無銘
「リュートの音……見張り塔かしら」
既に夜も更け、定刻通りに城内の巡視任務に就いていたフュリーは、風に乗る音色に足を止めた。
冷気に研ぎ澄まされたようなシレジアの夜は、かすかな物音でも聞こえてしまうかのように静かだった。
その中を穏やかに走り抜ける旋律が、彼女の意識の中へと潜り込んでくる。
半月が浮かぶ夜空を見まわせば、夜空に浮かぶ白い塔に、小さな灯りがともっていた。
「誰かしら」
止めていた足を、ゆっくりと塔の方へ向ける。
塔に近づくにつれて、薄かった旋律がはっきりとした音の集合になっていく。
塔の下まで来たときには、奏者が弦を爪弾くわずかな衝撃音さえ聞こえるかのようだった。
フュリーは演奏の邪魔にならぬようにそっと塔へ入ると、螺旋階段をゆっくりと上がっていった。
見張り台となっている塔の最上部にいたのは、彼女が慕うシレジアの王子。
彼はフュリーの姿を見ることもなく、見張り台の中央の灯り台に火を灯し、目を閉じてリュートを弾いていた。
「王子、お風邪を召しますよ」
フュリーの言葉に、彼は演奏を止めることなく、まぶたを開いた。
灯り台の火は、ちょうど彼と彼女の延長上に位置し、彼女の顔を照らしていない。
月光に浮かぶ彼女の顔は、元々の肌の白さも手伝って、陶磁のような艶やかさをもっていた。
「何かあったのか」
「いえ、見回りの途中です。リュートの音が聞こえましたので、どなたかと思いまして」
旋律が響くのを邪魔しないように、フュリーがささやくように答えた。
白磁の中に浮かぶ一本の薄暗い線からささやかれた言葉は、彼に微笑をもたらした。
旋律の邪魔をしないような声色を持たない彼は、弦を弾く指に力をこめた。
「いい月夜だったからな」
「火を入れましょうか」
見張り台にある暖炉に火を入れようとしたフュリーを、レヴィンは声で制した。
「無粋だ。火の色は強すぎる」
「ですが、このままここで弾かれるには、少々寒いかと思いますが」
そう言いながら、フュリーは主人の言葉にしたがって暖炉を閉じた。
そして、少しの間だけ逡巡すると、フュリーは塔の入り口へと階段を下りていった。
レヴィンの奏でる旋律が少しだけ速度を落としたとき、彼女はコートを手にして戻ってきた。
見張り役のために用意されている毛皮のコートは、それ相応にくたびれていた。
「このようなものしかありませんが、おかけください」
「いや、まだ弾いていたい。せっかくの舞台だ。オレからおりる手はない」
わがままな言い分にも、フュリーは黙ってレヴィンの足にコートをかけた。
リュートを奏でるレヴィンの上半身には何の支障もないが、足元から来る冷えは遮断された。
「寒さで震えられては、せっかくの舞台が台無しになるのではありませんか」
自分の予想を超えた部下の行動に、レヴィンは視線を上げた。
「もう少し、聴いていかないか」
「残念ですが、私まで風邪をひくわけにはまいりません」
そう言って辞そうとする彼女に、レヴィンはコートを蹴り上げた。
旋律を邪魔するコートの起こした風が、彼女の足をひき止める。
小さくため息をついてコートを戻すために歩み寄ってくるフュリーに、レヴィンは片目を閉じた。
「オレの足元でそのコートに包まれ。それなら、大丈夫だろう」
「……それは、命令ですか」
「命令だ。命令違反は……そうだな。三日間の代理城主にしようか」
相変わらず無茶苦茶な要求を突きつける主君に、フュリーは仕方なく言われるままにした。
腕に触れるレヴィンの足の冷たさと二人を覆うコートが、彼女のためらいを溶かしていく。
「こんなに冷えていらっしゃるではありませんか」
「あぁ、気付かなかった」
レヴィンの言葉に、フュリーは自身の体をレヴィンの足へ触れさせた。
彼女の体温が、レヴィンの足にぬくもりを広げていく。
「暖かい。今日はいい日だ」
「御冗談を」
それきり、レヴィンはまぶたを閉じた。
少しの間不安定だった旋律に滑らかさが戻り、すぐそばにいる観客を気遣うように、音量が下がる。
白いコートに守られて、レヴィンは熱の戻った指先で弦を弾き続けていた。
風を切って、見えない矢が城壁に突き刺さる。
残心をといたブリギッドは、震えの止まった弦にもう一度、見えない矢をつがえた。
無言でひき絞られた矢が、一瞬の溜めをおいて、前方へ飛んでいく。
無人の体育館に響くバスケットボールが跳ねる音を体現するかのように、彼女の動きはどこか硬い。
「鍛錬なんて、昼間にするもんだぜ」
突然の声に、ブリギッドが背後を振り返った。
建物から出てくるのは、既に軽装とすら言えないほどラフな格好のアレクだった。
「いつ、どこでしようが、アタシの勝手だ」
「そうだけど、今じゃなくてもいいわけだろ」
そう言うと、アレクは指をさして上を見上げた。
つられるように視線を上げたブリギッドに、アレクは軽く指をまわした。
耳を澄ませると、風に乗った旋律が二人の周囲を流れている。
ブリギッドの表情が変化するのを待って、アレクが旋律をBGMへと変えた。
「誰かは知らないけど、いい音色だろ」
「それがどうした」
さも興味がないと言ったように、ブリギッドが身体を翻す。
その彼女へ、アレクが声をかけた。
「半月、積雪、綺麗な音楽。あと足りないものって言えば、美味い酒だろ」
そう言って、アレクは音を立ててビンの栓を抜いた。
小気味よいその音に、ブリギッドの足が止まる。
ビンの首の部分を持ち、アレクは彼女へとビンをかかげて見せた。
「一杯ぐらい付き合えよ。バチは当たらんだろ」
「……一杯だけだ」
「了解」
アレクが指を鳴らした瞬間、アレクの手からビンが消えた。
実際にはそばの雪の上に落としただけなのだが、それよりも彼の手に現れた二つのグラスが、ブリギッドの目をひいていた。
目を瞬かせた彼女に、アレクは黙ってグラスの片割れを押し付けた。
「グラスごしに雪を見てみてくださいな」
「何だって」
アレクの言葉を理解できていないブリギッドのグラスに、アレクはビンの中身を注いでいく。
グラスの三分の二を占める仄かな青色をまとった液体が、ブリギッドの視界に入る雪を染める。
月光で白く輝いていたそれは、ワインというフィルターを通し、空色へ変わる。
「綺麗だろ」
「あぁ」
「ワインってのは、味を楽しむだけのもんじゃない。こういう楽しみ方もあるってことさ」
そう言ってグラスを傾けたアレクは、喉を鳴らしてワインを飲み干した。
セリフとは真逆の行動をする彼に、ブリギッドが苦笑する。
「アンタは、すぐに飲んじゃったじゃないか」
「俺は、一杯で済ますつもりがないからな」
そう言って笑ったアレクへ、ブリギッドは急いで中身を飲み干したグラスを突き出した。
アレクが笑いながら、ワインを補給する。
「一杯で済ますには、惜しい舞台だろ」
「体を温めるには酒がいい。それだけだ」
ワインの注がれたグラスごしに、ブリギッドはアレクの顔を見つめた。
普段はターバンに隠れている緑色の髪も、今は自然に流されて、グラスの色と重なり、黒く映っている。
「……アンタは、寂しいと思ったことはあるかい」
突然そう尋ねたブリギッドへ、アレクは間をおかずに答えた。
「あるね」
「どんな時だい」
「無力さを感じた時だ」
そう言うと、アレクは二杯目のグラスを空けた。
ブリギッドがアレクの手からビンを受け取り、底の見え始めているワインをアレクのグラスへ注ぐ。
「俺一人じゃ、どうにもできないことがある。そんな時、寂しくなる」
「どうするんだい、その時は」
唇の渇きをワインで湿らせて、ブリギッドが尋ねた。
「酒を飲む。ダチとバカな話をする。訓練なんて、絶対にしない。むなしくなるだけだ」
「そうか」
いつの間にか、リュートの音は止んでいた。
会話が止まると、ことさらに夜の闇が二人を包み込んでいく。
アレクは気まずそうに髪をかき上げると、ブリギッドのグラスに最後のワインを注ぎ足した。
溢れそうになったワインを、ブリギッドが唇を寄せて吸い上げる。
「何でも一人でできるわけがない。今、そばにいる仲間と一緒に、護りたいものを護ればいい」
「そばにいる、仲間……」
「俺もいるし、シグルド様だっている。この城にいる奴、全員が仲間だろ」
「アンタ……いいこと言うね」
「だから、アンタもそんなに張り詰めるなよ。張り詰めた糸は、切れるだけだぜ」
そう言うと、アレクはクルリと身体を翻した。
そして、ブリギッドの足が動く前に、アレクは空を見上げて呟いた。
「酒が切れちまった。酒がなきゃ、舞台もお開きだな」
独り言にしては大きな声で呟いたアレクが、雪を踏みしめるように建物の中へ戻っていく。
その背中を見送らされる羽目になったブリギッドは、ゆっくりとワインを飲み干した。
身体にまわったアルコールが、ブリギッドの目許を赤く縁取る。
見張り台に灯されていた火は落とされているのか、辺りは月光とそれを反射する雪の灯りのみ。
積雪の中にたたずむ彼女の姿は、遠めに見ても麗しい。
ただ、その背中に背負われている黄金の弓が、彼女を神話の中の女神と違うと言っていた。
守られるだけの存在ではなく、意思を持った一人の戦士であると。
「アレク、ありがとう」
そう言ってグラスを置いたブリギッドは、背中の弓を外し、額にまいているバンダナを外した。
長い髪が、彼女の視界を狭める。
「髪、切ろうかねぇ」
建物の中へ戻っていく彼女の影は、月光に淡く浮かんでいた。
<了>