繰り返さないから


「……どうして、そうなるかねぇ」

 フィーの横たわる寝台のそばに椅子を引き寄せ、食堂から帰ってきたアーサーが不機嫌そうに腰を下ろす。

 熱に冒され、うめき声をあげているフィーには、アーサーの言葉は届いていないようだった。

「お兄様、お水を汲んできました」

 アーサーと入れ替わるようにして食堂へ行っていたティニーが、そう言って扉を叩く。

 重そうに桶を持って部屋の入り口まで入ってきたティニーのところへ駆け寄り、すぐに桶を受け取る。

「ご苦労さん。セティは?」

 ティニーのほっとした表情を眺める間もなく、アーサーはフィーの額に置かれていた布を取り上げた。

 ティニーの汲んできた桶の中の冷たい水に布を浸し、固く絞る。

 再び冷感を取り戻した布をフィーの額に戻し、アーサーはようやくティニーの方へ向き直った。

「悪かったな。俺が汲みに行けばよかったんだろうけど」

 アーサーの言葉に、ティニーは小さく、力強く首を横に振った。

「いいえ。お兄様がそばにいて下さる方が、フィーも安心するでしょう」

「だといいけどな」

 そう言って、アーサーはようやく椅子に座りなおした。

 ティニーもそのそばによると、幾分か表情の柔らかくなったフィーの顔を覗きこんでいた。

「氷枕があればよいのですけど」

「でも、あれはシレジア特産だからなぁ……こっちの皮袋だと、冷気が通らないんだよ」

「フリージには、ありましたのに」

「ヒルダおばさんが、その手のものを好きだったからな。火を統べる者は、水を知らなければならないって」

 昔を懐かしむようにそう言ったアーサーは、すぐにため息をついた。

「とは言え、ここはトラキアだ。フリージまで使いを出しても、意味がない」

「そうですね……あ、セティ様は町で薬を買ってくると仰っていました」

「助かるな」

 薬が間もなく到着することを確信して、アーサーはもう一度、心配そうにフィーの顔を覗きこんでいた。

 

 

 フィーが侵されたのは、トレキアの風土病と呼ばれている流感の一種である。

 シレジア生まれのフィーやセティには、ほとんど抗体が無い。

 トラキアへの進軍開始後、案の定、フィーは流感に倒れてしまった。

 砂埃の中に潜んでいるとまで言われるこの病魔に、空駆ける少女は真っ先に侵されたのである。

「……アーサー、フィーの具合はどうだ?」

 ティニーが部屋を去って数刻後、手に小袋を携えたセティが部屋の扉を開けた。

 椅子に座っているアーサーは首だけを向かせ、セティを迎え入れた。

「随分収まったようだな」

「昨晩のうちに、何回か吐いたからな」

 今朝は姿を見せなかったセティに、アーサーは昨晩の様子を告げる。

 朝一番に姿を見せたティニーと違って、セティは職務を朝一番に片付けてから街へ薬を買いに出たのである。

「あまり近付くなよ。免疫が無いのは、お前も同じだろ」

「君もだよ、アーサー。炎に守らせるのも、君の精神を疲れさせるだろう」

「……気付いてたのかよ」

「母上に話を聞いた事がある。ヴェルトマー家の人間は、看病する際に炎の精霊に自らを守らせると」

「まぁ、迷信だろうけどな。全てを燃やす炎が、病までを燃やすってのは」

 小さく肩をすくめてみせたアーサーに、セティは首を横に振って見せた。

「いや、父上も意味のあることだと言われていた。あながち、迷信でもないのだろう」

 そう言ったセティを振り返ることなく、アーサーは喉の奥で笑い声を上げた。

 セティが怪訝そうに顔をしかめると、その気配を感じ取ったアーサーは、口元に笑みを浮かべて答えた。

「だってそうだろう? シレジアの賢者が、父親の言葉を疑いもせず信じてるんだぜ」

「父上に間違いはない。だからこそ、今の私がある」

「そうかね。フィーには、いろいろと文句があるようだけど」

「フィーが幼く、女性だからだ」

「へいへい」

 それ以上会話する気になれなかったのか、アーサーがフィーの額に手をやった。

 布を取り外し、再び桶の中の水に浸ける。

 それを見ていたセティが桶の中の水に弱いトルネードをかけ、水の温度を一定に保たせる。

「君には冷たいかもしれないが、こうしておけば何度も水を替えなくて済む」

「便利だな」

「汗を拭いたら、水を取り替えてくれ。シレジアの迷信だ」

 そう言って笑ったセティを笑い返し、アーサーはフィーの額に布を置くと、立ち上がって、大きく背筋を伸ばした。

 あちこちの筋を伸ばした後で、セティの肩を叩く。

「仕事、ないんだろ?」

「あぁ」

「それじゃ、あと頼むわ。ほとんど寝ずの番だったからな」

「ゆっくり休むといい。しかし、魔法を一晩続けて、よく耐えられたな」

 軽く驚いた様子でセティが尋ねると、アーサーはニッと口端を上げた。

「愛する人の病は、自分の病。そして、愛をしめす時……てのが、ヴェルトマーの家訓だよ」

「ティニーもそうなのか?」

「さてね。風邪でも引いてみろよ」

 アーサーの言葉に考え込んだセティを見て、アーサーは笑いながら部屋を出た。

「純情だねぇ。シレジアの王家ってのは、よほど純な血が混ざったんだな」

 ”そこがまたいいんだけど”と心の中で呟きながら、アーサーは生あくびをかみ殺した。

 一晩寝ずの番は誇張ではなく、本当にうたた寝するたびにフィーのうめき声が彼を起こしていたのである。

 ようやく緊張から解放された身体を、彼は倒れこむようにして自分に与えられた部屋の寝台に潜り込ませる。

 顔にかかる太陽の日差しは、彼の熟睡に何の影響も及ぼすことはなかった。

 

 


「……アーサー?」

 虚ろ気に瞳を開き、フィーが首を動かして周囲の状況を確認する。

 少し離れたところに置かれている椅子には、セティが本を読みながら座っていた。

「お兄ちゃん」

「目が覚めたか」

 そう言って、セティは本を閉じてフィーのそばへ歩み寄った。

 起き上がれないでいるフィーの額に手を置き、フィーの体温を測る。

「熱は引いたようだ」

「……お兄ちゃん、アーサーは?」

「今しがた、眠らせたところだよ。病気がうつってもらっても困るからね」

「うん……」

 フィーの手が、布団の端をつかんでいる。

 セティは目の端でそれを見届けると、静かにフィーのそばを離れた。

「何か食べたいものは?」

「……いらない」

 そう答えたフィーに、セティは小さく笑って頷いた。

「適当に見繕ってこよう」

 そう言うと、フィーの拒絶の言葉も聴かずに、セティは部屋の扉を閉めた。

 部屋を出ると、ティニーがセティ用の食事を盆に乗せて運んできたところだった。

「あ、セティ様」

「ティニー、ありがとう。運んでもらったところを悪いのだけど、厨房に運んでおいてくれないか」

「は、はい」

「フィーが目を覚ましてね。シレジアの病人食を作ってもらおうと思って」

 そう言いながら、セティはティニーに厨房の方を指し、彼自身は居住区の一角を曲がった。

「セティ様?」

 そのことをティニーが立ち止まって尋ねると、セティは黙って居住区の奥の部屋を指した。

 指の先にあるのは、解放軍軍師・レヴィンの部屋。

 それに気付いたティニーが、納得の表情を浮かべて厨房の方へと歩き去っていく。

 それを微笑みながら見送ったセティは、深呼吸をしてからレヴィンの部屋の扉をノックした。

 

 

「……ほう。それで、俺に例のヤツを作れと」

「そうです。あれは父上しかレシピを知りませんので」

 ノックするだけで、返事を待たずに部屋へ入ってきた息子に、レヴィンは事情を聞いてそう言い返した。

 セティもセティで、一歩も引く構えを見せない。

「随分と偉くなったもんだな、セティ」

「そう言う問題ではありません。とにかく、フィーにものを食べさせないといけないんです」

「それで、例のヤツか? あれはな、フュリーのために俺が作ったレシピだぞ。そう簡単に食わせられるか」

 妙なところで愛妻ぶりを発揮する父親に、セティはフォルセティをちらつかせる。

 しかし、フォルセティに屈するほど、シレジア最高の魔道士は甘くなかった。

「いくらフィーでも、フュリーの許可無しに食わせるわけにはいかんな」

「母上もお許しになられますッ」

「俺のフュリーへの愛は、親子の情をも超えるのだ」

 胸を反らせてそう言ったレヴィンを、セティの放ったフォルセティが取り巻いた。

「相変わらず、手加減を知らんな」

 レヴィンはそう呟くと、一気に己の魔力を解放した。

 鎖状に彼を取り巻いていたフォルセティの魔力は、一瞬にして霧消する。

 そして、セティが体勢を立て直す間もなく、セティの鼻先にエルウィンドを放つ直前の右腕を突き出していた。

「……父上」

「今回だけだ。厨房には誰も近付けるなよ」

 右腕を突きつけたままそう告げると、レヴィンは部屋を出て行った。

 慌ててセティが後を追いかけ、レヴィンを追い抜いていく。

 レヴィンが厨房へ着く前に厨房の人払いを済ませ、セティがレヴィンを出迎える。

 レヴィンはその一部始終を眺めていながら、厳しい表情で最後の一人になったセティをも追い出した。

「フュリー、許せよ」

 一言そう呟いて、レヴィンは食材を広げた。

 火は落とされていなかったのか、お湯も沸いていた。

「久しぶりだな。もう二度と、作ることもないと思っていたが」

 レヴィンの包丁が、手際よく野菜の皮をむき始めた。

 

 


 暖かい湯気が、フィーの鼻をくすぐった。

 懐かしさのする匂いと、久しぶりに聞く声に、フィーは目を覚ました。

「起きたか? 余程腹が空いてるようだな」

 フィーの鼻先で小鉢をまわしていたレヴィンはそう言って、目を覚ましたばかりの娘に小鉢を手渡した。

 フィーがわけもわからずに受け取ると、レヴィンは椅子に座りなおすと、自分用の小鉢の粥を食べ始めた。

「……父様?」

「底の刺身は残したほうがいいかもな。生ものは良くないかもしれん」

「え、うん」

「ネギは多めにしておいた。シソは嫌いだったよな」

「うん。でも、これ……」

 フィーの言葉に、レヴィンは小鉢を空けた。

 そして、土鍋からもう一杯小鉢へよそうと、肩をすくめた。

「セティの奴がしつこくてな。これなら、お前も食えるだろうってな」

「でも、いいの?」

「かまわんさ。フュリーも、お前になら許すだろう」

 そう言うと、レヴィンは再び小鉢の中の粥を食べ始めた。

 上手そうに食べるレヴィンにつられて、フィーも恐る恐るレヴィン特製の粥を口に含む。

 昨日食べた、ティニーに作ってもらった粥のような嫌な臭いがせず、ただ暖かさだけが残る。

 軟らかい中にも歯ごたえのある米と、味のある肉団子。小鉢の底に入れられた刺身からも半煮えの状態だ。

「おいしい……」

 フィーの言葉に、レヴィンは頬を緩めた。

「当たり前だ。お前のために、俺が作ったんだからな」

 そう言うと、レヴィンは小鉢を置いて立ち上がった。

 フィーが変わらずに粥を食べているのを確認して、フィーの頭に手を置く。

 レンゲを口に含んだまま上目遣いに見上げてきたフィーにもう一度微笑んで、レヴィンはフィーのそばを離れた。

「早く元気になることだな」

「うん。ありがと」

 笑顔でそう答えたフィーを見たレヴィンの顔に、影が落ちる。

 フィーがそれと気付いた時には、既にレヴィンは背を向けていた。

「お前は……誰かを残して死ぬんじゃないぞ」

 そう言い残して、レヴィンが扉の向こうに消える。

 一人残されたフィーは扉を見つめたまま、小さく頷いた。

 

 ”誰にも、父様のような寂しい思いはさせないから”

 

 

<了>