捨てきれなくて


 

 何もかも捨ててきたと思っていた。

 顔すら覚えていない両親も、世話になったという思い出すらない育て親も。

 すべてを捨てて逃げ出して、この身一つで生きていくつもりだった。

 血塗れの、赤く錆びついた鉄の剣。

 気がつけば、俺の右手には剣だけがあった。

 記憶を遡ることができるのは、ある街で初めて殺した男の顔まで。

 それより前のことは、何一つとして思いだせない、一介の傭兵。

 そうであるべきだった。

 

 


 

 

「何でだろうな」

「どうかしたの」

 俺の隣にいる女は、はっきり言えば疫病神だ。

 自由気侭に生きてきた俺を、こんな北国の城に留めているのだから。

「いや、何でもねぇよ」

 少し目立ち始めた腹部をさすり、女が口許を緩める。

 高貴な顔に似合わぬ、少し蓮っ葉になってきた言動は、一体誰に似てしまったのか。

「あー、退屈だわ」

「寝てたらどうだ」

「寝たら太るわ。これ以上太らないようにって言われてるの」

「なら、散歩にでも行ってこい」

「寒い」

 文句の多い女だ。

 ちっとばかり、気を許し過ぎていたようだ。

 面倒に思いながら、俺は女の上着を取りに、席から立ち上がった。

 黙っていても、女の視線が俺を追いかけてくるのを感じる。

「何色がいいんだ」

「赤」

「へいへい」

 何だかんだ言って、俺はこの女に甘い。

 誰かに言われるまでもなく、そのことは自覚している。

 たかが悪友の妹だったはずなのに。

 この女の笑顔が見たいわけでもないのに。

 何故か女の思うように動いてしまう俺がいる。

 悔しいけれど、年貢を納めちまったらしいな。

「街まで出るか」

「中庭でいいわ。どうせ、馬に乗るわけにもいかないでしょう」

「そらそうだ」

 俺が投げた赤色の上着を器用に片手で絡め取ると、女は上着を羽織って立ち上がる。

 少しふくよかになった身体は、防寒にもちょうどいいだろうな。

「寒くなったら自分で言え。俺にはそんな気遣いできねぇからな」

「期待してないわ」

 可愛くないねぇ。

 これだからアグストリアの女ってのは性質が悪い。

「それに、貴方はそんな気遣いをしたくないのでしょう。こんな、計算高い女には」

 そう言いながら、ちっとも陰は見られない。

 俺を見下すわけでもなく、ただ淡々と無表情に言葉を交わす。

 怒りの表情、喜びの表情、悲しみの仕草、楽しげな仕草。そして無とも言える、素顔。

 王族に生まれ、王族として育てられたこの女の素顔は、何一つとして感情を表さない。

「無表情で言われても、ピンとこねぇな」

「貴方に作った表情は通じない。そう、気付いたの」

「そういうもんかね」

「そうよ」

 女の声は、呟きに近かった。

 そんなときの言葉は、この女の本音に近い。

「女に騙され、男に騙されるような傭兵だぜ」

「自分を卑下することはないわ。ノディオンの英雄が」

 また、これだ。

 エルトシャンと共に戦ったというだけで、ノディオンの人間は勘違いをしてくれる。

 純粋な畏敬の念を送ってくる。

 それが俺にとって、どれほど辛いことかも考えずに。

 ある者はそれを知っていながら、妹を守るために俺を呼んだ。

 ある者はそれを聞かされていながら、家族を守るために俺へ託した。

 どっちも、ロクな連中じゃねぇな。

「何度も言うがなぁ、俺はただの傭兵だ。嬢ちゃんの考えてるような、立派な騎士様じゃねぇんだよ」

「お兄様が騎士勲章を与えたのよ。貴方がただの傭兵である筈がないわ」

 そして、この嬢ちゃんは兄の言葉を盲信して俺を頼る。

 抱いた俺も俺だが、どうもエルトの野郎に、上手いように使われているように思えてならない。

「いつ裏切るかもわからん男だぞ」

「裏切りにはそれなりの理由があるわ。私には、その理由を知る権利があるもの」

「どっからくるんだ、その自信は」

 ため息を吐いて、扉を開ける。

 廊下の冷気は気になるほどではない。

 さすがに雪国とも呼ばれる王国の城だ。

 石造りの城であっても、防寒対策は随所に施されている。

「陽が出ていたわね。外で本を読みたいわ。図書室へ寄ってちょうだい」

「へいへい、お姫様」

 通りがかる使用人が、微笑ましげに俺たちに頭を下げていく。

 どうやら、我侭な奥様のリクエストに応える、律儀な騎士様と思われているようだ。

 実際は、あんな部屋で二人きりでいるのが面倒なだけなんだが。

 しばらくして人の波が途切れると、嬢ちゃんが俺との距離を詰めてくる。

 かすかに強くなっていた嬢ちゃんの足音に、俺は足を緩めて、嬢ちゃんの呟きを聞く。

「……誤解させておきなさい。都合がいいわ」

「嬢ちゃんにとって、だろ」

「えぇ、そうよ。貴方が否定すれば、私はその否定を利用するだけ」

「それも面倒か」

「そうなさい」

 嬢ちゃんの足音が弱くなり、再び俺たちの距離が開いた。

 周囲の人気の探り方、他人の感情を読む力は、さすがに王族の女だと思わされる。

 それも、飛び切りの実力を持った王女だ。

 エルトも、それにあの奥さんも、えげつない女を育てたものだ。

 エリオットの馬鹿じゃ、例えこの女を娶っていても、国を乗っ取られて終わりだったろうな。

「ベオウルフ、この子が男なら、何と名付ける?」

 てっきり会話は終わりだと思っていたが、嬢ちゃんは話しながら行きたいらしい。

 ちらりと背後を振り返ると、嬢ちゃんは膨らみかけのお腹をさすっていた。

「お前の子だろ。お前の好きに名付ければいいんじゃねぇか」

「そうもいかないわ。貴方がこの子の父親という事実は変わらないもの」

 俺の子供ねぇ。俺が父親らしいことをすることもないと思うが。

 まぁ、嬢ちゃんの頭の中での父親像はエルトだろうからな。

 多少は父親らしいこともしておかないと、嬢ちゃんの今後のためにもならないか。

「愛称だけなら決めてやってもいいぜ」

「その心は?」

「本名は嬢ちゃんの好きにつければいい。俺が呼ぶのは愛称だけだろうからな」

「そういうこと……なら、貴方は何と呼びたいの」

 面と向かって聞かれると困るんだがな。

 この嬢ちゃんだと、俺が言った適当な名前をそのままつけかねない。

 それはそれで面白いが、生まれてくる子にはたまったもんじゃねぇしな。

「そうだな……デッドってのはどうだ」

「デッド……”死”を表すのかしら」

 そういう考え方もあるか。

 俺は単に、呼びやすいからって考えただけだが。

「そりゃ、不吉だな」

「そう思うなら、変えなさい」

「”契約”って意味ならどうだ。頭文字だけ取ったら、同じスペルだろ」

「”契約”ね。確かに響きだけはいい響きだものね。それに、呼びやすいし」

 どうやら、満足されたらしい。

 意外に名前ってのは難しいもんだな。

「あとは王家の資料でも漁って、それらしいのを付けてやれよ」

「デルムッド……どうかしら」

 さすがにその手の名前は、すぐに出てくるらしい。

 多分、子供が出来たとわかってから、何度も考えていたことなんだろうが。

「デルムッドね……神話に出てくる騎士の名前だな」

「えぇ。この子はアレスを守る騎士になるべき子。
 ノディオンを率いて、アグストリアを取り戻すための騎士に」

「生まれてくる子に背負わせるのはやめろ。その子が背負う荷物を置いておくのは別にしてな」

 そう、荷物を背負わされる子供なんて、ロクな大人になりゃしねぇ。

 俺みたいに世の中を捨てるか、荷物に押しつぶされるかのどっちかだ。

「……いつも思うのだけど、ベオウルフ、貴方、本当に貴族の出ではないの?」

「さぁて、昔のことは思い出せねぇのよ。何せ、気付いたときには、血に塗れていたもんでね」

 それより前のことを思い出しちまったのは、嬢ちゃんに会ってからだよ。

 ちっぽけな屋敷に住んでいた頃の、理想に燃えていた、バカみたいなガキの頃の思い出。

 強く生きるようにと名付けられた、俺の名前。

 知らぬ間に背負わされていた、主家への忠誠と戦場での手柄をあげること。

 二度と思い出したくもなく、思い出すつもりもなかった。

 本当に面倒な兄妹だよ、嬢ちゃんたちは。

「デルムッドが騎士の名前であることなど、市井の者で知っている者は学者くらいよ」

「長旅の間にゃ、伝説や神話には事欠かないんだよ」

 図書室に入り、真っ先に暖炉へと向かう。

 書棚を見てまわり始めた嬢ちゃんを確認して、手早く火をおこす。

 赤い炎が灯った頃には、嬢ちゃんは何冊かの本を手にしていた。

「はい」

 そう言って手渡されたのは、神話に関する本らしい。

 その上に積まれたのは、どうやら古書を読み解くための辞書だ。

「女の子の場合も考えてちょうだい」

「……あっさり見つけたってことは、嬢ちゃんの愛読書か」

「父親らしいことぐらいして」

「へいへい」

 俺が本を受け取ると、嬢ちゃんはまた書棚へと戻っていった。

 残された本の表紙を見て、俺は大きくため息を吐いた。

 あれほど嫌がっていた神学を、この歳になってやり直す羽目になるとは。

「呪われてんのかねぇ」

 そう呟いた俺に、嬢ちゃんが書棚の隙間から視線を送ってくる。

 俺は軽く手を挙げて応えると、パラパラと本をめくり始めた。

 

 


 

 捨ててきた筈だった。故郷を出るときに、何もかも。

 家柄も、騎士であったことも。そして、両親でさえも。

 捨てきれなかったものは、身につけた剣の腕と判断力だけの筈だった。

 知識や忠誠心は、すべて捨ててきた筈だった。

 嬢ちゃんと一緒にいるようになって、結果的にそれは戻ってきた。

 捨ててきたわけでもなく、俺の中で端に追いやられていただけ。

 ちょっとしたことで、すぐに呼び覚まされてしまう。

 

 結局、俺は捨てきることなんてできなかったんだ。

 捨てきれなかったから、吸い寄せられるようにノディオンへ行き、騎士勲章を受けた。

 王女を守るなんていう、騎士の定番みたいなことまで引き受けてしまった。

 

 

 なぁ、親父。

 アンタは気付いていたのかい。

 俺がベオウルフ……”仲間を守る騎士”になるってことに。

 

<了>