ほんの少しだけ


「砂を払いに参りました」

 トラキアでは、いかなる山においても雪が降ることはない。

 海に面している斜面でさえ、海水に含まれる塩分のせいか、地面は荒廃し、砂埃が舞い散っている。

 トラキア歴代の王が葬られている山の斜面に竜を繋ぎ止め、アルテナは小さな箒を手に、斜面を登っていた。

 斜面が切れた見晴らしの良い場所に建てられた墓石の前で、アルテナは足を止めた。

「いい風……」

 吹き上がる風になびいた髪を片手で押さえ、アルテナはそう呟いた。

 トラキア王の墓石の前に、花は添えられていない。

 厳しい環境に暮らすトラキアの民には、死者に花を供える風習がないのだ。

 彼女もまた、その風習に従い、花を持ってはいなかった。

 花を供えて水をやる代わりに、手にしていた箒で墓石が被っていた砂を払う。

 小さな溝を埋める砂埃さえも見落とすことなく落としきり、アルテナは墓前で手を合わせた。

「父上、今年は例年になく豊作です。桑の栽培も順調で、数年後にはトラキアの重要な産業になりましょう」

 山岳地域が領土の大半を占めるトラキアに、桑などの商品作物を持ち込んだのは、前王のトラバントだった。

 彼は経済基盤の弱いトラキアを根本的に立て直すため、弱体化したレンスターを侵略すると同時に、
レンスター領内に確保した街道を利用して、商品作物を売って得られる外貨獲得の拡大を図ったのである。

 以前はレンスター王国によって阻まれていた運輸業も、現在は次第に力を付け始めている。

 グランベル王国との交易が盛んになればなるほど、トラキアは活性化するだろうと言われていた。

「……父上、私が貴方の娘として参るのは、今日が最後です」

 トラキア特有の乾いた砂が、払い落としたばかりの墓石の上に再び積もり始める。

 その砂をもう一度払い落として、アルテナは箒を動かす手を止めた。

 払われたばかりの砂が、舞い散りながら地面へと落ちていく。

「何者です? ここはトラキア王の眠る、神聖な地。それを知らないわけではあるまい」

 人の気配のする方へ、箒の先を向ける。

 抑えた殺気を放ちながら、アルテナは気配が動くのを感じた。

「……私だ、アルテナ」

 斜面から姿を現したのは、アルテナが兄として敬う、アリオーンだった。

 特徴的な彼の前髪に気付いたアルテナは、慌てて箒の先を下へと向けた。

「兄上でしたか。御無礼の段、お許し下さいませ」

 発言と箒の先を向けた失礼をわびるアルテナの頭を上げさせ、アリオーンはトラバントの墓石の前に並んだ。

 冥福を祈る姿勢を取り、アリオーンはまぶたを閉じた。

 アリオーンが再びまぶたを開けるのを待って、アルテナは口を開いた。

「兄上、私がこの場所へ来るのも、これが最後だと思います」

 アルテナの言葉に、アリオーンが小さく頷く。

 黙って墓石へと手を伸ばしたアリオーンに、アルテナは言葉を続けた。

「フィンの許へ参ります」

「そうか……決めたか」

「はい」

 小さく息を吐いて、アリオーンがアルテナと向き合う。

 たった二年の間に著しい成長を遂げた彼の妹は、記憶の中の妹とは随分変わっていた。

 逞しさ、凛々しさ、女性としての輝き。

 その全てが、記憶の中の妹など比べ物にならないほどだった。

 そのことに気付いた時、アリオーンはたまらずに苦笑を漏らした。

「……兄上?」

 アリオーンの苦笑に気付いたアルテナが、眉をひそませる。

「いや、お前もそのような歳になったのかと思うとな」

 アリオーンの言い訳に、アルテナも苦笑を浮かべた。

「私も二十四ですよ。嫁ぐことも、遅すぎるくらいです」

「そうか……そうだな」

 二人の苦笑が笑顔へと変わる。

 小さな笑い声が重なり、互いに打ち消しあうように消えていく。

 笑い声が消えるのを待って、アルテナは姿勢を正した。

「では兄上、これにて」

 そう言って頭を下げたアルテナに、アリオーンはわざと明るい声を出した。

「出戻るなら、いつでもいいぞ」

「まさか。フィンなら大丈夫です。早く子を生み、新生トラキアの一翼を担えるよう、精進いたします」

 真面目に返された妹の言葉に合わせて、アリオーンも表情を改める。

 かつてトラキア城で別れた場面とは違い、今度の別れは、それぞれに未来がある。

 そんなことを感じながら、アリオーンは優しい視線を妹だった女性へと送った。

「お前なら、必ずそうなるだろう。夫ともども、幸せにな」

 アリオーンの言葉に、アルテナが再び笑顔を見せた。

「はい。兄上もお幸せに」

 もう一度だけ頭を下げて、アルテナが墓地を離れていく。

 かつてよりも長い時間見送ることができるようになった背中に手を振って、
アリオーンは心の中に入ろうとしていた寂しさを振り払うように、墓石に声をかけた。

「さて、私も行きますよ。私にも、まだやらねばならぬ仕事がありますので」

 

 人気のいなくなった夕日に染められて、一つの墓石がまた、砂を浴びはじめていた。

 

<了>