貴方へ


「困ったわね」
「どうされたんですか、アルテナ様」

 鍋を目の前に腕を組んでいたアルテナに、そばを通りかかったナンナが足を止める。

「あぁ、ナンナ」
「何か足りないものでも」

 尋ねてくるナンナに、アルテナは鍋の中身を覗き込みながらため息をついた。

「えぇ。レシピ通りには作ったのだけど、口に合わないのよ」
「何を作られたんですか」
「カレーを作ったんだけどね」

 そう言って、アルテナはお玉で鍋の中身をすくった。
 香辛料の香りが鼻をくすぐり、見た目にも美味しそうにできている。

「ちょっと食べてみてくれないかしら」
「いいですよ」

 アルテナからお玉を受け取ったナンナが、鍋の中身を味見する。
 少し甘い感じはするが、比較的美味しく仕上がっていた。

「美味しいですよ」
「そうかしら。どうもスパイスが足りないと思うんだけど」
「そうですか。十分だと思いますけど」

 ナンナに認められても、アルテナはまだ不満そうに鍋を見つめている。
 味の納得の仕方は千差万別だが、一定レベル以上になれば好みの問題だ。

「あの、何が足りないのですか」
「酸味……かしらね」
「酸味ですか」

 予想外の答えに、ナンナが目を瞬かせる。
 それを見ていたアルテナは、小さく肩をすくめた。

「育った環境の差ね。ナンナが美味しいのなら、それでいいわ」

 そう言って鍋のふたを閉じたアルテナに、ナンナがハッとする。
 トラキア王族として育てられ、今も王女として従軍している彼女が食事の用意をしているのだ。
 何も知らない者が見れば、不和のせいで働かされていると見えないこともない。

「あの、アルテナ様がお作りになられたのですか」
「えぇ。皆、忙しそうだったから」
「そんな。アルテナ様に食事の準備など」

 恐縮し始めるナンナに、アルテナは笑顔で否定した。

「いいのよ。私も手が空いてたのだから」
「それでも、私がリーフ様に叱られます」
「まぁ、そんなことで叱るなんて」

 そう言いながらも、アルテナは笑顔のままだった。
 その気持ちの中には、ナンナに味を認められた嬉しさも混じっていたが。

「それじゃ、こうしましょう」

 あたふたとしているナンナに、アルテナは内緒話をするように耳もとへ口を寄せる。

「フィンへの手料理のついでってことで、ね」

 仕上げとばかりに、ナンナの耳へ甘い息を吹きかける。
 顔を赤くして硬直するナンナを見て、アルテナは満足気に微笑んだ。

「なんてね」
「ア、アルテナ様」
「ふふ、楽しいわ」

 満足して立ち去ろうとしたアルテナに、ナンナが反撃を試みる。
 まずは手始めにと、近くにあった食器に鍋の中身を盛った。

「ほ、本当にそう言って渡しますからね」
「え、ちょっと、ナンナ」

 ナンナの真剣な表情を見たアルテナは、慌ててナンナへと詰め寄る。
 それを軽くかわして、ナンナがじりじりと後退していく。

「本気なの」
「アルテナ様があんなことするからです」
「ちょっとした冗談よ。大人気ないわね」
「どちらがですか。いくらアルテナ様でも酷すぎます」

 フィンのいる天幕までの距離を目算しながら、アルテナはナンナを止める段取りを組み立てていく。
 幸い、フィンが天幕の中にいるかどうかの保証はない。だが、いない保証もないのだ。

 もちろん、ナンナだって黙ってアルテナのことを許すつもりは無い。
 二人の緊張が極限に達し、ナンナが駆け出そうとした瞬間、空気を読めない男が姿を現した。

「ナンナ、リーフ様はどちらに」

 一瞬の隙を作ったアルテナに対し、ナンナの動きは素早かった。
 数歩の距離を一気に詰め、フィンへカレーの盛られた皿を渡す。

「あ、ナンナッ」

 焦るアルテナに、ナンナが畳み掛けるようにフィンへと話しかける。

「フィン様、アルテナ様の愛の手料理です。真っ先にフィン様に食べていただきたいそうです」

 ナンナの言葉に、フィンのもろい涙腺が緩み始めた。
 それを見ていたナンナが、心の中で快哉を叫ぶ。

「なんと……この私が、アルテナ様の手料理を真っ先にいただけると」

 今にも神への祈りをささげそうなフィンに、アルテナは観念したかのように歩み寄る。
 こうなってしまえば、後はナンナを追い払ったほうが得策だろう。

 そしてこの好機を逃すまいと、ナンナが逃亡を図った。
 逃げ足の速い将来の義妹候補を黙って見送り、アルテナはフィンと向かい合った。

「アルテナ様」
「ナンナも大袈裟ね。食事の用意をしただけよ」
「アルテナ様がなさらずとも、私をお呼び下されば」
「馬鹿ね。女の子にとって、好きな人に手料理を食べさせるのも夢の一つよ」

 そう言って微笑んだアルテナに、フィンの涙腺が決壊する。

「このフィン、アルテナ様にお仕えして……」
「フィン」
「も、申し訳ありません」

 服の袖で涙を拭ったフィンに、アルテナは味をみるように勧めた。
 勢いよく食べ始めたフィンの涙腺が再び崩壊するまで、さほど時間はかからなかった。

「お見事です、アルテナ様」
「美味しいかしら」
「はい。今まで生きてきた中で、最高の料理です」
「大袈裟ね」
「いえ、決して誇張した表現では」

 そう言って食べ続けるフィンを見るアルテナに、徐々に恥ずかしさがこみ上げてくる。
 フィンが半分ほど食べ終わったところで、アルテナはついに視線をそらした。

「ねぇ……また作ったら、食べてもらえるかしら」
「はい。当然です」
「約束してくれるかしら」
「ノヴァの聖光にかけて」

 すっかり食べ終えたフィンから皿を受け取り、アルテナは頬を染めながらうつむいた。

「本当は、もっと早く食べて欲しかったわ」
「す、すみません」
「あ、そうではないの。本当に初めての手料理を、貴方に食べて欲しかったなって」
「申し訳ありません。あの時、私が……」
「だから、そうではないの。トラキアの味を覚える前に、貴方に料理を作ってあげたかったなって」

 そう言って背を向けたアルテナに、フィンがゆっくりと歩み寄る。
 気配を感じたアルテナは、皿を持ったまま硬直していた。

「いつだって、貴女だけの味です」

 その言葉を待っていたようにして、アルテナは皿を置いた。

「貴方に合わせられるよう、頑張ってみたいわね」
「私でよろしいのですか」
「フィンでなければ駄目なのよ」
「光栄です」

 振り返ったアルテナを待っていたのは、年甲斐も無く赤面している従者の姿だった。
 それだけでも、アルテナは思いがけなく転がり込んできた幸運に感謝していた。

「また、作るわね」

 今度は、より貴方好みの味になるように。

<了>