貴方を父と思うなら
1
「この子が……」
僕の目の前に立つ、赤い髪の男の人が僕を見下ろしている。
母さんと同じ、ヴェルトマーの人だ。それも、おそらくは身分の高い人。
「卑しい私生児にございます。とても貴方の御目にかかれるような子では」
母さんが公的な人と会うときに必ず口にする、僕の出生。
私生児というのは、父親のいない子供のことだ。
”人は取るに足らない人のことは記憶に残らないわ。それが貴方を守るためなの”
いつもそう言って、お客が帰った後に僕を抱きしめてくれる。
まるで、抱き締めることが僕への贖罪であるかのように。
「私にまで嘘を吐くな。お前の子であることに違いは無いのだろう」
男の人の僕を見る目は、他の人とは違っていた。
軽蔑の色でもない、興味の色でもない。言ってみれば、そう、母さんの目に似ていた。
「名前は、何だ」
男の人が僕に尋ねた。
いつもなら、ただ黙ってやり過ごすところだ。
その後で、母さんがいつも”口の聞けない子”として僕を隣の部屋へ行かせる。
だけど、僕は素直に口を開いていた。
「プレーベと申します」
「プレーベだと……アイーダ、貴様、ヴェルトマーの血を侮辱する気かッ」
僕の名前を聞いた途端、男の人の髪がざわついた。
肩が震えて、強い眼差しで母さんを睨みつけた。
「迷われてはなりません。この子は、私の産んだ私生児です」
「貴様も、この私を裏切るというのか。アゼルのように、私の前から姿を消すとでもほざくかッ」
「大声を出されずとも聞こえております。もはや、時代は動き出しているのです。貴方がお迷いになられてはなりませぬ」
母さんは落ち着き払った様子で、男の人に対していた。
そう。いつだって母さんは落ち着いている。
僕を生んでから、ここ数年間はほとんどベッドから起き上がれなくても。
母さんはいつでも凛として、誰に対しても背筋を伸ばしていた。
「許さぬぞ。この子は、将来のヴェルトマーに欠かせぬ人間なのだ。それを貴様は、”下賤の子”と名付けるかッ」
やはりそうだったんだ。
僕自身、僕の名前に興味を持って調べてみた。
母さんがその地方の出身かは知らないけれど、プレーベとは下賤という意味だ。
「プレーベだと……この子が、一介の市井になれるわけがなかろうが」
「だからこうして、子供狩りにすら遭わない土地へ逃れているのです」
「この子の血が、平凡な運命を辿らせるものか」
そこで、母さんは初めて口を閉ざした。
それほどまでに、男の人の声には迫力があった。
僕はただ身を硬くして、母さんたちのなりゆきを見つめるしかなかった。
「この子を、稀代の大悪党にでも育てるつもりか」
紅い眼だ。
まるで見つめられているだけで、身体の中から燃えてしまいそうなほど。
僕を見る男の人の眼は、まるで炎のように熱かった。
「魔力を感じる。成長すれば、わかる者にはわかるほどになるのだぞ」
「……それは、仕方ありません」
「結局、この子は、この子の中に流れる血を否定できぬ」
男の人が僕に手を伸ばした。
僕は咄嗟に魔力を発動させてしまった。
母さんに声を荒げた男の人を、反射的に拒絶してしまっていた。
炎の壁が僕の目の前に出来上がり、男の人の手を阻む。
弾かれた手を押さえて、男の人は恐怖の色も見せずに、ゆっくりと母を振り返る。
「炎壁防禦……まだ十歳にもならぬ子供が、これほどの魔力を行使するのだぞ」
「プレーベ、お止めなさい。この方は、貴方の」
「父だ」
「陛下!」
母さんが、いつに無く厳しい声で、鋭く叫んでいた。
そのことに、男の人はわずかに緊張したようだった。
「ヴェルトマーのアイーダの子供へ私が名を授けるのに、何か支障があるか?」
「……いえ」
今日は不思議な日だ。
母さんがいろんな声を出す。
そして、目の前の男の人も感情が激しい。
たまに来るお客さんは、一様に似たような声しか出さないのに。
「プレーベ、今、この時より、その名前は捨てよ。よいな」
「はい」
「物分りのいい子だ。お前はこれより先、サイアスと名乗れ」
「サイアス……ですか」
男の人の向こうにいる母さんを見ると、母さんの目から涙がこぼれていた。
何か、特別な意味があるのだろうか。
サイアスという名に、母には思い入れがあるのだろうか。
僕が必死に名前の意味を考えていると、それに気付いたのか、男の人が僕の額に手を置いた。
視線を上げると、男の人の手が僕の額にかかっていた髪を持ち上げた。
「目を瞑れ」
言われる通りに、黙って目をつぶる。
次の瞬間、僕の額に男の人が口付けていた。
「サイアス、母を大切にな」
「は、はい」
唖然としていると、男の人は目の前から消えた。
ワープの魔法でも使ったのだろうか。だとしたら、かなりの魔道士だ。
「サイアス……こちらへ」
母さんに呼ばれて、僕は少し浮ついた足取りで母さんのそばに寄る。
そばに寄った僕を、母さんが腕の中に押さえこんだ。
「良い名を、戴きましたね」
「サイアスとは、どういう意味なのですか」
母さんは少しためらった後で、僕の耳元に口を寄せた。
「ファラに仕えていた騎士の名前です。最後までファラに忠誠を誓った、炎の騎士」
「その方の名前を、僕に付けて下さったのですか」
「えぇ。ですが、あの方のことは決して口外してはなりません。貴方の、命を守るためです」
「はい」
母さんが僕の髪を持ち上げて、母さんの額を僕の額に合わせる。
ちょうど、さっきの男の人がやったように。
「もう、限界なのかもしれませんね。そろそろ旅立たねばならぬ時なのでしょう」
そう言うと、母さんはベッドから起き上がった。
自然に。何にもつかまらず。そして、真っ直ぐに。
「サイアス、お祖父様の所へ参りますよ。貴方が、その名に恥じぬ人となれるように」
そうして僕は、この日を境に母さんと別れることになったのだ。
2
ヴェルトマーにサイアスあり。
そんな風に囁かれるようになる少し前、僕はあの男の人と再会した。
僕が司祭として勤めていた教会に、あの男の人はやってきたのだ。
「ようこそおいで下さいました、陛下」
司祭長が出迎えたあの男の人は、紛れもなく帝国の最高権力者だった。
記憶の中の彼からは少し老けていたものの、あの紅い眼だけは見間違えるはずもない。
「エッダ神を信仰する教会か。よく残っていたものだ」
威厳はあるが、軽蔑の色はない。
むしろ、どこか安心したような声だった。
「人々の心は、簡単には染まりません。いかなる神であろうと、信じる方はいらっしゃいます」
僕の言葉に、紅い眼がこちらを向いた。
少しだけ驚いたように開かれたその眼は、すぐに僕から外された。
「そこの男は」
「サイアスにございます。陛下と同じ、ヴェルトマーの出にございます」
「サイアスか……司祭には似合わぬ名だな」
黙っていればいい。
黙って頭を下げれば、司祭長が彼をどこかへ連れて行くだろう。
そして二度と、僕と彼との接点はなくなる。
だけど、どうしてか、それを容認できない僕がいた。
「そうでしょうか。神話の中の彼はファラに仕えただけ。僕は神に仕えているだけ。よく似ていますよ」
僕の言葉に、彼が足を止めて振り返ってくる。
司祭長の慌てぶりは、この際、関係ないと決めた。
「ほぅ、この私に論議を挑むか」
「そのようなつもりはございません。ただ、名付けてくれた方の名誉のためです」
紅い眼が、わずかに揺らいだ。
覚えているのだろうか。あの日のことを。
「母の愛した、ただ一人の方ですから」
「その男が、稀代の道化師だとしてもか」
「稀代の悪人を生ませた方ですから」
紅い眼が笑っていた。
「なるほど。いるべき所におらず、神を欺いている稀代の極悪人だな、貴様は」
「母の教えを守っているだけです」
「ならば、その母とやらよりも偉い私の命令を聞くか?」
「ものによってはお引き受けいたしましょう」
「ヴェルトマーに来い。世の中の汚さを身に覚えさせておくがよい」
「陛下のお言い付けとあらば」
恭しく頭を下げた僕に、彼はその手の甲を差し出してきた。
戸惑いながらも手をとった僕が顔を上げると、彼は無表情のまま僕を見下ろしていた。
「ヴェルトマーへ来る以上、神ではなく私に忠誠を誓ってもらわんとな」
「母になり代わり、貴方に仕えましょう」
母の代わりに、彼の手の甲へ誓いを示す。
貴方がここに来た理由を悟っていたからだろうか。
嫌悪感もなく、ただ記憶よりも骨張った手に引かれ、僕は彼の後に続いた。
懺悔室へ向かう彼に従い、彼に促されるままに小部屋の中に入る。
絶対に会話の漏れることのない密室で、僕は丸くくり抜かれている壁を挟んで彼と向かい合う。
「……私のことを覚えていたのだな」
「物心ついていましたから」
「よく、名乗り出なかったものだ」
「貴方は勘違いをされてます。僕には母親しかいない」
「アイーダの言葉か」
「はい」
僕の答えに、彼は深くため息を吐いた。
おそらくはかなり心労が溜まっているのだろう。彼の眉間に刻まれた皺は、決して緩まなかった。
「お前の力が必要なのだ、サイアス」
「僕は司祭です。それも、エッダの神に仕える」
「暗黒教団か……それに対抗するには、お前のような力がいる」
「暗殺にも耐えうる、個々の戦闘能力ですね」
僕の言葉に、彼が息を飲んだ気配が伝わってくる。
「あの爺か」
「僕を育ててくれた祖父のことを、お忘れになったわけではないでしょう」
「死ぬよりも辛いかもしれぬ。私とて、お前を矢面に立たせたくはなかった」
「十歳にもなる前に母から離された僕の気持ちが、貴方にわかるわけがない」
母は見知らぬ従兄弟のために、僕を残してシレジアへと旅立った。
それが世界を救うためだと言って。
「だが、私にはもうお前しかいないのだ。信頼の置ける人間は、お前の他にはいない」
「貴方の予想外のことをしない人間は、でしょう」
「……そうだ」
思わず、目の前の壁を壊してしまいたい衝動に駆られる。
いや、壁ごと向こう側にいる男を焼き尽くせば、少しは溜飲も下がるだろうか。
「ヒルダには任せられぬ。あの女が教団とやりあえば、聖戦は早まってしまう」
「それで、教団の圧力に負けず、教団とやりあうほどの度胸も力もない、この僕に白羽の矢が立ったと」
多少は壁にあいている穴の大きさを変えても、司祭長は気付かないだろうか。
いや、顔をあわせてしまえば、僕はもう逃げられなくなるだろう。
母の愛した男の素顔が、この壁の向こうにはあるのだ。
「サイアス……甲斐性のない男だと笑うか」
沈黙に耐えられなかったのか、彼のほうから口を開いていた。
僕はただ、返答に戸惑っていただけなのに。
「そんなこと、貴方と初めて会う前にわかっています」
「そうか」
「母は……最後の一瞬まで、貴方のために生きるでしょう」
既に生死もわからない母なら、喜んでこの話を引き受けるだろう。
今、僕の目の前で悩んでいる男を愛しているあの人なら。
「母が帰ってくるまで、母の代わりを務めるのも息子としての僕の役目です」
「サイアス」
「頭を下げる必要はありません。僕は貴方の息子なのですから」
もっとも、ユリウス皇子と張り合うつもりはありませんけどね。
暗黒教団の教皇が目をかけているというあの皇子は、あまりにも危険すぎる。
そして僕の腕に出ている聖痕が、彼にはヴェルトマーの血が流れていないことを教えてくれる。
だからこそ、僕は彼と張り合うつもりはない。
母の愛したアルヴィスという男の息子は、僕以外にいないのだから。
「ファラの化身たる貴方に仕えることこそ、ヴェルニッジに生まれた者の最高の栄誉ですから」
「この父を許せとは言わぬ。ただ、アイーダだけは恨むな」
「神はすべて見ておられます。ここで貴方が此処に来られたのも、神のご意思なのでしょう」
ここは懺悔室。
貴方の告白は、これ以上必要ない。
僕の沈黙を感じ取ったのか、彼は壁の向こうで立ち上がった。
「追って沙汰する。ヴェルトマーにて、貴様を待つ」
捨て台詞は、既に皇帝のものだった。
「わかりました」
僕がただそれだけを答えると、彼の姿は懺悔室から消えた。
立ち上がることはできなかった。
母に対する懺悔をしなければならない僕には、懺悔室を出る理由はなかったのだ。
3
真実を知ったユリウス皇子にヴェルトマーを追い出され、トラキアで失意の日々を過ごした。
シレジアへ母の行方を捜しに行く気にもならず、ただ請われるままにリーフ王子に力を貸した。
知らずに巻き込まれていた聖戦に、私はただ己の力を振るい続けた。
父から譲り受けた魔力、母から授けられた忍耐力と精神力。
そのどれもが、私をただの魔道士ではないと周囲に告げてしまっていた。
「サイアスだろ、アンタ」
軍の救護班にいた私に声をかけてきたのは、見事な銀髪に紅い眼を持つ青年だった。
「そうですが……君は」
「アンタの母親の弟子だよ」
母が弟子をとっていたという記憶はない。
そうだとすれば、彼の素性にも推理がきく。
「アーサー殿、ですか」
「そうさ。ま、今日のところはアンタの顔を見に来ただけさ」
「暇なんですね」
「そうでもないさ。アンタの魔力がいかほどかってのを知りたくてね」
「物好きなんですね」
「伯父貴と師匠の一粒種だ。俺が仕えるのに相応しいのかどうか、知りたくもなるさ」
牽制球を投げに来たのだろうか。
だとすれば、もう二度と面倒ごとはごめんだ。
「私は、ヴェルトマーを継ぐ気はありませんよ」
「やっぱり、父親のことを知ってるんだな」
カマをかけに来たというわけですか。
まぁ、解放軍を率いる聖戦士なら、それほどズブの素人ということもないのでしょう。
「知ってはいますが、私には母しかいない。そうでなければ、ここにはいませんよ」
「どっちにしろ、俺はアンタが欲しい。ヴェルトマーのために、力を貸してくれ」
ヴェルトマーのために。
何度目でしょうかね、この台詞を聞くのは。
母に言われ、父にも言われ。そしてまた、この従弟にも言われ。
呪われた血のせいだというのなら、喜んですべてを吐き出したい。
「母の遺志ですし、一司祭として、微力ながら協力させていただきますよ」
そう言って頭を下げた私を、この青年は一言で否定した。
「冗談だろ。ヴェルニッジ家の当主は、先々代からヴェルトマーの宰相と決まってるんだぜ」
……随分とお詳しいようで。
どうやら、私が考えていたほど、この青年は知らないわけではないようですね。
と言っても、母と父の関係を真に理解しているとは思えませんが。
「私に、ヴェルニッジを継げと」
「公爵家を継ぐ気がないなら、丁度いいだろ」
「そして、貴方に仕えろと」
「それがアンタの名前の由来だろう。サイアスってのは、ファラに仕えた炎の騎士の名だ」
やはり貴方は、アルヴィスという名の疫病神だったようですね。
貴方が私にしてくれた唯一の父親らしいことが、こうして私を困らせることになるとは。
「よくご存知で」
「ヴェルトマーのことは叩き込まれたからな。アンタの母親と、伯母上に」
アゼル殿の遺児がフリージにいるという、あの噂は本当だったのですね。
この青年のせいで、私は幼い頃に母と離れ離れにならなければいけなかったのか。
そう考えると、宰相としてこの青年をいじめたとしても、多少は神もお許しになるでしょう。
幸い、私には宮廷魔道士としての経験もありますし、父の為政術も知っていますし。
「……わかりました。お引き受けいたしましょう」
私の心の中の意地悪な部分も知らず、目の前の青年は嬉しそうに笑った。
ほんの少し良心が痛みましたが、母を奪った罪に比べればいかほどでもないでしょう。
「とにかく、聖戦が終わってからになるけどな。よろしく頼む、従兄上」
最後の一言は、兄弟のいない私にとって、麻薬のような甘美な響きを伴っていた。
あの青年を裏切ることなど、私にはできないのだろう。
たとえ、からかい半分に苛めることはできても。
4
「サイアス、アーサー殿がお呼びですよ」
シアルフィ城を制圧し、アルヴィス皇帝を討ち果たした。
歓喜に沸く解放軍にあって、私は少し浮いた存在になっていたのかもしれない。
私を呼びに来たフィン殿の表情は、私を見て少し戸惑っているようだった。
もしかしたら、半独立軍と化しているレンスター軍の私を呼びにやった、アーサー殿への戸惑いだろうか。
「どこへ行けばよいのですか」
「外で、ティニー様がお待ちになっています。彼女について行けばわかるそうですよ」
「ありがとうございます」
あの青年の妹ということは、私の従妹になるのか。
兄に違わず見事な銀髪に銀色の瞳を持つ少女は、私を見て頭を下げた。
「兄様がお待ちです」
「司祭として、お呼びなのでしょうか」
「さぁ……とにかく、来てください」
フィン殿には聞かれたくないということなのだろうか。
少女は私の手を引くようにして、足早に陣を離れた。
行き先は言われなくてもわかっている。
おそらくは父の処刑前に、私と会わせるつもりなのだろう。
しばらくして案内された部屋には、あの従弟と私を連れてきた少女。
そして、横たえて目を閉じた父の遺体があった。
「サイアス……俺にはどうしようもないんだ」
「斬首と、晒し首ですか」
「俺も最後に叔父上をかばっちまった。俺自身、懲罰を受ける立場だ」
「ヴェルトマー公爵としては、軽率な行動ですね」
私がそう言うと、従弟は悔しそうに壁を叩いた。
「目の前で殺させてたまるかって思っちまった。伯父上は、厄災を止めるためにッ」
「私を先に生ませ、ユリウスを生ませたのでしょう」
私が彼の言葉を引き継いでみせると、従弟は驚いたように私を見つめていた。
そしておそらくは同様に驚いているであろう、従妹の視線も感じられる。
「父が真実を話したのは、貴方がた二人だけですね」
「多分な……バラ園で、すべてを教えてくれた」
従弟の言葉に、従妹も黙って頷いていた。
「だとすれば、このことは永遠に私たち三人の秘密です。父の名誉など、地に落としてしまって構いません」
私の言葉に、従弟は声を荒げた。
良くも悪くも真っ直ぐなのだろう。私なんかよりはずっといい。
「伯父上を悪魔にし続けるのかッ」
「今はセリス殿の正義を揺らがせてはいけない。これが、私の宰相としての、初めての意見です。
万が一にもユリウスに敗れることがあっては、父の苦労も母の苦労も、すべてが無に帰るのです」
「それでもッ」
「歴史など、後から作り変えればいいだけのこと。今は、目の前の勝利が先決です」
私の言葉に、従弟は口を真一文字に引き結んだ。
身内を貶めるように感じるかもしれない。
けれど、今は耐えるのです。父の名誉など、かまっている場合ではない。
「ダメだ! 師匠が……師匠がヴェルトマーにいるんだ。師匠に、何て言えばいいんだよッ」
母が、ヴェルトマーに……?
私の戸惑いは、従弟の感情の引き金を引いてしまっていた。
止まらなくなってしまった従弟は、泣き叫ぶように私の襟をつかんでいた。
「アンタを誘き寄せるために、ヴェルトマーに幽閉されてるんだッ」
「私への餌、ですか」
ユリウスが私のことを知っていたのなら、教団側も私のことを知っていておかしくない。
もしも私を追った理由が、異母兄への感情を含んでいたとしたら?
教団がユリウスの後釜に私を選んでもおかしくはない。
「母を失望させても構いません。母なら、その程度で崩れる人ではない」
「サイアス、お前ッ」
「必要ない! 感情をコントロールするくらい、あの人には造作もない。あの人は、ヴェルトマーの宰相だ!」
思いっきり叫んだ後で、私は自身が未熟だということを悟った。
従弟妹たちは、半ば呆然とした表情で私を見詰めていた。
「感情論は不要です。今は一刻も早く、ユリウスを含めた教団を排除することです」
「サイアス」
これ以上の論議は必要ない。
父の名誉を回復させたいのなら、この戦いが終わった後だ。
「もう一度言います。斬首と晒し首には、異を唱えてはいけません」
「……わかった」
「遺体は……そうですね。我が一族の恥として、丁重に引き取りましょう」
黙って頷いた従弟の肩に手を置き、部屋の入り口へと向ける。
「席を外してくれませんか。私も、父には一言、言っておきたいことがありますので」
従弟妹たちが部屋を出てしまうと、父と初めて二人きりになる。
もはや話しても返事はないだろうが、私は父のそばへと寄った。
「まったく、最後の最後まで父親らしいことはしてくれませんね」
胸元のペンダントを取り出し、中央に填められた紅い宝石の光を父に当てる。
「このペンダントは、貴方がくれた唯一の物。この宝石に誓い、貴方の遺志は私が受け継ぎましょう」
貴方のためじゃない。
貴方を愛した母のために、私はあの青年の力となりましょう。
「親不幸なのは、僕も同じなのかもしれませんね」
ペンダントをしまい、父の服をはだける。
その肩には、私と同じファラの証が浮かんでいた。
「今の貴方は、悪の皇帝を演じる道化師です。その貴方には、こんな紋章はもったいない」
右手にともした炎で、父の肩を焼く。
人肉の焼ける嫌な匂いと共に、父からファラの証が消えていく。
これでもう、貴方は母の愛したファラの化身ではない。
何の心配もせず、道化を演じてください。
「さて……これは、私が預かりますよ」
アーサー殿が父の枕許に置いていった、ファラフレイムの魔道書。
こればかりは消させるわけにもいきませんからね。
いつか、あの従弟がファラの化身となるその日まで、私が丁重にお預かりします。
伝承のように、ファラに仕える騎士として。
「まったく……とても平凡な運命とは思えませんね」
これから先は、どれほどの困難が待ち受けているかわからない。
それでも私は前を向いて歩いていきますよ。
母と貴方の息子として。
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