微笑みしか知らない女
1
他の方からしてみれば、本当に何気ない一言だと判断されるだろう。
事実、お酒の入った席での、売り言葉に買い言葉。だけど私は、王子が多少のお酒では酔われないことを知っていた。
だから、とてもその場限りの言葉だとは思えなかった。「俺、微笑むことしか知らない女は好きじゃないんだよ」
……どうして、その場に残っていたのだろう。
すごく後悔した。後悔しても、しきれないくらいに。
いつものように、早くその場を辞していたのなら。
いつものように、給仕のために忙しく動き回っていたならば。「聞かずに済んだはずなのに」
聞いてしまった。偶然とはいえ、耳に入ってしまったのだ。
そして、一度聞いてしまったら、もう忘れることはできない。「馬鹿ね……私ごとき、レヴィン様の隣に立つことを夢見ることすら許されないというのに」
微笑もうとした。
王子が微笑むことしか知らない女をお嫌いだというのなら、とことん嫌われてしまえばいい。
そばにいることさえ、副官でいることさえ王子が嫌われてしまうほどに。「簡単だわ」
いつものように、常に微笑みを貼り付けておけばいい。
そうすれば、私のこの辛さは消えてなくなる。
シレジア城に戻り、王子が結婚されたという報せを聞きながら、この想いを捨て去ってしまえばいい。「なのに……どうして」
涙ばかりが出てくるのだろう。
こんな泣き腫らした目で、王子の前にいけるわけがない。「馬鹿ね。嫌われる機会なのに」
不細工な女だと思われれば、王子が私を遠ざける理由になるだろう。
それでも、私の中の何かが、それを拒否してしまっている。
職務に対する義務感なのか、王子に嫌われたくないという浅はかさだろうか。でも、今日は絶対に出なければならなかった。
もしも昨日の言葉で、王子が私を心配してしまわないように。
結局、私は二日酔いということを理由に、今日の職務を休んだ。
王子からの訪問も、丁重にお断りした。「フュリー隊長、お加減はいかがですか」
「えぇ。明日には戻るわ。今日一日、レヴィン様のことをよろしくね」
「はい」
私の副官に私の代わりを任せて、ぼんやりと天井を見つめる。
昨日の王子の言葉が頭の中を駆け巡って、天井がまた歪んで見えた。「隊長、この決算のことなのですが」
「厄介なものは明日に残しておいて構いません。今日が期限のものだけ、片付けておいて」
「はい」
任せても大丈夫だろう。
元々、私よりも長く天馬騎士の職に就いているのだから。むしろ、貴方が王子の副官だったら。
私が王子を好きになることもなかったかもしれない。そんなことを考えていたら、どうしようもなく惨めな気持ちになってくる。
一瞬だけでも、王子の隣に彼女が寄り添っている姿を想像してしまったことが悔しい。わずかに布団を引き上げて、私は卑怯にも寝返りを打った。
「……それで、今回の喧嘩の原因は何なのですか」
書類をトントンと整え直す音の後に、彼女が椅子に座る音がした。
私の副官は私の意に反して、私を構うつもりらしかった。「……」
「布団、引き剥がしますよ」
だんまりを決め込もうとした私に、エレミアが残酷にも尋問を開始する。
「フュリー隊長」
「別に何もないわ。ただ、少し飲み過ぎただけ」
「あくまでそう言い張るおつもりなら、今すぐにティノを呼びにやらせますが」
冗談じゃない。
こんな気持ちの時に、あの底抜けに明るいあの子の相手なんて。「本当、貴方って嫌な部下ね」
「そうでしょうか。私は上司の恋路も黙認する、できた部下だと自負しておりますが」
「嫌いよ」
「嫌われてこその副官ですから」
エレミアに負けて、私はベッドの上で身体を起こした。
そして、問われるままに昨晩の出来事を話していた。「なるほど。それでフュリー隊長は落ち込んで仕事をする気にもならないと」
「えぇ、そうよ。笑ったらどう。情けない隊長で悪かったわねッ」
ついつい激しくなってしまった私に、エレミアは相変わらず嫌味なほど悠然としていた。
そして、微笑を浮かべながら私の方へと迫ってくる。「エ、エレミア」
思わずあとずさろうとした私は、すぐに壁にぶつかった。
エレミアの笑顔は、どうしてこうも怖く感じるのだろう。「いいのではありませんか」
「何が」
「とことん、王子に嫌われておしまいになれば。私も、シレジア城へ戻れますし」
絶対に本心ではない。
エレミアの実家はセイレーンにあるのだし、シレジア勤務は気苦労が耐えないと漏らしていた。
それでも私の副官だからと言って、私の我侭とも言える王子探索にも付き合ってくれた。「エレミア……貴方、何を考えているの」
「思いきり、王子に嫌われる努力を致しましょう」
「え」
「幸い、私たちは王子の嗜好を隅から隅まで知り尽くしておりますし」
「え、えぇ」
「それでは、作戦を練りましょうか」
いつになく積極的なエレミアに押し切られ、私は思わず頷いてしまっていた。
こうして私は、”王子に嫌われてシレジア城に戻る大作戦”を実行する羽目になった。
2
次の日から、私は笑顔を振りまくようになった。
微笑みではなく、はしたないほどに口許も覆わぬ笑顔で。周囲からは概ね好評のようだ。
どうやら、シレジアに戻って一段落ついた安堵感から、私本来の性格に戻ったと思われているらしい。
ここがシレジア城でないことも、その誤解の手助けとなっているようだ。「フュリー、明るくなった感じがするわ」
「そうでしょうか。帰ってくることができて、ほっとしたのかもしれません」
「あのバカ王子のお守なんて、大変よねぇ」
「そうなんです。もう、これでもかとお逃げになられますので」
「アハハッ」
特に、ティルテュ様には受けがよくなったようだった。
それまでは特にお話することもなかったのに、お誘いを受ける回数が増えた。軍内の女性陣の中でも、一、二を争う行動派。
感情表現も豊かで、私が全力でオーバーにアクションをしていても、彼女はそれを軽く超えてしまう。「ねぇねぇ、これから城下に出るんだけど、一緒に行かない」
「はい。特に予定もありませんし、お供いたします」
「じゃ、きまりね。ケーキの材料を買いに行きたいの」
「ケーキの材料ですか」
「ほら、セリスがそろそろ誕生日なんだって。せっかくだから、手作りでお祝いしようかなって」
「それは存じませんでした。それでは、市場へ行かれますか」
「案内、よろしくね」
本当に元気な方だ。
ポニーテールが揺れていないときはないと思えるくらい、常に活発で、ハキハキとした言動。
私の持っていた公女のイメージとは違うけれど、れっきとしたフリージの公女様。近くにいた下女に出かけることを告げ、それほど準備もしないままに城を出る。
戦場での働きは他の方々に劣っても、自信はおありになるのだろう。
私の他には供も連れず、護衛の騎士すら連れようとはしない。「カップケーキにしようと思うんだけどね」
「はい」
「中身、何が好きなのかしら」
突然の問いかけに、私は目を瞬かせていた。
カップケーキの中身……ということだろうか。「セリス様なら、まだ甘いものは控えたほうがよろしいかと」
そう答えると、ティルテュ様は笑いながら私の肩を叩かれた。
「やぁね。フュリーの好きなものよ」
「わ、私ですか」
「当たり前じゃない。他に誰がいるのよ」
「私は木苺などが好きですが……でも、どうして」
「どうしてって、作る人が一番好きなものを作ったほうが、美味しいからに決まってるじゃない」
「そ、そういうものなのですか」
「そういうものなの」
半ば強引に好みを訊きだされ、カップケーキの彩となる果物などを購入する。
さらにはグランベル本国では滅多に飲まないらしい、シレジア原産の茶葉まで買ってしまう。入る店の品物の一つ一つに反応し、思いつきで会話をふくらませるティルテュ様は、今の私には辛い。
無理して笑っていた私を、思わず微笑ませてしまうような温かさ。
どこか勢いのある子供と接しているような錯覚を覚える可愛さと、心からの笑顔。「ティルテュ様などと比べられたら……」
万が一にも、私に勝ち目はない。
ただでさえ、私は一介の騎士なのだ。フリージ家の公女様の隣に並ぶことはおろか、比べることさえ不遜極まりないことなのだ。
社交界の敷居が低いシレジアの王子が洗練されたグランベルの方々に関心が向くのも、仕方のないことだ。「あ、フュリー。上の、取ってくれない」
「はい。えっと、こちらでよろしかったですか」
「そう、それ。それさ、どんな味がするの」
「これは白ワインにオレンジピールを入れたものですね」
「それ、美味しいの」
「はい。これを使ったケーキなど、レヴィン様は一番お好きですよ」
言ってしまってから、ティルテュ様の顔がニヤリとしたことに気付く。
あぁ、迂闊だったわ。
どうして王子の名前を出してしまったのだろう。「やっぱり、レヴィンの事を聞くならフュリーよね」
「あ、あの、幼少のみぎりのことですから」
慌てて繕ってみても無駄だろう。
現に、ティルテュ様の瞳はランランと輝きだしていた。「ただの副官が、王子様の細かな趣向まで知らないわよね」
「学友の立場でもありましたので」
「ふぅん。ま、そういうことにしておきましょ」
絶対に信用されてない。
今のは無理に追及せず、後からゆっくり楽しむつもりなのだろう。「……あとは、何か必要なのですか」
「いいえ。寒くなってきたし、レヴィンも待ちくたびれてるだろうしね」
「え、あ、あの」
訳がわからずに素に戻ってしまった私に、ティルテュ様はニッコリと笑顔をお見せになる。
「いい加減、仲直りしないとねっ」
3
きまずい。
どうしようもないほど、この状態は居心地が悪い。
目の前にはレヴィン様。そして、席に座っているのは私と王子の二人きり。
私をここに連れてきたティルテュ様は、何かの準備をすると言って部屋を出て行かれたまま。私は貼り付けたような笑顔で先に出されたお茶をすすりながら、背中に流れる汗の数を数えていた。
「……おい」
「はい」
「いや、何でもない」
「そうですか」
おそらく、レヴィン様も私の笑顔の意味はわかっていらっしゃるはず。
だからいつものような軽口も叩かれず、私たちはお通夜のような静けさの中にいる。「お、遅いですね、ティルテュ様」
沈黙に耐えかねて、私はそう言った。
「あぁ」
「あの、私、お茶のお代わりを」
「まだ残ってるのにか」
「い、いえ」
お茶のお代わりは逃げるための口実だった。
まだ残っているのだから、お茶菓子にすればよかったのに。「……あぁ、もう面倒だな」
「はぁ」
「あのな」
レヴィン様は小さく頭をお振りになると、私の方へ身を乗りだされた。
思わず身体を引こうとした私の手が、レヴィン様の手に押さえられる。「お前、何を気にしてるんだ」
「な、何がですか」
「お前、最近、無理に笑ってるだろう」
「そ、そんなことは」
「俺の眼はごまかせねぇぞ。大体、あんな風にオーバーアクション取るようなヤツじゃないだろう」
やはり、無理があったのだろうか。
城内の者も騙せていたから、大丈夫だと思っていたのに。「なぁ、ひょっとして、気にしてるのか」
「な、何をでございますか」
「俺が言ったことだよ」
レヴィン様の言葉に、思わず身体が硬直してしまう。
「……やっぱりな」
「やはりとは、どういう」
「昨日な、エレミアに吐かされた。おまけに、母上にまで報告すると脅された」
もう、本当にお節介な部下だわ。
情けない気持ちになって視線を落としていると、レヴィン様の手が私の頬に触れた。
ゆっくりと顔を持ち上げると、レヴィン様の顔がすぐ目の前に迫っていた。「俺は、お前が微笑みしか知らない奴だとは思ってないぜ」
「で、ですが」
「こうして拗ねるし、泣きもするし、心から笑える奴だろう」
「レヴィン様」
「まぁ、別の意味でも笑えるけどな」
そう言うと、レヴィン様は意地悪そうに笑った。
「泣くな」
言われて気付いた。
知らない間に、涙腺が緩んでいるらしい。
涙を拭う私の頭をポンポンと叩いて、レヴィン様は私に背中を向けた。昔からそうだった。
私が泣いているときは、いつも背中に私を隠すようにして下さっていた。「無理、するなよ」
「はい」
レヴィン様のことをわかっているつもりだったなんて、何て私は傲慢だったのだろう。
こうして部下の一人である私にまで気を遣って下さる、素晴しい王子なのだ。シレジアへ連れ帰ってきたのは私だという自負が、私を増長させてしまっていたらしい。
たとえこの想いが報われることがなくても、私はただ一心にお仕えするだけのこと。レヴィン様の側近として、シレジアの天馬騎士として。
「ご心配をおかけいたしました」
「気にするな。お前なら、いくらでも心配してやるさ」
「ありがとうございます」
いつか、貴方が王妃を迎えられるそのときまで。
私が貴方をお守りします。そしてほんの一度でいい。未来の王妃に嫉妬することをお許しください。
それだけで、私のこの想いは報われます。「さて、お節介どもを撫でてくるかな」
「あまり騒動にならないようにお願いします」
「わかってるさ」
廊下から聞こえてくるレヴィン様とティルテュ様の罵りあう声が、私の頬を緩ませる。
「レヴィンが悪いんでしょー」
「お節介なんだよ、お前らは」
「レヴィンが頼りないから」
「お前らには関係ないだろうが」
「作戦考えたのはレックスだし」
「アンタか、黒幕は」
「具体案考えたのはアゼルだぞ」
「え、僕なの」
賑やかになってきた廊下の声に、私は反対側の出入り口から退散することにした。
いつか私も部下として、あの輪の中に入るのだろうか。
そのときまでには、この想いを捨てておこう。レヴィン様の心配が私に向いてしまわぬように、いつもの微笑みを浮かべていられるように。
今はまだその自信がないから、あの輪の中に入っていくことはできないけれど。
いつかきっと、あの輪のそばで微笑んでいたい。貴方のそばにいられる、貴方の副官として。
<了>