリスのところへ行かすわけにもいかないんだが」
今の私を行かすわけにいかないとは、どういう意味だろうか。
部屋を出てくるときにも一応は身形を整えてきたつもりだ。私が眉の間に皺を寄せていると、レヴィン殿の口許が薄気味悪く微笑んだ。
「まさか、踊り子の香水を匂わせて主君の前に出るわけにもいかんだろう」
「え……香水の匂いが」
「するぞ。まぁ、ほんの微かな移り香だとは思うがな」
慌てて服の匂いを確かめてみたが、微かな香りすら嗅ぎとれない。
もしかしたら、髪や首筋から匂ってきているのだろうか。「……その様子だと、一緒に寝てやがったな」
見事なカマだ。
レヴィン殿の口許が、それを証明していた。「……どこまでご存知なんですか」
「まぁ、あのラクチェにお前を呼びに行かせたのは俺だ」
「中まで覗かれましたよ。ただ、誰かは気付いてないと思いますが」
「さて、部屋には香水の匂いがしてたんじゃないのか」
部屋の香水の匂いまではわからない。
ただ、このままここにいてはストレスが溜まるだけということは理解できた。「帰らせてもらいます」
「お楽しみか」
「戻ります」
まったく、あのシレジア国王は他人の色恋沙汰に首を突っ込むのが好きな方だ。
当人が恋愛していたときでさえ、周りを巻き込んで無茶苦茶にしたくせに。
引っ掻き回すだけ引っ掻き回しておいて、自分はさっさと本命と結ばれるのだから性質が悪い。アレクさんも言ってたけど、天性の問題児だ。
いくつになっても本質の部分は変わってない。「まったく、あの人は」
腹立たしかったせいか、行きの半分ほどの時間で部屋まで戻ってしまった。
足音も当然荒かったんだろう。
出迎えてくれたレイリアの表情には、驚きと不安の色が浮かんでいた。「オイフェ様」
「最悪だ。あのエセ軍師に一杯かまされた」
「エセ軍師、ですか」
「この気持ちが落ち着くまでは、いいだろう」
有無を言わさずに、レイリアの身体を抱きしめる。
躊躇うことなく背中へまわされる彼女の腕は、憎らしいほどに慣れていることを思わせる。一体、どれだけの人間が彼女を抱き締めたのだろう。
どれだけの男を、彼女は許してきたのだろう。「聞きません」
「そうやって、どれだけの男から聞き出してきたんだ」
「貴方が思うだけの数を」
この如才のなさだ。
これが私を虜にする。悔しいくらいに柔らかく、もどかしいくらいに本質を見せない。
「レイリア」
名前を呼ぶだけで、彼女は瞳を閉じて唇を開く。
柔らかく冷たい唇を貪りながら、私はまた彼女に溺れていくのを感じていた。
<了>