寂寥感


1

「……また、いない」

 朝の日差しが、ベッドで眠っていたラクチェを目覚めさせた。

 朝の目覚めというには充分に遅い時間だが、ラクチェはまだ眠そうにベッドから抜け出す。

 ずり落ちるようにしてベッドから下りると、そばに立て掛けてあった剣に手を伸ばした。

 しっくりと手になじむ剣を力強く握り締め、ラクチェは徐々に意識が覚醒していくのを感じていた。

「よし、着替えるか」

 鞘に納められたままの剣を二、三度振り回して、ラクチェはようやく自らの寝間着に手を掛けた。

 年頃の女性とは思えぬほど気風よく脱ぎ捨てた寝間着を、ベッドの上へと放り投げる。

 下着姿になったラクチェは、その姿になってようやく着替えを探し始めた。

「あ、下着替えてないや」

 寝起きのせいで肌が敏感になっているせいか、腰まわりにややかゆみがある。

 無意識のうちに腰を掻いていたラクチェは、ここ数日の出来事を思い出していた。

「まぁ、戦ってないから汗かいてないし、汚れもないし」

 戦況はまだまだ予断を許さない。

 南下するセリス軍とトラキア軍の戦端が開かれるまで、あと少しというところだ。

 アルスター軍を撃破したセリス軍は、トラキア軍との連戦を避けたのである。

 加えて、開放したばかりの領内の内政にも時間を取られるだろうとは、シャナンの見解である。

 戦闘では無敵を誇るラクチェも、内政となると全く力にはならない。

 ただこうして、次の戦闘へ向けての休息を取るだけだ。

「でも、かゆいってことは替えた方がいいのかなぁ」

 年頃の女性としては甚だ不穏な言葉を吐きながら、ラクチェは思い切りよく下着を脱ぎ捨てた。

「ラナに洗濯してもらお」

 ティルナノグにいる時から、ラクチェはまともに家事という仕事をしていない。

 大半はオイフェという家事万能の保護者に任せていたのだ。

 同じティルナノグで暮らしていたラナは、こちらはしっかりと家事を習得している。

 いつの頃からか、ラクチェは洗濯物をラナへとまわすようになっていた。

「うーん、これでいっか」

 あまり……まったく装飾の付いていない下着を手に取り、さっさと裸体を覆っていく。

 下着のそばにあった服を着込み、ラクチェは空腹感を覚えた体を食堂へと運んだ。

 

 

2

 ラクチェが食堂へ入ったとき、食堂の中はさすがに人影がまばらだった。

 以前からこの城で働いていた人間が今も同じように出入しているほかは、新しく軍に加わった黒騎士が一人。

「アレス、おはよう」

「……あぁ」

「レイリアは?」

 近くにいた女中に朝食を頼み、ラクチェはアレスの斜め向かいに腰を下ろす。

 アレスとともに軍に加わったレイリアという踊り子がいた場合を考えたのである。

「……慰問に行くと言っていた。オレは邪魔だろうからな」

「はぁ。それで一人で残ってたわけ」

 女中が持ってきた朝食に手を付けて、ラクチェはまだ中身の入っているアレスの食器を見つめた。

「心配なの?」

「バカ言え。昨夜の酒が残っているだけだ。少々、酒量が過ぎたようでな」

 顔色からは全く判断できないのだが、よく見れば確かに出会った時の覇気はなさそうだ。

 アレスが持つ独特のオーラが、今は完全に消え失せている。

「誰と飲んでたの?」

 ラクチェの自然な問いかけにも、アレスは何故か口篭もった。

 不自然さ一杯のアレスに、ラクチェは心のどこかがもやもやしているのを感じていた。

「……誰と?」

 再度尋ねたラクチェに観念したのか、アレスは小さく吐息をついてから口を開いた。

「……レイリアだ」

 その瞬間、ラクチェは食べ終えた自分の食器をアレスへと押し付けていた。

 アレスがその行動を訝むと、ラクチェはアレスに微笑んでみせた。

「恋人と酒盛りしてて寝坊したんでしょ? それくらいして当然」

「はぁ? お前だってそうじゃないのか?」

 戦時下のラクチェしか知らないアレスにしてみれば、ラクチェは元気娘の典型だった。

 とても戦闘がないからと言って、この時間まで寝ているような印象はない。

 彼自身がそうであったこともあって、アレスはてっきりラクチェも酒盛りの影響で遅くなったのだと思っていた。

「違うわよ」

「……そうか」

「わたしは鍛練にでも行くわ」

「……勝手にしろ」

 いささか理不尽だと思いながらも、アレスは黙ってラクチェに従うことにした。

 敵対していたわけではないが、軍内の噂、実際に目にした彼女の剣技が、逆らうなと彼に告げていた。

 

「さて、スカサハでも捕まえるか」

 食堂を出て、ラクチェは迷うことなくスカサハの自室へと向かった。

 セリス軍内でも、ラクチェと対等に戦える剣士は数が少ない。

 双子の兄であるスカサハ、二人の叔父であるシャナンぐらいだろう。

 スカサハはパワー、シャナンは技術の点で、二人はラクチェを大きく上回っている。

 もちろん、ラクチェもスピードでは二人を大きく引き離していた。

「ん? ラナ?」

 目的のスカサハの部屋へ入っていく人影は、金色の髪をしていた。

 金髪の多いセリス軍ではあるが、特徴ある巻き髪は、おそらくラナのものだろう。

 だが、どうしてもラナがスカサハの部屋を訪れる動機には心当たりがなかった。

 ラクチェは足音を潜めつつ、スカサハの部屋へとにじり寄っていった。

「……悪いな、ラナ」

「気にしないで。今日はレイリアとパティが慰問に行ってくれるそうだから」

「何だか、気が引けるなぁ」

「たまにはいいんじゃない?」

 部屋の扉に耳をぴったりと押し付けると、二人の親しげな会話が聞こえてくる。

 もちろん、ティルナノグから一緒に育ってきた仲だ。仲は悪くない。

 だが、少し親密過ぎではないだろうか。

「今日は一日、付き合ってくれるんでしょう?」

「街にでも行こうか? こうしてのんびりしててもいいけど……」

 不意に、スカサハの声が途切れた。

 急に静かになった部屋の中に、ラクチェは思わず身構えていた。

(バレたッ)

 そう思ったのも束の間、今度はラナとスカサハの笑い声が部屋の中から聞こえてきた。

「ラクチェが来たら面倒臭いしな」

「そうね……今日くらいは鍛練休んでもいいわよね」

 沈黙の間は、視線を交わし合っていたのだろうか。

 ラクチェはたまらずに勢いよく扉を開けていた。

「へぇ、そんなふうに思ってたんだ」

 ラクチェの低い声に、ラナが思わずスカサハの背後へと走った。

 スカサハも腰が浮いているものの、ラナを背後にかばって引きつった笑顔を浮かべている。

「ラ、ラクチェ。いたの?」

「ラクチェ、どうしたんだ?」

 スカサハの背後から顔だけを覗かせているラナの姿が、嫌になるくらい似合っていた。

 ラクチェは二人を脅すかのように、無言で抜刀する。

「落ち着け! 言葉のあやだ、言葉のあや」

「何も、悪気があったわけじゃないの。ただちょっと、二人きりでいられたらなって思っただけなのよ」

 額に冷や汗を浮かべながら必死に弁明する二人に、ラクチェは視線を伏せながら口端を上げた。

 鈍く光る剣とその笑顔は、恐ろしいほどに似合っていた。

「スカサハとラナって、そういう関係だったんだ」

 ラクチェの言葉に、スカサハの顔が一瞬にして赤く染まる。

 ティルナノグ組でも一番の美丈夫は、体格、性格、ルックス。その全てにおいて一級品だ。

 赤く染まった顔でさえ、見る者が見れば思わず見惚れてしまうほどだった。

「あらあら、顔が真っ赤よ、お兄ちゃん」

 ラクチェは、滅多なことではスカサハを兄とは呼ばない。

 経験上、スカサハは非常にまずい状態であることを悟っていた。

「ほら、今日一日は情報収集でもしないと。それなら俺一人より、ラナと一緒の方がいいかなって」

「ラナ限定なんでしょ?」

 あくまで逃がすつもりがないらしい妹に、スカサハはラナの方を振り返った。

 二人で交わす視線が、再びラクチェを刺激する。

「あらあら、言葉はいらないってヤツ? 羨ましいこと」

 ラクチェが剣の切っ先を横に寝かした。

 ラクチェ得意の構え方である。

「お、お前だってヨハンがいるじゃないかッ」

「そうよ。ヨハンなら、きっとラクチェを大切にしてくれるわよ」

 最後の切り札とばかりに、スカサハがヨハンの名前を口にする。

 しかし、ラクチェはスッと右足を後ろへひいた。

「あのバカなら、どっかに行っちゃったわよ。厭きたんでしょ、わたしみたいな女には」

 ラクチェの取り柄と言えば、戦闘である。戦場で彼女の右に出る者はいない。

 ところが、他の取り柄と言えば……あまりないのかもしれない。

 家事全般はラナやオイフェに任せ、出来ることと言えば食器洗いのみ。

 調理に関しても、甚だ疑問符が残る。

「そうよね。ラナみたいな女らしい娘が好きなのよ、男ってのは」

 少なくとも、ラクチェの偏見を一般論化されてはたまらないと、スカサハが必死に口を開いた。

「いや、お前だっていい女だぞ。元気だし、健康的だし、はつらつとしてるし」

「スカサハ、それ全部一緒よっ」

 スカサハの的外れなフォローに、すかさずラナがつっこみを入れる。

 ラクチェの左足が、じりじりと二人へと迫っていた。

「ま、待ってくれ! 俺にはヨハンがお前を捨てるとは思えないんだが」

「……一週間よ。一週間も何もないの」

「な、何もないって……」

 ラクチェの言葉に、ラナが思わず赤面する。

 ラナの表情に気付かなかったのか、ラクチェは下を向いたまま言葉を続けた。

「愛してるも、君の瞳に映らせてくれとも、私に女神の祝福をくれないかとも、何にも言ってくれてないの」

 ”いつも言われてるのか?”との言葉を、スカサハは必死で喉の奥へと飲み込んだ。

 今は邪魔しない方が良いと感じたのだ。

「朝はいっつも一人だし、夜も一人。辛うじてヨハンの匂いが残ってるだけ」

 泣き出しそうなラクチェの声に、スカサハとラナは防御態勢を解いていた。

 どうやら、いろいろと溜まっているものがあるらしいと感じたラナが、スカサハの背後からラクチェへと向かう。

「寂しかったのね……」

「ラナぁ……」

 剣を持ったままでラナに頭を撫でられ、ラクチェが剣を持ったままラナを抱きしめた。

 その切っ先は、未だにスカサハの方を向いていたが。

「でも、ヨハンって結構マメだと思ってたわ」

 ラクチェを腕の中で泣かせながら、ラナは背後にいるスカサハを振り返った。

 スカサハは、解放軍の中ではもっともヨハンに親しい人間である。

 ヨハンが解放軍に加わる前から、彼のことを知っていた。

「まぁ、手を抜く奴じゃないな」

「何か理由があるのかしら」

「だろうな。少なくとも、ラクチェを捨てそうにはないだろ」

 二人の会話が耳に入っていないのか、ラクチェはラナの腕の中で泣き続けている。

 剣は、スカサハの手によってラクチェの手から抜き取られていた。

「でも、実際に何も言ってないみたいじゃない」

 最終的には、女性は女性の味方をする。

 ラナもその例外ではない。

「まぁ、セリフは別にして、ヨハンがラクチェにかまってないってのは気になるな」

 兄も、最終的には妹の言葉を信じている。

 二人の中では、既にヨハンが悪者になっていた。

「でも、愛してるは別にして、女神の祝福って……」

「俺は言えない」

 それでも、ラナの瞳はからかうようにスカサハを見つめていた。

 その視線の意味に気付いたのか、スカサハは慌てて首を横に振った。

「……うぅ、ゴメン、ラナ」

 ひとしきり泣いて落ち着いたのか、ラクチェは素直にラナに謝っていた。

 ラナの方も、ポンポンとラクチェの頭を叩いてから体を離す。

「一度、話し合ってみたら? ヨハンもきっと、ラクチェが寂しいのに気付けていなかっただけだと思うから」

「……そう、かな」

「そうよ。男の人って、恋人になった途端に安心して、言葉が足りなくなったりするものよ」

 暗に自分のことを指しているのかとも思いながら、スカサハもラクチェを励ます。

「ま、話してみなきゃ始まらないだろ。きっと、ヨハンも忙しかったのさ」

「かなぁ……」

 まだ半信半疑のラクチェを立たせ、スカサハはラナを伴ってラクチェを部屋の外へと追い出した。

 黙ってそれに従ったラクチェに、スカサハが自室の鍵を閉めて微笑んだ。

「ほら、行ってこい。最近はアーサーとよく一緒にいたからな」

「うん。ありがと、スカサハ」

 幾分か軽くなった足取りで、ラクチェが駆けていく。

 その後ろ姿を見送って、スカサハは隣にいるラナに話し掛けた。

「あのさ、やっぱりラナも言葉欲しかったりする?」

「多すぎても困るけど、男性が思う以上には欲しいかな」

「……好きだよ、ラナ」

 そう言ってラナの手を握ったスカサハに、ラナは少し意地悪そうな笑顔を見せた。

「ヨハンみたいなオリジナリティーが欲しいな」

「俺が一生守るから」

「それって、プロポーズっぽくない?」

 そう言いながら、ラナの表情は恥ずかしそうな表情へと変わっていた。

「俺はそのつもり。いつだって真剣なの、ラナに伝わってなかった?」

「伝わってるけど……もう少し軽くないと、毎日もたないわ」

 赤くなった顔を見られないようにと、ラナがスカサハの腕にすがりついた。

 あまった手で頭を掻きながら、スカサハはつい呟いていた。

「ちょうどいい言葉ってさ、なかなかないな」

「いいのよ、スカサハだもん。ほら、街に行きましょう?」

 腕を引っ張るようにして先を歩くラナに従いながら、スカサハは心の中で苦笑していた。

(俺も、ヨハンのこと笑えないな。なるべく一緒にいるよ、ラナ)

 

 

 スカサハの部屋を出たラクチェは、スカサハに言われた通りにアーサーの部屋へと出向いていた。

 そこにはスカサハの言う通り、ヨハンがアーサーと同じ部屋で、書類を処理している最中だった。

「ヨハン……」

「ラクチェか……どうしたんだ?」

 受け答えをしたのはアーサーだった。

 ヨハンはラクチェを一瞥しただけで、書類の方へ視線を戻していた。

「うん、ちょっと、ヨハンと話がしたいんだけど……いいかな」

「俺はかまわない。ヨハン、少し休憩しようぜ」

 アーサーはそう言って椅子から立ち上がったのだが、ヨハンは小さく首を振っていた。

「まだ休むわけにはいかない」

「おいおい。そんなこと言っても、もう一週間も働き詰めだぜ? 俺も、いい加減にフィーの相手しないと」

 立ち上がったまま、アーサーは腕組みをしてヨハンを睨みつける。

 ラクチェはそんなアーサーの方へ歩み寄ると、小声で尋ねた。

「あのさ、何してるの?」

「解放軍が開放した土地の書類だよ。まだ体制が固まってないからな。でも、やらなきゃ民の生活に関わる」

「今までに開放した土地、全部?」

「全部。セリス様は外交で忙しいし、シャナン様は雑務で手一杯。結果、俺達二人にまわってきたわけ」

 セリス軍は確かに公爵家の血をひく者で構成されているが、実務経験は皆無と言っていい。

 実務経験があるのはシャナンとオイフェ、ヨハン程度である。

 フィーも一応は経験があるのだが、一度仕事の手際を見たアーサーによってシャナンの補佐にまわされていた。

「この仕事が終わらなければ、民の生活に支障が生じる。それでは、侵略者と言われても文句は言えなくなる」

 二人の会話を聞いていたのか、ヨハンが顔も上げずにそう言った。

 ヨハンの言いように、さすがのアーサーも表情をムッとさせた。

「でもよ、ラクチェに支障が出てるみたいだぜ」

「ア、アーサー」

 話し合いに来た筈なのに、ラクチェの方はその意志が鈍り始めている。

 何かを感じ取ったアーサーが、ラクチェのために言葉をつなげていた。

「ここんとこ、ここと部屋の往復だけだろ。半日でいいから、話してこいよ」

 それでも黙って作業を続けるヨハンに、アーサーは遂に彼の手からペンを取り上げた。

「問答無用。俺はヴェルトマー家の公子、アンタはドズル家の公子。どっちが上?」

「……だが、今の私達に関係はないだろう」

 グランベル公爵家にも、序列は存在する。

 シグルド戦役以降は、ヴェルトマー家が公爵家のトップに立っていた。

 アルヴィスが皇帝に就任して、ヴェルトマーの家督を一時的にヒルダが預かっていることも、その一因である。

「でも、セリスの下で新しい体制が出来れば、当然公爵家も復活するよな」

「……わかった」

 大きくため息をついて、ヨハンが立ち上がった。

 すかさず、アーサーが退室を命じる。

「この部屋は立ち入り禁止だからな。俺がいいって言うまで戻ってくんなよ」

「わかったよ」

「ちなみに、俺はフィーを呼んでくるけど、その間に戻ってくんのもなしな」

「わかった」

 念を押すアーサーに、ヨハンはラクチェの肩を押して退室していった。

 残されたアーサーは小さく笑って、自分の椅子へと戻る。

「ラクチェのあんな顔、初めて見たぜ。罪な奴だねぇ、ヨハンも」

 そして、アーサーは再びペンを手にしていた。

 目の前に積み上げられた書類に目を通し、すぐに判断を下す。

「今日一日、俺一人だな。フィーに手伝わせるわけにもいかないしなぁ」

 寂しくないわけではない。

 だが、アーサーにとっては慣れたことだった。

 就寝の前に交わす二言、三言だけでは物足りないのも事実だが、フィーもそれなりに理解している。

 何よりも、朝食だけは必ず一緒に摂っていることが、ヨハンたちとの大きな違いだった。

 

 

3

 ラクチェの肩に手を乗せて、ヨハンはラクチェを中庭へと連れてきた。

 中庭にある噴水は、主が変わった今も変わらずに水を湛えている。

「……ラクチェ、話というのは?」

 書類しか見ていなくても、会話は聞いていたらしい。

 ヨハンは単刀直入にそう尋ねた。

「……ゴメン」

 スカサハに見せた気概はどこへやら、ラクチェは噴水のかこいに腰を下ろしたまま、頭を下げた。

 しばらく沈黙したヨハンは、それ以上ラクチェが口を開かないのを見て、小さく笑った。

「どうやら、君を泣かせていたのは私のようだな」

「え……」

 ヨハンの言葉に、ラクチェが顔を上げる。

 苦笑しているヨハンを見た途端、ラクチェは思わず視線をそらしていた。

「私の顔は、見るに耐えないかい?」

「そうじゃない……でも」

「民の為に一生懸命になる私に我侭を言うことが、それほど苦痛かい?」

 またもや図星を指されたラクチェは、無意識の内に立ち上がっていた。

 わけもわからずに走り出そうとする彼女の身体を、ヨハンの力強い腕が引き留める。

「私は誤解をしていたようだな。その……君の安らかな寝顔を見るだけで満足していたんだ」

「え……」

 ラクチェの身体の衝動が収まっても、ヨハンは決して腕を放そうとはしなかった。

 首が微妙に揺れているラクチェを見つめながら、彼は口許に微笑を浮かべた。

「君は待ってくれていたんだろう? だから、朝も起きられなかった。私も私で、君の寝顔を見ていたかった」

「……ヨハン、遅いから」

「もうしばらく、耐えてくれないか? 貴方に恋焦がれし愚者は、必ず貴方の許へ帰ります」

「ヨハン」

 ラクチェが顔をヨハンへと向けた。

「だから、その瞳に私を映してくれないか? 君の中に、私を留めさせて欲しい」

 ヨハンの言葉が、ラクチェの涙を誘った。

 知らず知らずのうちに毒されていたのだ、とラクチェは心の中で呟いた。

 気障にも思えるヨハンの言動。

 それでも、今の彼女にはなくてはならないものだった。

「もっと言ってよ……愛してるとか、君は女神だとか」

「請われずとも」

 そう言って、ヨハンの指がラクチェの涙を掬った。

「私が愛する女性は生涯一人。君だけだよ、ラクチェ」

「わたしは貴方の女神よね?」

「もちろん。君のような女神がいるからこそ、私はこの戦いをやり遂げてみせる。女神の祝福に報いる為に」

「愛してるって言って」

「この愛は普遍だと、以前にも誓った筈だ。もし君が疑い続けるのなら、私も誓い続ける。君への愛を」

 ラクチェがヨハンの胸を叩きながら、ヨハンの腕の中に包まれていく。

 すっぽりとヨハンの腕の中に収まっても、ラクチェはずっと小さな声で求め続けていた。

 その一つ一つに少し言い方を変えつつ答えて、ヨハンはラクチェが口を閉ざすのを待った。

 

「……ヨハン、ゴメン」

 それまでの求めるセリフとはまったく違っていた。

 落ち着いたラクチェが、頭をヨハンへ預けた。

 黙ってその頭を抱きながら、ヨハンはゆっくりと地面に腰を下ろしていく。

 何の抵抗もせずにラクチェが彼の膝の上に座るのを待って、ヨハンはラクチェの瞳に自分の瞳を映した。

「門限を決めようか。君はその時間になったら、先に寝て欲しい」

「10時ね」

「その時間にしよう。そのかわり、朝食は一緒に食べることにしよう。朝だけでも、二人きりで話をしよう」

「うん……でも、朝だけじゃ、欲求不満になりそう」

 そう言って、ラクチェがヨハンの前で久しぶりの笑顔を見せた。

 ヨハンもつられて笑いながら、一週間ぶりにラクチェの首筋を撫でた。

 彼の記憶と寸分違わず、ラクチェに残されているかすかな傷が、指先にその存在を示してくる。

「今夜だけ、仕事を休もう。君の中に、私を残せるように」

「バカ……中はダメだって」

 ヨハンの指が、ラクチェの服の中に侵入する。

 それは襟首から触ることのできるわずかな範囲だったにもかかわらず、ラクチェはうっとりと目を細めていた。

「夜まで待ちなさいよ」

「溶けないことを確かめたのさ。雪女かと思って」

 一度だけ指先に力を加え、ヨハンの指がラクチェから離れていく。

 自分の肌の余韻が残るその指を手のひらで包み込み、ラクチェはヨハンと同じ方向を向いて座りなおした。

 ラクチェの意図を読んで彼女の背中から覆い被さるヨハンに、ラクチェは全体重を預けた。

「もう、寂しくなんかないからね」

「それはよかった」

 疲れが出てしまったのだろうか。ヨハンの頭がコクリと揺れた。

 絶好の抱き枕を手に入れて、ヨハンは睡魔にその身を任せることにした。

 

<了>