オアシス


「それはもちろん、ミデェールはいつも大事にしてくれてはいるけど、もっと押しが欲しいの」

「まぁ……それも彼の個性だよ。無理言っちゃ、あの子にも悪いよ」

「そうは言ってもね、欲求不満にもなるわよ。つくづく、女の身分は低いほうがいいっていうか」

 延々と続く妹の愚痴に付き合いながら、ブリギッドは残り半分近くになったグラスワインを傾ける。

 すでにエーディンの持参したハーフボトルは底を尽き、彼女のグラスに入っているものが最後である。

「今更そんなことを言っても始まらないだろう。あの子は騎士で、アンタは公女なんだから」

「わかってますわよ。だからといって、アイラ王女のところを見てみなさいって言いたいのよ」

「はいはい」

 グラス一杯のワインで酒量の許容量を超えたのか、エーディンの愚痴は堂々巡り。

 それに付き合うブリギッドの方は許容量どころか、今の酒量では飲んだうちにも入らない。

 結局、適当な相槌を打ちながら、妹の愚痴を右から左へ聞き流しているだけである。

「レックスったらね、あのアイラ王女に階段でキスですわよ。それも、朝食後の部屋に戻るときに」

「あぁ、やりそうだね、あの青髪なら。で、アンタは、やってもらいたいのかい」

 ブリギッドがそう言うと、エーディンは顔を赤くして、途端に声が小さくなる。

 本日三度目のその表情に、さすがのブリギッドにも呆れのため息が漏れた。

「そ、そこまでは申しませんけれども」

「だったら、いいじゃないか。優しくされときなよ」

 しかし、ブリギッドの口にした”優しさ”はNGワードだったのか、再び、エーディンが勢いを取り戻す。

「ですから、優しいだけでは物足りませんの」

 本日四度目の台詞に、ブリギッドは思わず視線を上げ、心の中で反省の言葉を繰り返す。

 妹相手でなければ、とうの昔に張り倒して、部屋から追い出しているようなものである。

「ま、まぁ、落ち着きなよ。アンタから頼んでみるっていうのもアリじゃないのかい」

「そ、そんなはしたないこと、できませんわ」

 はしたないも何も、自分の望みを言うことくらい許されるだろう、という彼女の言葉は、寸前で飲み込まれた。

 言ってしまえば、今度は自分の身に躾特訓の日々が降りかかってくることは経験済みである。

 何とかため息だけでやり過ごし、ブリギッドは目の前のグラスに手を伸ばした。

 そして、最後の一滴まで飲み干し、部屋の棚を目指して立ち上がる。

「飲み物がなくなっちまった。そういや、この間、フュリーから紅茶の葉をもらったんだよ」

「まぁ、シレジア産のですか。それは美味しそうですわね」

「あぁ。お湯はそこにあるのでいいかい」

「かまいませんわ」

 暖炉の上に置かれている過湿用の鍋からお湯をとりわけ、ヤカンの中で再度温めなおす。

 三分ほどで湯気の立つ紅茶を出した姉に、エーディンが満足そうに頷く。

「十分に香りが出ていますわ」

「ま、この城に来て長いからね」

 そろそろ三ヶ月になろうかというセイレーン城での滞在は、彼女にしてみれば退屈でしかない。

 当初こそエーディンによる躾特訓に辟易していたものの、慣れてしまえば妹との雑談に過ぎなくなる。

 身分の高い他のメンバーに囲まれて過ごすうちに、ブリギッドにもそれなりのことはできるようになっていた。

「しかし、こう寒くっちゃ、外に出る気もおきないねぇ」

「春までは、もうしばらくというお話でしたわ」

「退屈だよ……実際」

 目の前に広がる海も、今は黒くにごっていて、生命力の強さよりも命を奪う恐ろしさしか伝えてこない。

 最初のうちはそれでも海へ行こうとしていたブリギッドも、その寒さに根を上げ、今は出歩きもしない。

 妹の相手をしている他は、闘技場や鍛錬場で汗を流す程度である。

「嫌なお爺様方の顔を見ずに済むだけでも、私は満足ですわ」

「海に出て、魚でも釣ってこようかねぇ」

 二人の間に沈黙が流れたとき、ブリギッドの部屋の扉がノックされた。

 ブリギッドが返事もせずに扉を開けると、疲れきった表情のアレクがそこに立っていた。

「アレク、何か用かい」

「あら、アレクなの」

 座ったままのエーディンの声が遠くから聞こえてくるが、アレクの耳には届いていないようだった。

 部屋に入るなり、身体から崩れ落ちるようにして、ブリギッドの方へと倒れこむ。

 とっさに身構えてアレクの身体を受け止めたブリギッドは、戸惑いながらアレクの耳元に口を寄せた。

「ど、どうかしたのかい」

「……もう、無理なんだよ」

 一瞬だけアレクの身体に力が戻り、今度は笑いをこらえているかのように小刻みに震えだす。

 アレクの両腕をつかんでいるブリギッドは、途方にくれて動けずにいた。

「お姉様、どうか……失礼致しましたわ」

 なかなか戻ってこない姉を見にきたエーディンが、抱き合っているような体勢の二人を見て、口を閉ざす。

 無言でそばをすり抜けていく妹を呼び止めようとしたブリギッドを遮るように、扉が強く閉められた。

 妹に声をかけることのできなかったブリギッドが、改めてアレクの顔を覗き込む。

「まったく、どうしたんだい」

「わかんねぇよ。ただ、疲れてるのだけは確かさ」

 そう言うと、アレクはブリギッドの首筋に唇を当てた。

 怯む様子などまったく見せずにアレクの口付けを受け入れ、ブリギッドがため息をつく。

「悪いけど、今日は……」

「知ってる。ただ、眠りたいんだ」

「だったら、さっさと自分の部屋に帰りな」

「枕がいるんだよ」

 そう言うと、アレクの腕がブリギッドを捕まえる。

 ベッドまで押して行こうとしたアレクにブリギッドが対抗すると、アレクはブリギッドの額を軽く押した。

「だから、寝たいんだよ」

「一人で、自分の部屋で寝るんだね」

「抱き枕が欲しいんだよ」

 今日はよく同じ台詞を繰り返される日だと思いながら、ブリギッドはアレクを横へ押しやろうと試みた。

 すると、意外にもアレクはズルズルと斜め前へと倒れ込みそうになった。 

 抱えている腕からアレクの体重の移動を感じたブリギッドが、急いで引き上げようとする。

「ちょっと、しっかりしなよ」

「ワリィ……力、入らないんだわ」

「何だい、冗談抜きで倒れる寸前かい」

 アレクの表情を覗き込んで、ブリギッドが腰を入れて彼を担ぎなおす。

 何とか体勢を持ち直したアレクは、彼女に支えられながらベッドへと何とか辿り着いた。

「まったく、こんなになるまで仕事するなんて、何を考えてるんだか」

 文句を言いながらもブリギッドが片足で布団を蹴り上げ、シーツの上へアレクを転がす。

 うつ伏せにベッドの上に着地したアレクは、何とか寝返りを打つと、ブリギッドを見上げた。

「オレたちは食わせてもらってるんだ。その感謝を忘れちゃいけねぇってのが、ウチの大将の言い付けでね」

「だからって、身体を壊すまで仕事しちゃ、意味がないじゃないか」

 ブリギッドが顔をしかめながらそう言ったが、アレクからの返事はなかった。

 もう一度表情を覗き込むと、かすかな寝息が聞こえてくる。

「まったく……男ってのは、騎士も海賊も同じだね」

 蹴り上げた布団をアレクの肩に掛け直して、ブリギッドはテーブルの上のグラスを片付けた。

 わずかに開けていた窓を閉め、暖炉の炎を消す。

 髪留めを解いて髪を広げると、寝息を立てているアレクの隣へと身体を滑り込ませる。

「不器用だね、男は。一番大事な人にはわがまましか言えなくて、それでもそばにいたいんだから」

 苦しそうに眉をしかめたアレクの髪を梳いてやり、彼女は口元で微笑んだ。

 アレクの表情が安らぐと、今度は無意識のうちの行動なのか、アレクが彼女の腕にもぐりこんでくる。

「ゆっくり休みな……明日の朝まで、抱いておいてやるよ」

 寒さからか膝を曲げようとするアレクの足を自分の足で挟みこんで、ブリギッドはまぶたを閉じた。

 アレクの脹脛は冷たく、彼が長い間、寒い場所にいたことを伝えてくる。

「今は、アタイがいるよ」

 眠っているアレクには届かないと知りながら、ブリギッドは優しくそう諭した。

 聖母に抱かれて眠る一人の騎士の寝顔は、次の朝まで変わることなく安らぎを受け入れていた。

 

<了>