クラップド・ローズ
1
「ひどい雨だね」
「止む気配はありませんな」
制圧したばかりのフリージ城で、セリスとオイフェは窓の外で降りしきる雨を眺めていた。
ヒルダの敗北と同時に降りだした雨は激しさを増し、まるで神の流した涙のように辺りを包んでいる。
「全軍に通達しよう。この雨が止むまで、あちらだって進軍できない筈だ」
「そうですな。この雨では、馬も役には立たぬでしょう」
「恵みの雨になればいいね」
「兵たちにも、よい休息になるでしょう」
ドズル公国との激闘からフリージ制圧まで、セリス軍は休むことなく駆け抜けていた。
兵に休息をとらせ、体勢を整えるためには願ってもないタイミングである。
「バーハラからの軍が来るまで、何日ぐらいかかるかな」
「籠城戦を採るかもしれません。一度、斥候を出しておくべきでしょうな」
「この雨じゃ、天馬も飛べないだろうね」
「雨足が弱くなるのを待つしかないでしょう。天馬隊には、先に休息を取らせるべきかと」
オイフェの進言を受けて、セリスも微笑みながら肯く。
「念のため、街へは行かないよう、天馬隊へは伝えておこうか」
「そこは仕方ありませんな」
斥候を務めるだけならば、デルムッドやフィンといった騎馬隊でも可能である。
しかし、ヒルダさえも失った帝国軍が野戦を挑んでくるならば、それは総力戦となってくる。
その場合、敵軍の斥候を務めるのは、帝国軍側についた天馬騎士団である可能性が高い。
セリス軍側としても、どうしてもフィーたち天馬隊に斥候を務めてもらう必要があった。
「スカサハに城門警備をさせましょう」
「そうだね。スカサハなら夜襲が来ても安心だし」
休息をとる部隊と見張りにつく部隊を分け、セリスは後をオイフェに任せることにした。
「それじゃあ、後は頼むよ」
「はい。ですが、どちらへ」
部屋を出て行こうとするセリスに、オイフェが尋ねる。
すると、セリスは照れくさそうに頬をかいた。
「後方部隊の様子を……ね」
それを聞いたオイフェの表情が、納得したように緩む。
「そうでしたか。これは、無粋でしたな」
「そういうんじゃないからね」
「ラナ殿も喜ぶでしょう。ですが、くれぐれも邪魔しないように願いますよ」
「わかってるよ」
軽やかな足取りで救護室へと向かった主君を見送り、オイフェが侍従を呼んだ。
「すまないが、皆に休息をとると伝えてくれ。それから、レヴィン殿には話があると」
「承知しました」
オイフェがふと視線をやった窓の外は、未だ雨が強く振り続いていた。
2
「お兄ちゃん、今日は進軍停止だって」
魔道士隊の幕に顔を出したフィーが、セリスからの通達を兄であるセティへと伝える。
負傷者が抜けた後の隊の再編成を話し合っていたセティは、妹の報せを聞いて、首を左右に回した。
小気味よい音が鳴り、フィーと部下が思わず苦笑をもらす。
「お疲れね、お兄ちゃん」
「まぁね。アーサーがいない分が、全部私にまわってきていてね」
「アーサー、いないんだ」
「用事があると言っていたな。ティニーは負傷者のところへ行っているし、人手が足りなくてね」
気を利かせた部下が、再編成を示した資料をまとめ始める。
セティは立ったままのフィーを中へ招き、湯気の立つ紅茶を入れはじめた。
「どうだ、お茶でも」
「もらう」
セテイに用意されたお茶を手にして、フィーが手近にあった椅子に腰を下ろす。
幕を叩く雨音は一向に収まらず、激しい音をさせていた。
「気が滅入るわね、ここまで降ると」
「滅入っていても仕方ないだろう。城内で休んでいたらどうだ」
一般兵はともかく、フィーたちのような幹部は城内の一室で休むことを許されている。
セティ自身も用があったために幕へ出向いていただけで、用が済めば城内に入るつもりでいた。
「そのつもりだけど、天馬隊は準待機なのよ」
「雨が弱まれば、すぐに斥候任務か」
「多分ね。まぁ、ドズルの時は後方支援だったから、別に疲れてはいないんだけど」
そう言って、フィーがカップを置いた。
お代わりを注ごうとしたセティを制して、フィーが立ち上がる。
「もう一度、厩へ戻るわ」
「何か、心配事か」
「そうじゃないの。マーニャがね、羽がしけって機嫌が悪かったの」
「シレジアでは、これほどの大雨は滅多に降らないからな」
気温の低いシレジアに生息する天馬は、雪には強くても雨には弱い。
フィーの愛馬は今日一日、厩の中で不機嫌そうに寝そべっていた。
「この雨では、なかなか乾かないだろう」
「そうなのよね。早く止んで欲しいんだけど」
「父上は、どう言われている」
「三日は降り続くだろうって。空気が重たいだけじゃなくて、空が何かを悲しんでいるようだって」
フィーに続いて幕の外に出たセティは、黒い雨雲に覆われている空を見上げた。
落ちてくる雨粒はさほど大きくなく、この雨がにわか雨でないことを教えてくれる。
「天が流した涙、か」
「そう言えば、アーサーもそんなことを言ってたわ」
「会ったのか、アーサーと」
「厩で少しだけ」
厩へ移動した二人は、セティの姿に敬礼を送る天馬騎士たちへ、気にせずに作業へ戻るよう告げる。
各自の天馬の世話に戻った騎士たちの隣で、二人はフィーの愛馬の世話を始める。
「さっき拭いてあげたばかりなのに、もう湿気ってる」
「この雨では仕方ないだろう。少し、風を含ませてみるか」
マーニャの羽根に手をかざし、セティは風精を宿わせる。
嬉しそうに嘶いたマーニャが、セティへと顔をすり寄せる。
「厩の中だけでも乾燥してくれるといいのにね」
「敷き詰める藁を乾かしておくしかないだろうな」
マーニャを撫でながら、セティは足下の藁が湿気ていることを確かめつつそう言った。
「仕方ないわね。休暇返上しないと」
ため息をつきつつ、フィーが天馬騎士たちへ指示を与える。
半数の騎士たちが厩を離れ、残った騎士たちは暖炉に火を入れて藁を乾かしていく。
「そう言えばさっき、アーサーに会ったと言っていたな」
「うん。それがどうかしたの」
「休息をとることになったと知らないはずだ。教えてやらないとな」
「どこに行ったのかなんて、あたしも知らないわよ」
そう言って肩を竦めたフィーに、セティはマーニャを撫でていた手を離した。
「探しに行くか」
「あたしも行くわ。少し、変な感じはしてたし」
「フィーも感じていたか。フリージを解放したにしては、どうも元気がなさそうだったからな」
「そうなのよ。疲れてるって感じじゃないわ。何かこう、何かが抜け落ちた感じ」
マーニャの首をポンと叩き、フィーがセティの隣に並ぶ。
セティはアーサーの魔力を探りながら、雨の中を北へと走りだした。
3
「城を出たのか」
アーサーの魔力を感じる方角へ真っ直ぐに進んでいた二人は、北の城門へと辿り着いた。
フリージ城攻防戦の舞台とならなかったためか、城門や付近に戦いの痕はない。
「この雨の中を」
フィーがそう言って、眉をひそめる。
既に二人とも濡れねずみになっていたが、城外へ出ることは更に勇気を要した。
「フィー、雨具を取ってきてくれないか」
「わかったわ」
門兵の詰所へフィーを向かわせ、セティは城門の隣の通用門に手をかけた。
アーサーが出て行ったと考えられる証拠に、通用門の鍵は開けたままになっていた。
「取ってきたわよ」
フィーから雨具を受け取り、セティは手早く着込んだ。
濡れていた服が肌に張り付くが、直接風雨に晒されるよりは幾分かマシになる。
「外に出たようだ」
「街道に出るなら、東門から出るわよね」
「この先には海があるだけだ。海を見に行ったのかもしれないな」
「魔道士ってのは、どうして揃いも揃って変態なのかしらね」
言外に自分に対する責めも含まれているなと感じながら、セティは通用門をくぐった。
文句を言いつつもついてきたフィーを先導する形で、セティは北へ北へと歩を進める。
「……ここか」
二人の視界の先に雨で霞んで見えているのは、赤いバラ園のようだった。
セティの言葉に、フィーが目を細める。
「何かの間違いじゃないの。アイツにバラなんて似合わないし」
「間違いない。近くにはいるはずだからね」
バラ園に足を踏み入れたセティを追って、フィーもあわてて中へと入る。
中は手入れが行き届いていたのか、野生化したバラが通路にはみ出すということもない。
野バラでさえ、きっちりと花壇の中に収められていた。
「随分と手入れが行き届いているわ」
「ヒルダ公が好きだったのだろうね」
「チラッと見ただけだったけど、バラが似合いそうな人だったわ」
通路自体はそれほど広いものではなく、二人が並んで歩くほどの広さはない。
自然と縦に並んで奥へと進んだ二人は、バラ園の中央付近へとやってきた。
ここが中央だという証に、目の前に広がる空間だけが芝生に覆われていた。
「……アーサー」
セティの呼びかけに、佇んでいた人陰が二人を振り返る。
しばらく佇んでいたのだろう。
普段は立っているアーサーの前髪は、雨に濡れて垂れていた。
「何か用か」
「この雨が止むまで、休息をとることになった」
「そっか」
さり気なくすれ違おうとしたアーサーを、セティが腕をつかんで止める。
男にしては細い腕をつかまれたアーサーは、その手を振り払うことなく足を止めた。
「……供養、したのか」
唐突にそう尋ねたセティに、アーサーは黙って背後を指し示した。
「あ、バラ……」
アーサーの指す先を見たフィーが、散らされたバラを見つける。
花弁と葉を散らされた赤いバラが、芝生の上に並べられていた。
「……わからないな。何故、君がそこまで彼女を慕うかが」
「別に。ヴェルトマーを継ぐ報告をしただけさ」
「確かに、ヴェルトマーは君が継ぐしかないだろう。だが、それだけが理由ではないはずだ」
フィーが固唾を呑んで見守る中、アーサーは振り払うことなくセティの手を放させた。
「別に。ただ、俺はこのバラ園がまだあるって知ってただけさ」
「それだけかい、本当に」
「ティニーを育ててくれたお礼」
「……わざわざ、バラの葉を供えて」
「知ってるんなら聞くなよ。誰にだって、聞かれたくない過去くらいあるだろ」
そう言うと、アーサーは兄妹の隣を抜けて、城への道を戻り始めた。
4
結局、その翌日も雨が降り止むことはなかった。
フィーたち天馬騎士も準待機が解かれ、フィーは与えられた部屋でのんびりと過ごしていた。
「フィー……入ってもいいか」
ノックの音をさせ、アーサーが少しだけ扉を開く。
寝転がって本を読んでいたフィーは、本を閉じてアーサーを迎え入れる。
「どうぞ」
「暇だと思ってさ」
「まぁね……って、どうしたの、その花」
「今朝、咲いてたのを採ってきた」
「あのバラ園の」
「そう」
ダークピンクのバラの花束を受け取ったフィーは、それほど開いていない花の一つに顔を寄せた。
雨に濡れたバラの花弁が、心地よくフィーの頬を滑っていく。
「珍しいね、アーサーがこういうことするなんて」
「綺麗に咲いてたからな」
「今日も行ってたの。この雨の中を」
「雨があがれば、もう行かないだろうな」
「そうなんだ」
フィーは花束をそのまま花瓶の中に挿すと、中の一本を取り出した。
「アーサー、バラの花束は奇数にするものだって、知ってたかしら」
「いや、知らない」
「だから、一本だけ受け取りなさい」
言われるままに受け取ったアーサーに、フィーはおまけとばかりに頬を寄せた。
「ありがとね」
「何だよ、急に」
少したじろいだアーサーを見て、フィーは優しく微笑む。
「アンタの気紛れに付き合ってあげたの。たまには女の子からってのも悪くないでしょ」
「突然なんだよ。焦るだろ」
「嬉しかったの、それだけ」
アーサーの出て行った部屋で、フィーはうつ伏せに寝転がりながら、窓際に飾ったバラを眺めていた。
窓の外に見える雨雲は、次第にその濃さを薄くさせ始めている。
「一重のバラに想いを乗せて……か」
そう呟いて、フィーはゆっくりとまぶたを閉じた。
窓から薫る、バラの香りに包まれながら。
<了>