忘れられない温もり


「でさ、そんなこと言い出すのよ。信じられないでしょう」

「アハハッ、まぁねぇ。いや、でも、レスターなら言っちゃいそうよね」

「まったく、信じらんないわ」

 夜になれば、当直の者を除けば自由時間になる。
 今日も、解放軍の主力メンバーは、暖炉の前でお茶会を楽しんでいた。

「レスターってさ、ちょっと鼻にかけてるよね」

「そうそう。美形だと思ってるわよ、自分のことを」

 ラクチェに指摘に、パティが大きく頷く。
 話の発端はパティが受けた、レスターからのモーションだった。

「大体さ、当直が一緒になったからって、突然言い寄ってくる奴なんてバカよね」

「ま、まぁ、兄さんも機会を待っていただけだと思うわ」

 妹のラナがフォローに入るが、ラクチェとパティの二人を敵に回しては、フォローの甲斐もない。
 あっさりと女好きの烙印が押され、パティに言い寄った愚か者の名札が付けられることになった。

 ラナとしては充分に抗議したいところでもあったが、パティの中では既に結論付けられている。
 毎度の話だが、結論が出てしまえば、話題の転換も速い。
 今回もラナは不本意ながらも、場の成り行きに抗議を控えることになった。

「そう言えばさぁ、今日の当直って誰なの」

 テーブルの上の菓子をつまみながら、パティが場にいないメンバーを確認する。
 六人がけのセットには、パティを含めて四人しか座っていなかった。

「今日はフィーとアルテナ様よ。ここしばらく戦端が落ち着いているから、気を引き締めるらしいわ」

「ミレトスの森まで索敵範囲を広げるそうです」

 ラナとティニーがそう答えて、パティがいないメンバーを把握する。
 指折り数えるパティを見ながら、ラクチェは新しい菓子箱に手を伸ばした。

「んじゃ、部屋にいるのってリーンだけなんだ」

「あと、ナンナもね」

 指を折って数えていたパティが、小指と薬指を立てて答える。
 解放軍の主力メンバーの居場所を確認して、ラクチェが気のない返事を返した。

 そして、新しい菓子箱に入っていた菓子の甘さに顔をしかめて、無言で中央へと押しやる。
 そんなラクチェの様子を見ていたラナが、苦笑混じりに菓子を口に含んだ。

「シナモンが強いわね」

「トラキアで買ったんだけど、やっぱ合わないわ」

 そう言うと、ラクチェは口の中の菓子をガリガリと噛み砕き、一気に紅茶で飲み込んだ。
 ラナも黙って紅茶を口に含んだように、二人の口には合っていないようだった。

「ラクチェさぁ、試食もせずに買うからよ」

 自分では手を付けず、パティが呆れたようにラクチェのカップに紅茶を継ぎ足す。
 礼を言って二杯目の紅茶で口の中を洗ったラクチェは、片頬を膨らませながら反論する。

「パティみたいに試食してから買わないって、言い辛いのよ。私には」

「そういうもんかしらね」

 三人の状況を見た後で、ティニーが不評の菓子を紅茶の中へ漬けた。
 充分に紅茶の中をくぐらせて、ソーサーの端に菓子を置く。
 ティニーの仕草を見ていたラナが、感心した声をあげた。

「なるほどね。紅茶の味付けか」

「はい。シナモンスティックと言って、紅茶によく付いてくる物に似ているかと思って」

「へぇ、なるほど。そうやって使えばいいのか」

 呆れていたパティが、身を乗り出してティニーの顔を見つめる。

「い、いえ。こう使ってみてもよいのではないかと」

 恥ずかしそうに身を引きながら、ティニーは小さな声で弁明するかのように返事をした。
 パティにしてみれば、フリージ公女として育ってきたティニーは、充分にお嬢様の部類に入る。
 ラナはお淑やかな修道女、ラクチェにいたってはただの女戦士扱いである。

「お嬢様よねぇ、ティニーは」

「え、あ、その……」

 半分ため息のようなラクチェの言葉に、ティニーがおたおたと視線をさまよわせる。
 端から見ても微笑ましい雰囲気の中に割り込んだのは、たまたま通りかかったティニーの実兄であるアーサーだった。

「お、スティックか。もらうぞ」

 アーサーが、スイッとティニーのソーサーの上の菓子をつまみ上げた。
 シナモンスティックと思って噛み締めたアーサーは、意外にも崩れてしまった菓子に目を瞬かせた。

「お……これ、お菓子か」

「あ、お兄様……」

 横に立つアーサーを見上げたティニーが口を開くより速く、ラクチェがテーブル中央の菓子箱を指した。

「トラキアで買ってきた菓子よ」

「シナモンが強すぎて、私たちにはちょっとね」

 無愛想なラクチェと苦笑を浮かべているラナを見比べて、アーサーは小首をかしげながら菓子箱に手を伸ばした。
 紅茶にも付けずに菓子を口の中へ放り込んだアーサーは、バリバリと音を立てて噛み砕いた。

「これ、結構高かったろ」

「まぁね。その分、余計に悔しいんだけど」

「トラキアじゃ高級品だな。肉桂麩って言って、宮廷でも評判の菓子だぞ」

「そうなんだ。欲しかったら、アーサーにあげるわよ」

「悪いな。フィーとアルテナ様が帰ってきたときに食べさせてもらうかな」

 そう言って中央の菓子箱の蓋を閉めたアーサーの肩が当たり、ティニーが小首をかしげた。
 蓋をした菓子箱をアーサーが持ち上げる前に、ティニーが疑問に思ったことを口にする。

「お兄様、香水をお代えになられましたか」

「あぁ、セティにもらったのを付けてみたんだけど……変かな」

「あ、いえ。いつもと香りが違っていましたので」

 そう言って、ティニーが微笑む。
 そのティニーへ、アーサーは控えめに手の甲を突き出した。

「どうかな。セティが言うには、頭痛に効くようにミントを混ぜたらしいけど」

「そうですね。優しい香りです」

「セティがいつも付けてる奴に、ちょっと付け足したらしいんだよな」

「そうですね。セティ様が普段使っていらっしゃるものよりも、青い香りですね」

 そう言われて、アーサーは手を引き戻した。
 自分で手の甲の匂いを嗅ぐと、首をひねる。

「ちょっと硬くないか」

「お兄様の雰囲気に合っていると思いますよ。白を引き締める感じで」

「そう言われると、そんな気がしないでもないけどな。でも、こう付けてるって感じなのがな」

 二人の遣り取りに、パティがようやく口を挟んだ。
 パティにしてみれば、アーサーが香水を使っているのが意外だったらしい。

「へぇ、アーサーが香水ねぇ」

「礼儀程度だな。別にこだわりはないし」

「それでも、やっぱり意外」

 きっぱりと断言され、アーサーはポツリと漏らした。

「オレだけじゃなくて、セティだって付けてるぞ」

「そりゃ、セティ様は王子様だからでしょ」

 あっさりと切り返され、アーサーのこめかみが引きつる。
 しかし、ティニーの手前ということもあり、アーサーは冷静に対応することに決めた。

「汗の匂いがしたら、相手に失礼だろ」

「んー、それもそうね」

 パティではなくラクチェが先に頷き、アーサーは何とか怒りを納めた。
 もともと、パティとは相性が良い方ではない。
 アーサーはラクチェにもらった菓子箱を手に、早々に立ち去ることに決めた。

「それじゃ、もらってくよ」

「どうぞ」

 アーサーがその場を去ると、パティとラクチェがテーブルの上で額を突き合わせた。
 乗り遅れたラナは聞き耳を立て、ティニーだけが一人場の流れに乗り遅れていた。

「ひょっとして、他の男たちも香水使ってるのかしら」

「セティは使ってるみたいね」

 二人同時に向けられた視線に、ティニーがおろおろしながら頷いてみせた。
 そうすると、二人の視線はラナへと集中する。

「ラナ、セリス様はどうなのよ」

「まぁ、公式な場では付けるそうよ。城での謁見時とかはね」

 ラナの答えを受けて、二人は視線を交わした。
 ラナは相変わらず聞き耳を立てているが、ティニーは落ち着きを取り戻していた。

「さて、問題はどの辺で線を引くか、ね」

「そうね。使ってるメンバーがお姫様になれるかどうかのラインみたいよね」

 そのまま小声で解放軍のメンバーを批評し始めた二人から離れて、ラナはティニーを誘った。
 テーブルの上で密談を続ける二人に視線を送ってから、ティニーが席を離れる。
 ラナはティニーを伴って、その場を辞すことに決めた。

「あの、よろしいのでしょうか」

「あの二人なら、放っておきなさい。どうせ、一悶着に巻き込まれるだけよ」

「そ、そうですか……」

「そうよ。どうせお姫様になれるかどうかの相手を線引きするだけなんだから」

 呆れたように、ラナはそう言って肩をすくめた。
 一歩後ろに付き従いながら、ティニーが残してきた二人の方を振り返った。

「ラクチェさん、ヨハンさんと付き合っているのでは……」

「放っておきなさい。首を突っ込んだらバカを見るわよ」

「はぁ……そうですか」

「そうよ。気にしないことね」

 半信半疑のティニーへそう言って、ラナは自室の扉を開いた。
 魔道士であるティニーの部屋は、ラナの部屋よりもかなり奥にある。
 ラナは部屋の中へ入ると、廊下で頭を下げているティニーに手を振った。

「おやすみなさい。くれぐれも、へんなお節介しないことよ」

「はい。おやすみなさい」

 ラナは扉を閉めて、ティニーの足音が小さくなるのを確認すると、ボスッとベッドへ倒れこんだ。

「はぁ……面倒なことにならなきゃいいけど」

 明日から確実に巻き起こるであろう台風のような出来事と、簡単に振り回されると予想できる兄のことを思い、ラナは大きくため息をついた。

 

 

 

 夜を通して行われたフィーとアルテナの索敵により、解放軍は当分の間、静観を守ることに決めた。
 森に展開している部隊はなく、逆にトラキア半島での不可解な動きが見えたためである。

 セリスはミレトス侵攻の前にトラキア半島の自衛団を集結させ、後顧の盾になることを期待した。
 結果、カパドキアの諸侯がハンニバル将軍への忠誠を誓うのを、気長に待つこととなった。

 

「これでいいのかな、オイフェ」

「そうですな。兵たちの休養も必要でしょう。もっとも、必要のない者も中にはおるようですが」

 指令書をまとめながら、オイフェがそう言って執務室の外へ視線を送る。
 オイフェの視線の意味を理解したセリスも、苦笑しながら新しい指令書を書き始めた。

「ラクチェとパティだね」

「セリス様もお尋ねになられたようですな」

 完全に呆れかえった声で、オイフェが苦虫を噛み潰す。
 セリスも苦笑を見せたまま、指令書を書き上げた。

「オイフェも聞かれたんだね。香水を付けるかどうか」

 仕上がったばかりの指令書を受け取って、オイフェが頷く。

「えぇ。朝食の後に」

「今度は、何を思いついたんだろうね」

「多少の浮かれ話ならば許せますが、それに振り回される者も出てまいりますからな」

「それは、レスターのことかな」

「誰とは申しませぬが、早い終結を望みますな」

 指令書に目を通したオイフェが、その日の決済書類の中に指令書を混ぜた。
 無造作にしているようでも、オイフェの手は的確に順序を選んでいた。

「ヨハンあたりに釘をさすように言っておこうか」

「それだけでは足りませぬな。シャナンにも伝えておきましょう」

「わかった。まぁ、これで楽しめるうちは平和だということだね」

「じきに、真の平和も訪れましょう」

「……そうだね」

 そう答えて、セリスは口を閉じた。
 解放軍の盟主には、既にラクチェたちと一緒になって騒げるほどの自由はなくなっていた。

 

 

 ラクチェとパティが真っ先に調査をしたのは、デルムッドだった。

 解放軍の中でも、彼の立場は微妙である。
 ティルナノグ組の一人であるものの、ノディオン王女の長男である。
 その彼は君主と仰ぐアレスを戴き、セリス軍の一軍を率いる将でもあった。

「香水……いや、別に使わないが」

 パティに尋ねられ、デルムッドはそう答えた。
 実際、彼は香水を付ける習慣を持ち合わせていない。

「やっぱり。デルムッドって、戦争が終わればノディオンの将軍になるのよね」

「まぁ、アグストリアの統一を目指すアレス様の片腕となるつもりではいるが」

「だったら、その妻はお姫様じゃない……」

 確認するように言葉を切ったラクチェに、デルムッドはしっかりと頷く。

「違うだろうな。でも、それがどうかしたのか」

 逆に聞き返すと、ラクチェはパタパタと手を振って見せた。

「いいの、いいの。気にしないで」

「あ、あぁ」

 今ひとつ納得のいかないデルムッドを尻目にして、ラクチェがその場を去る。
 そんな情景が、その日の解放軍ではあちこちで起こっていた。

 

 

「どうやら、また何か始まったみたいだね」

 魔道士の詰所となっている部屋へ入るなり、セティがそう言ってアーサーに笑いかけた。
 外の喧騒から避難するかのように詰所へこもっていたアーサーは、セティの言葉に不機嫌そうに舌打ちをした。

「香水を付けるか付けないかだろ」

「おや、知っているのかい」

 アーサーが喧騒の原因を知っていると知って、セティが興味深げに視線を送る。
 行儀悪く向かい合わせた二つの椅子を占拠しているアーサーは、セティを見向きもせずに答えた。

「ティニーが教えてくれたんだよ」

「なるほど。すると、ティニーが私に聞いてこない理由はそこにあるようだね」

「聞きまわってんのは、ラクチェとパティだろ」

「ところが、そうでもないらしい」

 近くにあった椅子をアーサーの正面へ動かして、セティが腰を下ろす。
 嫌でも視線が合ってしまったアーサーは、目顔でセティの言葉の先を促した。

「解放軍のあちこちで、香水を付けるかどうかを尋ねる女性陣がいるらしい」

「ハッ。バカバカしい。平和なもんだな」

 悪態をつくアーサーに、セティが意地の悪い微笑を浮かべた。
 視界の端にそれを捕らえたアーサーが、身体を起こす。
 向かいの椅子にかけていた足を下ろし、アーサーは足を組みなおした。

「で、何か用かよ」

「いや、昨日調合した香水の感想を聞こうと思ってね」

「ティニーに言わせると、優しくて青い香りなんだとよ」

 アーサーの口からティニーの感想を聞いたセティが、満足げに頷く。
 そして、懐に持っていた香水の小瓶を取り出すと、中身を確かめるように左右へと振って見せた。

「彼女は気に入ってくれそうかな」

「どうだかな。ティニーなら、もう少し柔らかいほうが似合うだろ」

「甘く柔らかい香水は、普段付けているのとあまり変わらないだろう。シンプルな大人の香水を贈りたい」

 セティの意図を理解したアーサーは、不機嫌そうに再び目の前の椅子へ足を乗せた。
 そんなアーサーの行動を不貞腐れているものと捉えて、セティが香水のビンのふたを開ける。
 その匂いは、アーサーが付けてもらったものよりも、数段スッキリとした香りになっていた。

「また、別物か」

「トラキアは原料の宝庫でね。道具も揃っているから」

「暇つぶしにはちょうどいいってか」

「そういうことだ。平和な時代になれば、香水の価値は上がる。競争力を持った商品になるだろう」

 そう言って、セティが新作の香水を手の甲に乗せた。
 アーサーには匂いが届かないところをみると、今度のものはかなり薄い香りのようである。

「フィーが持ってるとっておきも、お前が作ったんだろ」

「いや、確かに作ったものもあるが……君の言っている香水は、何色のビンに入っているものかな」

「緑色のビンだ。吹き付けるタイプじゃなくて、手のひらに落とすタイプだな」

 セティはしばらく逡巡すると、小さく何度も頷いた。

「それは父上の作ったものだな。父上が母上に渡され、それをフィーがもらった」

「……そういうわけか」

 アーサーはそれだけ言うと、まぶたを閉じて小さく笑った。
 セティから送られた視線に口角を上げ、からかうような声色で、ため息をつく。

「あーぁ、まだなんだな」

「何がまだなのかな」

「要するに、初夜に付けさせるための香水に苦労してるんだろ」

 図星を指されたセティの顔がこわばる。
 薄目を開けて、しっかりとその表情を目に焼き付けたアーサーが、至極楽しげにセリフをつなぐ。

「いやぁ、シレジアの王子様、世界の勇者様も大変だねぇ」

「彼女に違った香水を贈りたいと思っただけだ」

「別に、今付けてる奴で充分だろう」

 可愛い妹の好みが否定されたように感じたのか、アーサーの語気が強まっていた。
 セティはアーサーの言葉に同意を示してから、それでも、と付け加えた。

「やはり、彼女を王妃として迎えたとき、式典以外にも公式の場はある」

「お前な、そこまで先を考えるなよ」

「君こそ、ティニーを年下扱いしてるのではないかな。彼女だって、凛とした大人になるんだ」

 一瞬、アーサーの脳裏にマーメイドラインのドレスを着こなすティニーの姿が浮かぶ。
 その一瞬の惚けた顔に、今度はセティがニヤリと口許で笑った。

「さぁ、想像はついたかな。お義兄様」

「テメェ……」

 椅子から立ち上がったアーサーは、キッと椅子に座ったままのセティをにらみつけた。
 余裕の表情をみせるセティに、パンッと中指を立てる。

「黙っといてやろうと思ってたけどな……マザコンでファザコンなこと」

「謂れなき中傷だな」

 そう言ってかわそうとしたセティへ、アーサーはニヤリと笑ってみせた。

「フィーから聞いたぜ。お前のその香水、母親にもらったのを完璧に再現するために五年もかけたんだろ」

「……アーサー」

 アーサーの言葉に、セティが椅子から立ち上がった。
 並び立つようにして睨みあう二人の間を、緊迫した空気が流れ出す。

「ティニーを緑髪に染めたって、フュリーさんほどの胸はないぜ」

「ほぅ、いい度胸だね。君こそ、フィーに知られたくない秘密はあるだろうに」

「上等だ。表に出ろッ」

「いいだろう。その腐った根性を叩きなおしてあげよう」

 アーサーが勢いよく詰め所の扉を開け放ち、その背後をセティが追う。
 偶然闘技場に居合わせた人を追い払い、セリス軍最強の魔道士が並び立った。

「ティニーの純潔は、絶対にやらねぇからなッ」

「君こそ、フィーを穢した代償は重いぞッ」

 

 

 その後、二人の魔道士が互いの結婚式をブチ壊しにかかったのは、また、別の話。

 

<了>