呼び捨てになった瞬間


「オイフェ先生、ご一緒してもよろしいですか」

 背後から声をかけられて、僕は足を止めて、後ろを振り返った。

 小走りに走り寄ってきたのは、フィノだった。

「あぁ、よかった。オイフェ先生、いつも早くお帰りになられるから」

「あまり長い間、シャナン君に子供たちを任せきりにするわけにもいきませんから」

 僕がそう答えている間に、フィノが隣に並んでくる。

 手にしているのは、いつものカバンと小さな包み。

「今日はこのまま、お帰りになるのですか」

「えぇ。教室に行くのは、また来週の頭からです」

 そう、僕は隠れ住んでいるこの村で、先生をしている。

 イザーク王女だったアイラ様と懇意にしていた村長さんの計らいで、僕にも職を紹介してもらったのだ。

 もちろん、ずっと続けるつもりはない。

 けれども、当座の食費を稼ぐ上では贅沢も言っていられない。

「来週が待ち遠しいですわ」

 こう言ってくれるフィノは、僕の生徒だ。

 商家の娘さんで、代数学を教えている。

 代数学は商人や経理関係の役職につくためには、この上なく必要な学問だ。

 僕が来るまでは、教える人がいなくて困っていたらしい。

「今日のところ、わからないところはあるかな」

 僕がそう尋ねると、彼女は笑顔で否定を口にした。

「大丈夫です。家に帰って復習しておきますね」

「フィノなら大丈夫だよ。来週は次の単元に進もうか」

「はい」

 フィノが持っていたテキストは、グランベルで使われているものの写しだ。

 僕には見覚えがある問題ばかりで、それなりに失態を見せずにすんでいる。

「あ、あの、これ、受け取っていただけますか」

 そう言って、フィノが顔を真っ赤にして、小さな包みを両手で僕に差し出していた。

「え、あの……私に、かな」

「は、はい。あの……クッキーです」

 なんか、急にまわりの温度が上がったのかな。

 どうしよう。喉がカラカラだ。

「私に、ですか」

「はい」

 フィノが、恐る恐るといった感じで、顔をあげた。

 僕がマジマジと見ていたものだから、フィノの視線と僕の視線が真っ直ぐにぶつかり合う。

 どうしよう。

 何か言わなきゃ。

「あ、ありがとう」

「は、はい。その、お口にあうと……よいのですが」

「開けてもいいかな」

 フィノが頷くのを確認して、包みにかけられていたリボンをほどく。

 小麦粉の焼けたにおいがして、バターの香りが漂いだす。

 一枚手に取ってみると、よくできたバタークッキーだ。

 フィノの家は裕福だとは聞いているけれど、今の世の中、材料を揃えるのは大変だろう。

 それを僕にくれるってことは……そういうことだよな。

「じゃあ、行儀悪いかもしれないけど」

 そう言って、クッキーを口の中に放り込む。

 バターの香りが広がって、アクセント代わりの砂糖の結晶が舌を突付いてくる。

「ん……美味しいよ、フィノ」

「よかった」

 僕が褒めると、フィノが笑ってくれた。

 真っ赤だった頬の色が少し薄まって、綺麗な笑顔になる。

 そう言えば、フィノって僕と三歳しか変わらないんだっけ。

「オイフェ先生に美味しいって言っていただけて、幸せです」

「そんな。私こそ、こんなに美味しいのもらってしまって、悪いよ」

 ラクチェなんかに見せたら、すぐに獲られちゃうだろうな。

 シャナンにも分けてあげたいけれど、スカサハ経由でバレそうだしなぁ。

 そう思っていたのに、僕は彼女との分かれ道で、自然に彼女をお茶に誘っていた。

「あの、よかったら、お礼にお茶でもどうかな」

「あ、その……よろしいのですか」

「フィノがよければね」

 そう言って、先に僕たちの家へ続く道へ歩き出す。

 フィノは、少し迷ってから僕のあとに続いてきた。

 彼女の足音がしっかりと僕の後ろに続いているのを確認して、ようやく僕は足を止めた。

 そして、同じように立ち止まった彼女に、手を差し出す。

「ようこそ、我が家へ」

 

 

 

 夕食が終わって、セリス様たちを寝かしつけると、後は大人組の時間。

 エーディン様やシャナンと、落ち着いたティータイム。

 いつもはシャナンがその日にあった出来事を話してくれて、そこから話が弾んでいく。

 たいていはラクチェが巻き起こした騒動で、エーディン様は微笑みながらやりとりを聞いているだけ。

 そんな日常が、今日も過ぎて行く予定だった。

 シャナンが、余計なことを言わない限りは。

「そう言えばオイフェ、今日家に来た女の人、綺麗だったね」

 余計なことを。

 僕がオイフェの口を閉じさせる前に、案の定、エーディン様が笑顔で僕の動きを制してきた。

「シャナン……」

「シャナン君、面白そうな話ね」

 こうなってしまったら、シャナン君を恨むべくもない。

 今の笑顔を浮かべているエーディン様には、シグルド様だって勝てなかったんだから。

「どんな方かしら」

「えっとね、よくは知らないけど、帰ってきたら、オイフェと紅茶を飲んでたよ」

「まぁ。そう、オイフェ君にも、ようやく春が来たのね」

 からかわれると思ったんだ。だから嫌だったのに。

 恐る恐るエーディン様の顔を盗み見る。

「あ……」

 何だろう、この違和感は。

 背筋がゾクッとするような、それでいて、どこか甘痒いような、そんな気持ちになってしまう。

 エーディン様はいつものように微笑んでいるだけなのに、何かが違う。

 いつもの優しい微笑ではなくて、まるで僕に絡みついてくるような微笑。

「オイフェ?」

 言葉を失ってしまった僕を変に思ったのか、シャナンが僕の腕をつかんで揺すっていた。

「あの、内緒だったの?」

「い、いや、大丈夫だよ」

 そう答えた勢いで我に返ると、僕は慌てて視線をエーディン様から外した。

「フィノは生徒ですよ。今日はクッキーをいただいたので、そのお礼に誘っただけです」

「そう……」

 意味ありげに言葉を切るエーディン様に、僕は思わずエーディン様を睨みつけるところだった。

 それを思い止まれたのは、オイフェの手の感触と、背筋に走った冷や汗のおかげだ。

 今、エーディン様の表情を見てはいけない。

 アレクさんに叩きこまれた危険察知の本能が、僕にそう告げていた。

「今度、お会いしたいわね」

「今日は特別です。そう何回も、家に呼んだりしませんから」

「あら、そうなの」

 残念がるエーディン様に、僕は勢いよく立ち上がった。

 このままこの場にいると、何を言わされるかわからない。

 シャナンは役に立たないし、僕に援軍が現れそうにもない。

 ここはさっさと退散するに限るんだ。

「オイフェ、どうしたの」

 突然立ち上がった僕を見上げて、シャナンがキョトンとした目を向けてきた。

 僕はシャナンの手を外させると、エーディン様を見ないようにして、エーディン様の隣をすり抜けた。

「明日の準備がありますので、今日は先に休ませてもらいます」

「えぇ、いいわ。洗い物は任せてくれて構わないから」

 僕の気持ちを知ってか知らずか、何事もなかったようにエーディン様がそう答える。

 僕は頭を下げて感謝の意を示すと、そそくさと自室に戻った。

「まったく、今日は女難の相でも出ているのかな」

 シアルフィの血は、女難の血筋なんだろうか。

 何はともあれ、気を付けるにこしたことはない。

 

 

 

「さぁ、早く入ってしまいなさい」

「わーい、おふろ、おふろ」

 あのクッキーの一件以来、フィノからのアタックが激しくなってきていた。

 もちろん、勉強している最中は真面目な生徒だ。それは問題ない。

 だけど、授業が終わってからの雑談が、今までの倍になった。

 時折、エーディン様に対するさぐりも入れてくるし。

 別にだからどうと言うわけでもないけど、何となく後ろめたい。

「あー、ラクチェ、先に身体洗ってから!」

「もうあらったもーん」

 風呂場から、シャナンの苦戦する声が聞こえてくる。

 暑くなってきて初めてのお風呂だから、ラクチェがいつもより暴れてるんだろう。

 そうかと言って、僕があの子たちとお風呂に入るのはそろそろ恥ずかしい。

「デッド、せっけんとって」

「うん。投げるよ」

「ラナ、肩までつかりなさい」

「はーい、母様」

 こ、この声は……エーディン様?

 いつもは最後に入っていたのに、今日はシャナンたちと一緒に入るのか。

「エーディン様、ラクチェとラナをお願いしますね」

「えぇ。レスター、髪はよく洗い流すのよ」

「はーい。デッド、後で流すから、水かけてよ」

「それっ」

 僕は今、かま係りだ。

 立ち上がって窓をのぞけば……エーディン様の裸が見れる。

 数多くの男を虜にした、グランベル一の美女の裸。

 それが、今、僕の目の前に…ある。

「オイフェ君、あなたも入ったら?」

「入りませんッ」

 からかわれた。

 僕の心の中を読んだのか?

「オイフェー、入ればいいじゃん」

「後で一人で入るからッ」

 まったく、これだから子供は困るんだ。

 僕がエーディン様と一緒にお風呂に入ったりでもしたら、動けなくなっちゃうじゃないか。

「ラクチェ、無理を言ってはいけませんよ。オイフェ君も、もう大人なのよ」

「大人は一緒に入っちゃダメなのー?」

「そうよ。オイフェ君はね、今、とっても悩んでるのよ。きっと、窓の外で顔を真っ赤にしているわ」

「見よ見よっ」

 ラクチェの声がしてすぐに、ラクチェが窓から顔を突き出していた。

「オイフェー、はだか見たいのー?」

「危ないから、湯船につかりなさい。それから、お湯は熱かったりしないかい?」

 僕がそう言うと、ラクチェが顔を引っ込めた。

 そして、すぐに大きな声が返ってくる。

「ちょうどいいよー」

「じゃあ、ゆっくりつかりなさい」

「はーい」

 ふぅ……これでしばらくはホッとできるな。

 最近は居心地悪かったからなぁ。

 なかなか一人で考え事することもできなかったし。

 家にいると、何故かエーディン様が寄ってくるし。

 そうそう。フィノと腕を組んで帰った日なんて、無言で香水の袋を渡されたりしたよなぁ。

 あれって、絶対に気付いてるとしか思えない。

「針の筵だよ……」

 別に、後ろめたいところなんてないのに。

 大体、エーディン様はミデェールさんがいるはずだし、別に僕の母親でも恋人でもないし。

 そう。僕は元々フリーなんだよ。

 だから、フィノと付き合ったって、別に問題はないんだよ。

 怖がることなんてないんだ。

 

 

 

「ふぅ、ようやく入れる」

 子供たちを着替えさせて、今のあの子たちはおやつタイム。

 一人だけ入っていなかった僕の入浴時間。

 手早く身体を洗って、まだ暖かい湯船につかる。

 手足を伸ばすことができるのは、大きめに作ったおかげだ。

「フィノ……か」

 よく見れば、凄く可愛い。

 髪はいつも整えられていて、僕のことも慕ってくれている。

 だから、何で付き合わないのかと聞きかれると、非常に困る。

 もちろん、恋愛にうつつを抜かしていられる時ではないんだけど。

「はぁ、どうしようかな」

 今度、フィノの父親がこの村に来たときに、一緒に食事をすることになっている。

 なしくずし的に承諾してしまったけれど、本当によかったのだろうか。

「オイフェ、入るわよ」

「はい」

 そう答えてから、慌てて前を隠す。

 なんでエーディン様が?

 口許までお湯に付けて、視線を上げる。

 エーディン様は服を着たままで、風呂場に入ってきた。

 そして、腰掛けの上にタオルを引いて、その上に腰を下ろす。

 僕たちは湯船の縁を挟んで、普通には考えられない状態で向かい合っていた。

「あ、あの、何か」

「悩み事があるのでしょう」

 いや、この瞬間においては、エーディン様のほうが悩みの種です。

「フィノさんのこと、悩んでいるのではなくて」

「……はい」

 いや、ここは素直に相談に乗ってもらおう。

 エーディン様も他人に聞かれたくないという僕の気持ちを推し量って、今を選んでくれたのだから。

「父親との食事に誘われました」

「あら、随分と本気なのね」

 そこまでは予想していなかったと言うように、エーディン様が目を瞬かせた。

 僕は湯船の縁をつかむと、今までのいきさつを全部話していた。

 僕がすべてを話し終えると、エーディン様はいつもの微笑を浮かべていた。

「悩む必要はないわ。シグルド様の仇をとることも大事でしょうけれど、今の生活も同じくらい大事なの」

「エーディン様。でも、僕は……」

 つなげる言葉が出てこない。

 エーディン様はそんな僕をわかっているかのように、僕の口を塞いできた。

「あのね、オイフェ。私とミデェールは戦場で結ばれたの。それは、本当に偶然だったわ。
 あの時、ガンドルフ王子が私をさらっていなければ、私はここにいないでしょう。
 それ以前のミデェールは、絶対に私を女性として見てはくれていなかったのだから。
 それだけはわかるの。だから、戦場で結ばれたことに、私は決して引け目を感じることはないわ」

 そう言って、エーディン様は僕に左手を見せてくれた。

 薬指に付けられている、エンゲージリング。

「でも、ミデェールは死んだかもしれないわ」

「エーディン様……」

「だから、私はラナやレスター、あの子たちの助けになるなら、いつでもこのリングを捨てるわ。
 あの子たちの助けになって、私の心を満たしてくれる相手がいるなら」

「そんな……ミデェールさんのことは、どう思っているのですか」

 思わず、僕は詰るような口調になっていた。

 だって、ミデェールさんが命を賭けた理由は、貴方なのに。

「今は、一番大切な人」

 エーディン様は、そう言って寂しそうに笑っていた。

 傷つけた。傷つけてしまったんだ。

「でも、これから先のことはわからないわ。ミデェールよりも好きになってしまう人ができるかもしれない。
 だって、私は生きているのだから。人の心は過去にだけではなく、未来にも続いているの」

「すみません……」

「謝る必要はないわ」

 そう言うと、エーディン様は立ち上がって、僕の頭を抱き寄せていた。

 濡れた髪が、エーディン様の服をぬらしていく。

 なのに、そこにはちっとも欲情なんて感じない。自然な抱擁だった。

「目の前の人を幸せにできずに、多くの人を幸せにすることはできない。シグルド様の言葉よ。
 オイフェ、貴方は公爵家を継ぐべき人間なのでしょう。今、貴方を頼りにしている一人の女性さえも
 幸せにすることができずに、多くの民を幸せにすることはできないわ」

「……はい」

「もう少し、自分に素直に生きてみてもいいのよ。これが、子供だった貴方への、私からの最後の言葉」

 そう言うと、エーディン様が離れていった。

 濡れて透けた胸元を、エーディン様は恥ずかしそうにタオルで隠していた。

「見たい?」

「からかわないで下さい」

「そう、残念」

「襲いますよ?」

 そう言って、指をはじく。

 指に付いていた水が、水滴になってエーディン様のタオルへ跳んだ。

「オイフェ、これからはいつでも相談に乗ってもらうわ」

「はい」

 僕の呼び方が、”オイフェ”になっていた。

「そうね……従姉妹のお姉さんという関係ではどうかしら」

「微妙な関係ですね」

「そうよ。襲いたくなったら、襲っても構わない関係……」

「ミデェールさんと彼女を裏切る気持ちができれば」

「待っていてもいいのかしら」

 僕は黙って、もう一度指をはじいた。

 エーディン様がわざとらしく驚いた声を上げて、風呂場を退散していく。

 

 聞こえなくなっていた子供たちの喚声が、また聞こえてくる。

 一人残された僕は、大きく息をついて、窓から見える星空を見上げた。

 

 明日、フィノに会おう。

 エーディン様に認められた男として、彼女と誠実に向き合おう。

 愛しているとは言えないけれど、試しに付き合ってみるのもいいだろう。

 僕はまだ恋愛一年生。

 でも、頼りになる姉さんがいる。

「目の前の人を幸せにする、か」

 

 今日のことは忘れない。

 きっと、僕が本当の大人になる日まで。

 

<了>