クラップド・ローズ


「ひどい雨だね」

「止む気配はありませんな」

 制圧したばかりのフリージ城で、セリスとオイフェは窓の外で降りしきる雨を眺めていた。

 ヒルダの敗北と同時に降りだした雨は激しさを増し、まるで神の流した涙のように辺りを包んでいる。

「全軍に通達しよう。この雨が止むまで、あちらだって進軍できない筈だ」

「そうですな。この雨では、馬も役には立たぬでしょう」

「恵みの雨になればいいね」

「兵たちにも、よい休息になるでしょう」

 ドズル公国との激闘からフリージ制圧まで、セリス軍は休むことなく駆け抜けていた。

 兵に休息をとらせ、体勢を整えるためには願ってもないタイミングである。

「バーハラからの軍が来るまで、何日ぐらいかかるかな」

「籠城戦を採るかもしれません。一度、斥候を出しておくべきでしょうな」

「この雨じゃ、天馬も飛べないだろうね」

「雨足が弱くなるのを待つしかないでしょう。天馬隊には、先に休息を取らせるべきかと」

 オイフェの進言を受けて、セリスも微笑みながら肯く。

「念のため、街へは行かないよう、天馬隊へは伝えておこうか」

「そこは仕方ありませんな」

 斥候を務めるだけならば、デルムッドやフィンといった騎馬隊でも可能である。

 しかし、ヒルダさえも失った帝国軍が野戦を挑んでくるならば、それは総力戦となってくる。

 その場合、敵軍の斥候を務めるのは、帝国軍側についた天馬騎士団である可能性が高い。

 セリス軍側としても、どうしてもフィーたち天馬隊に斥候を務めてもらう必要があった。

「スカサハに城門警備をさせましょう」

「そうだね。スカサハなら夜襲が来ても安心だし」

 休息をとる部隊と見張りにつく部隊を分け、セリスは後をオイフェに任せることにした。

「それじゃあ、後は頼むよ」

「はい。ですが、どちらへ」

 部屋を出て行こうとするセリスに、オイフェが尋ねる。

 すると、セリスは照れくさそうに頬をかいた。

「後方部隊の様子を……ね」

 それを聞いたオイフェの表情が、納得したように緩む。

「そうでしたか。これは、無粋でしたな」

「そういうんじゃないからね」

「ラナ殿も喜ぶでしょう。ですが、くれぐれも邪魔しないように願いますよ」

「わかってるよ」

 軽やかな足取りで救護室へと向かった主君を見送り、オイフェが侍従を呼んだ。

「すまないが、皆に休息をとると伝えてくれ。それから、レヴィン殿には話があると」

「承知しました」

 オイフェがふと視線をやった窓の外は、未だ雨が強く振り続いていた。

 

 

 

「お兄ちゃん、今日は進軍停止だって」

 魔道士隊の幕に顔を出したフィーが、セリスからの通達を兄であるセティへと伝える。

 負傷者が抜けた後の隊の再編成を話し合っていたセティは、妹の報せを聞いて、首を左右に回した。

 小気味よい音が鳴り、フィーと部下が思わず苦笑をもらす。

「お疲れね、お兄ちゃん」

「まぁね。アーサーがいない分が、全部私にまわってきていてね」

「アーサー、いないんだ」

「用事があると言っていたな。ティニーは負傷者のところへ行っているし、人手が足りなくてね」

 気を利かせた部下が、再編成を示した資料をまとめ始める。

 セティは立ったままのフィーを中へ招き、湯気の立つ紅茶を入れはじめた。

「どうだ、お茶でも」

「もらう」

 セテイに用意されたお茶を手にして、フィーが手近にあった椅子に腰を下ろす。

 幕を叩く雨音は一向に収まらず、激しい音をさせていた。

「気が滅入るわね、ここまで降ると」

「滅入っていても仕方ないだろう。城内で休んでいたらどうだ」

 一般兵はともかく、フィーたちのような幹部は城内の一室で休むことを許されている。

 セティ自身も用があったために幕へ出向いていただけで、用が済めば城内に入るつもりでいた。

「そのつもりだけど、天馬隊は準待機なのよ」

「雨が弱まれば、すぐに斥候任務か」

「多分ね。まぁ、ドズルの時は後方支援だったから、別に疲れてはいないんだけど」

 そう言って、フィーがカップを置いた。

 お代わりを注ごうとしたセティを制して、フィーが立ち上がる。

「もう一度、厩へ戻るわ」

「何か、心配事か」

「そうじゃないの。マーニャがね、羽がしけって機嫌が悪かったの」

「シレジアでは、これほどの大雨は滅多に降らないからな」

 気温の低いシレジアに生息する天馬は、雪には強くても雨には弱い。

 フィーの愛馬は今日一日、厩の中で不機嫌そうに寝そべっていた。

「この雨では、なかなか乾かないだろう」

「そうなのよね。早く止んで欲しいんだけど」

「父上は、どう言われている」

「三日は降り続くだろうって。空気が重たいだけじゃなくて、空が何かを悲しんでいるようだって」

 フィーに続いて幕の外に出たセティは、黒い雨雲に覆われている空を見上げた。

 落ちてくる雨粒はさほど大きくなく、この雨がにわか雨でないことを教えてくれる。

「天が流した涙、か」

「そう言えば、アーサーもそんなことを言ってたわ」

「会ったのか、アーサーと」

「厩で少しだけ」

 厩へ移動した二人は、セティの姿に敬礼を送る天馬騎士たちへ、気にせずに作業へ戻るよう告げる。

 各自の天馬の世話に戻った騎士たちの隣で、二人はフィーの愛馬の世話を始める。

「さっき拭いてあげたばかりなのに、もう湿気ってる」

「この雨では仕方ないだろう。少し、風を含ませてみるか」

 マーニャの羽根に手をかざし、セティは風精を宿わせる。

 嬉しそうに嘶いたマーニャが、セティへと顔をすり寄せる。

「厩の中だけでも乾燥してくれるといいのにね」

「敷き詰める藁を乾かしておくしかないだろうな」

 マーニャを撫でながら、セティは足下の藁が湿気ていることを確かめつつそう言った。

「仕方ないわね。休暇返上しないと」

 ため息をつきつつ、フィーが天馬騎士たちへ指示を与える。

 半数の騎士たちが厩を離れ、残った騎士たちは暖炉に火を入れて藁を乾かしていく。

「そう言えばさっき、アーサーに会ったと言っていたな」

「うん。それがどうかしたの」

「休息をとることになったと知らないはずだ。教えてやらないとな」

「どこに行ったのかなんて、あたしも知らないわよ」

 そう言って肩を竦めたフィーに、セティはマーニャを撫でていた手を離した。

「探しに行くか」

「あたしも行くわ。少し、変な感じはしてたし」

「フィーも感じていたか。フリージを解放したにしては、どうも元気がなさそうだったからな」

「そうなのよ。疲れてるって感じじゃないわ。何かこう、何かが抜け落ちた感じ」

 マーニャの首をポンと叩き、フィーがセティの隣に並ぶ。

 セティはアーサーの魔力を探りながら、雨の中を北へと走りだした。

 

 

 

「城を出たのか」

 アーサーの魔力を感じる方角へ真っ直ぐに進んでいた二人は、北の城門へと辿り着いた。

 フリージ城攻防戦の舞台とならなかったためか、城門や付近に戦いの痕はない。

「この雨の中を」

 フィーがそう言って、眉をひそめる。

 既に二人とも濡れねずみになっていたが、城外へ出ることは更に勇気を要した。

「フィー、雨具を取ってきてくれないか」

「わかったわ」

 門兵の詰所へフィーを向かわせ、セティは城門の隣の通用門に手をかけた。

 アーサーが出て行ったと考えられる証拠に、通用門の鍵は開けたままになっていた。

「取ってきたわよ」

 フィーから雨具を受け取り、セティは手早く着込んだ。

 濡れていた服が肌に張り付くが、直接風雨に晒されるよりは幾分かマシになる。

「外に出たようだ」

「街道に出るなら、東門から出るわよね」

「この先には海があるだけだ。海を見に行ったのかもしれないな」

「魔道士ってのは、どうして揃いも揃って変態なのかしらね」

 言外に自分に対する責めも含まれているなと感じながら、セティは通用門をくぐった。

 文句を言いつつもついてきたフィーを先導する形で、セティは北へ北へと歩を進める。

 

「……ここか」

 二人の視界の先に雨で霞んで見えているのは、赤いバラ園のようだった。

 セティの言葉に、フィーが目を細める。

「何かの間違いじゃないの。アイツにバラなんて似合わないし」

「間違いない。近くにはいるはずだからね」

 バラ園に足を踏み入れたセティを追って、フィーもあわてて中へと入る。

 中は手入れが行き届いていたのか、野生化したバラが通路にはみ出すということもない。

 野バラでさえ、きっちりと花壇の中に収められていた。

「随分と手入れが行き届いているわ」

「ヒルダ公が好きだったのだろうね」

「チラッと見ただけだったけど、バラが似合いそうな人だったわ」

 通路自体はそれほど広いものではなく、二人が並んで歩くほどの広さはない。

 自然と縦に並んで奥へと進んだ二人は、バラ園の中央付近へとやってきた。

 ここが中央だという証に、目の前に広がる空間だけが芝生に覆われていた。

「……アーサー」

 セティの呼びかけに、佇んでいた人陰が二人を振り返る。

 しばらく佇んでいたのだろう。

 普段は立っているアーサーの前髪は、雨に濡れて垂れていた。

「何か用か」

「この雨が止むまで、休息をとることになった」

「そっか」

 さり気なくすれ違おうとしたアーサーを、セティが腕をつかんで止める。

 男にしては細い腕をつかまれたアーサーは、その手を振り払うことなく足を止めた。

「……供養、したのか」

 唐突にそう尋ねたセティに、アーサーは黙って背後を指し示した。

「あ、バラ……」

 アーサーの指す先を見たフィーが、散らされたバラを見つける。

 花弁と葉を散らされた赤いバラが、芝生の上に並べられていた。

「……わからないな。何故、君がそこまで彼女を慕うかが」

「別に。ヴェルトマーを継ぐ報告をしただけさ」

「確かに、ヴェルトマーは君が継ぐしかないだろう。だが、それだけが理由ではないはずだ」

 フィーが固唾を呑んで見守る中、アーサーは振り払うことなくセティの手を放させた。

「別に。ただ、俺はこのバラ園がまだあるって知ってただけさ」

「それだけかい、本当に」

「ティニーを育ててくれたお礼」

「……わざわざ、バラの葉を供えて」

「知ってるんなら聞くなよ。誰にだって、聞かれたくない過去くらいあるだろ」

 そう言うと、アーサーは兄妹の隣を抜けて、城への道を戻り始めた。

 

 

 

 結局、その翌日も雨が降り止むことはなかった。

 フィーたち天馬騎士も準待機が解かれ、フィーは与えられた部屋でのんびりと過ごしていた。

「フィー……入ってもいいか」

 ノックの音をさせ、アーサーが少しだけ扉を開く。

 寝転がって本を読んでいたフィーは、本を閉じてアーサーを迎え入れる。

「どうぞ」

「暇だと思ってさ」

「まぁね……って、どうしたの、その花」

「今朝、咲いてたのを採ってきた」

「あのバラ園の」

「そう」

 ダークピンクのバラの花束を受け取ったフィーは、それほど開いていない花の一つに顔を寄せた。

 雨に濡れたバラの花弁が、心地よくフィーの頬を滑っていく。

「珍しいね、アーサーがこういうことするなんて」

「綺麗に咲いてたからな」

「今日も行ってたの。この雨の中を」

「雨があがれば、もう行かないだろうな」

「そうなんだ」

 フィーは花束をそのまま花瓶の中に挿すと、中の一本を取り出した。

「アーサー、バラの花束は奇数にするものだって、知ってたかしら」

「いや、知らない」

「だから、一本だけ受け取りなさい」

 言われるままに受け取ったアーサーに、フィーはおまけとばかりに頬を寄せた。

「ありがとね」

「何だよ、急に」

 少したじろいだアーサーを見て、フィーは優しく微笑む。

「アンタの気紛れに付き合ってあげたの。たまには女の子からってのも悪くないでしょ」

「突然なんだよ。焦るだろ」

「嬉しかったの、それだけ」

 

 アーサーの出て行った部屋で、フィーはうつ伏せに寝転がりながら、窓際に飾ったバラを眺めていた。

 窓の外に見える雨雲は、次第にその濃さを薄くさせ始めている。

「一重のバラに想いを乗せて……か」

 そう呟いて、フィーはゆっくりとまぶたを閉じた。

 窓から薫る、バラの香りに包まれながら。

 

<了>