目の前を見ようよ


「……何者だ」

 ヨハンは野営用のテントの入り口に人の気配を感じ、寝袋から抜け出すと、側に置いてあった斧を構えた。

 野営をしているのだから、人の足音というのは絶え間なく聞こえてくる。

 しかし、ヨハンが反応を示したのには理由があった。

 一つの足音だけが、明らかに異質な音と重なっていたのである。

「剣を持つ人間など、我が部隊にはいない。ましてや、そのような大きな音を立てる剣ともなれば尚更だ」

 ヨハンが率いるのはアクスナイト部隊。

 斧を使う騎馬兵だ。

 もちろん、主戦力となる兵士の他にも陣営を整えるための歩兵は存在するが、彼らは帯剣をしていない。

 ヨハンがその音に反応を示したのは至極当然とも言える。

「……ヨハンか?」

 テントの外側から問い返してきた声に、ヨハンは静かに攻撃態勢を解いた。

 そして、そのままテントの入り口へ歩み寄り、外に立っていた人物と顔を見せ合う。

「ラクチェ、どうして君がいるんだ。ここはイザーク軍の野営地だぞ」

「シヴァの奴に声をかけたら、ここにヨハンがいると教えてくれた」

 事も無げにそう答えて、ラクチェはヨハンのテントの中に入っていく。

 何も言えず、ラクチェにテントの中へと入られたヨハンは黙ったままテントの中に戻った。

 ラクチェはと言うと、既にヨハンの入っていた寝袋を端へ追いやって、二人分の場所を確保していた。

「話があって来た」

「……まずは話を聞きたいところだが、しばらく待ってもらえるか。シヴァに罰を与えに行きたいのだが」

 戦闘用の服装だからか、ラクチェはどっかりと胡座をかいている。

 普段ならばはしたないので止めろと言うヨハンも、今夜ばかりは注意しようとはしなかった。

「私の顔を見たら、皆でここへ連れてきてくれたぞ。全員を怒るほど、暇はないだろう」

 情けない部下を心の中で嘆きながら、ヨハンはラクチェに対して笑顔を見せた。

 それが作り笑顔だと言うことは、勿論ラクチェの方も承知している。

 事実、ヨハンが常人には耐えられない美辞麗句を並べ立てる前に、ラクチェの方から話を切り出していた。

「今日は遊びに来たわけではない。セリス様の使者として出向いた」

 その言葉に、ヨハンの表情から笑顔が消える。

 ラクチェも何度か見たことのある、本気になったヨハンの真顔だ。

「反乱軍のリーダー、セリスからの使者か」

 反乱軍という言葉にラクチェの眉がピクリと動くが、ラクチェはグッと堪えた。

 ヨハンが口にした反乱軍という言葉は、現在のヨハンの立場から言えば当然のことだ。

 ラクチェにも、それを受け入れるだけの度量は備わっている。

「私達のリーダーのセリス様は、貴方との戦いを望んではいない」

「そちらが望もうが望むまいが、私には反乱軍を鎮圧するという責務がある。戦いは避けられない」

「それはわかっている。だから、黙って見逃せと言うつもりはない」

「では、君を使者に立てた理由は何だ?」

 ヨハンの言葉に、ラクチェがわずかに間を空けた。

 ヨハンはちらりと周囲の気配を探るが、単にラクチェが唾を飲み込んだだけのようだった。

「……ヨハン、私達と共に戦ってくれないか」

「父を裏切れと言うのか」

 ある程度予想していた質問なのだろう。

 ヨハンの返した言葉には、何の躊躇いもなかった。

「そうだ。暗黒教団の支配からこの世界を救うために、ヨハンにも協力して欲しいんだ」

「できない相談だ、ラクチェ」

 あっさりと断りを口にしたヨハンに、ラクチェは呆気にとられた表情を見せた。

 その表情を眺めることなく、ヨハンがラクチェの手を取って立ち上がらせる。

「今までの誼に免じて、今日のところは君を斬ろうとは思わない。だが、今すぐ自分の陣へ戻りたまえ」

 引きずられるようにしてテントの外へ引っ張り出されたラクチェは、外の冷気に触れて、ようやく我に返った。

 そして、勢い良くヨハンの腕を振り払い、ヨハンの正面に立ってヨハンの方へ顔を突き出す。

「ど、どう言うことッ」

「君を見逃そう。セリスの陣へ戻るがいい」

「そうじゃなくてッ……アンタ、何を考えてるのよッ」

 よほど説得に自信があったのか、ラクチェは必死だ。

 ヨハンの方はと言えば、ラクチェの怒声にテントを抜け出してきた部下を手で追い払うことさえ余裕だ。

「アンタ、子供狩りは許さないってッ」

「無論、そのつもりだ。子供狩りなどという愚行、この領内でやらせるつもりは毛頭ない」

「だったら、協力してよッ。アンタが協力してくれないと、アンタを殺さなきゃならなくなるでしょッ」

「君の手にかかるなら本望だな」

「冗談じゃなくてッ」

 激昂すればするほど、ラクチェとヨハンの差は歴然となってくる。

 元々、ヨハンとラクチェには三歳の年の差があり、風格も格段に違う。

 ラクチェが感情任せになればなるほど、ヨハンとしては軽くあしらうことができる。

「私も冗談を言っているつもりはない。決戦は明日だろう。このような場所にいれば斥候と見なし、殺す」

「こ、殺せるもんなら殺しなさいよ」

「強がりは良くないな」

 ヨハンの気迫に、ラクチェが思わず一歩下がる。

 その一歩すら、ラクチェには無意識に下げさせられたものだ。

 頭一つ分背の高いヨハンの気迫が、ラクチェを飲み込もうとしていた。

「平時、街中ならば、君の言葉に私も軽く冗談を返せただろう。だが、ここは戦場であり、私は部隊の隊長だ」

「う……そ…よね」

 先に下げさせられた左足を追うように、右足の踵が浮く。

 今度の動きは、ラクチェの意思によるものだ。

「言った筈だ。ここは戦場だと」

 ヨハンの言葉に、ラクチェがパッと後ろへ飛ぶ。

 申しわけ程度に手の中の斧を見せたヨハンへ、ラクチェは急いで腰の剣を抜刀した。

「じゃあ、あたしがここでアンタを殺してもいいってわけよね」

「できるものなら。その震える足で踏み込めるものなら、踏み込んで来い!」

 物静かで理知的なヨハンとて、一皮剥けばドズル直系の騎士である。

 日頃は理知的な仮面で覆ってはいるものの、一度牙を見せれば獰猛な戦士だ。

 ラクチェは抜刀したものの、踏み込むための右足の踵は地にへばりつき、足先は完全に浮いていた。

「……その身体でこの私を殺せるとでも思っていたのか。君はそれほど愚かな人間ではないだろう」

 強力な意思で、ラクチェは鉛のように重たい踵を、じりじりとつま先よりも外側へと動かしていた。

 膝の内側に力を蓄え、今までの呪縛を振り払うように剣を横へ払った。

 ヨハンがすぐさまそれに反応しようとした矢先、ラクチェは渾身の力で自らの剣を地面へと突き刺した。

 甲高い金属音が響く中、ラクチェの顔に微笑が戻る。

「殺すわけないでしょ……話し合いに来たってのに」

 ラクチェの笑顔の意味を測りかね、ヨハンが曖昧な表情を浮かべる。

 そのヨハンへ、ラクチェは完全に剣を手放してなおも笑いかけていた。

「まさか無抵抗の婦女子を斬るなんてこと、貴方にはできない筈よね」

「その通りだ。ならば、今の君は無抵抗だと?」

「戦う意思はないわ。話を聞いてもらえればそれで充分よ」

 甲高い金属音を聞きつけたのか、野営テントの中からヨハンの部下達が顔を出してくる。

 多少の物音は無視していたのだろうが、さすがにラクチェとヨハンの言い合いには不安を覚えたのだろう。

 彼らは一様にヨハンとラクチェの表情を読み取ろうとしていた。

「案ずるな。彼女はセリス軍から来た使者だ」

 それに気付いたヨハンがそう取り成すと、部下の中でもまだ若い男がテントから抜け出してきた。

「ヨハン様、いかがなさるおつもりですか」

 部下の心中を代表する形でその言葉を口にした部下へ、ヨハンは何故か山の向こうへと視線を向けた。

 それが何を意味しているかは、誰にもわからない。

「……ヨハン?」

「すまないが、今はまだ良い返事を返すわけにはいかない。夜が明けるまで、時間をもらえるだろうか」

 先程までの殺気は消え失せ、ヨハンはいつものヨハンに戻っていた。

 それを感じたラクチェも、剣を鞘へと戻しながら神妙な顔で頷く。

 それを見て、ヨハンはラクチェに自分のテントの中で待つように言うと、主だった部下を集めて野営地を離れた。

 

 

 ヨハンが主だった部下と共に森の中へと入ると、部下達が神妙な面持ちで口を開いた。

「如何なさるおつもりですか」

「さぁて、どうしようか」

 ヨハン独特の軽い口調が、静かな森の中を透き通るように響く。

 部下の数人を周囲の見張りにつかせ、ヨハンは森の中の大木に背を預けた。

「アルはまだ来ていないのか」

「はい。途中で何かあるとは思えません。おそらくはまだ時間が掛かっているのかと」

 木にもたれかかっている主の周囲に円座を組み、部下がヨハンの言葉に答えた。

 部下の返事を聞き、ヨハンは小さく舌を鳴らした。

「……このままでは、本当にラクチェを殺さなくてはならなくなる」

「ヨハルヴァ様の動きも気になります。ここは後退し、谷の奥で待機されては」

「そうです。谷の奥で待機していたとしても、シュミット将軍に言い分はできます」

 イザーク城の東は両側を岩肌に囲まれた谷がある。

 そこをセリス軍が通過しようとした時に攻めようとしているという言い分は、充分に成立する。

 部下達はそうするように進言した。

 しかし、ヨハンは軽く首を横に振った。

「ヨハルヴァが解放軍に負ければ、それだけで私達は罪を問われる。何故、共同戦線を張らなかったのかとな」

「それはそうかもしれませんが……」

「とにかく、今から後退することはできない。ラクチェをこの場で殺すほどの度胸はないよ」

 ヨハンの言葉に、ラクチェを知る数人の部下が顔を伏せた。

 場に流れた重い空気は、ヨハンを木から離れさせた。

「とは言え、私一人のために領民を危険にさらすわけにはいかない。撤退するとしよう」

「では、明朝に出立を?」

「今すぐ準備だ。朝を待っていては戦闘に巻き込まれる。ヨハルヴァの動きを待つとしよう」

「ヨハルヴァ様が解放軍につかれた場合、どうなさるおつもりですか」

 一番気になっているであろう問題を口に出され、ヨハンは軽く目を閉じた。

 部下達が物音一つ立てずに主の言葉を待っていると、ヨハンは目を開かずに口を開いた。

「ヨハルヴァと戦うことになる。イザークとソファラの領民を守るためには、我々は敵対せねばならない」

「……承知致しました」

 部下の中で最も年配の男がそう答えた。

 円座を組んでいた部下が立ちあがる。その先頭に立って森を出ながら、ヨハンは空を見上げた。

「優柔不断と言われても仕方がないな」

 そう呟いたヨハンを、部下達は誰一人として声を掛けられずにいた。

 

 


 翌朝、ラクチェが目を覚ますと、既にヨハン達は野営キャンプを取り払っていた。

 陣立ての兵士達が忙しく動き回り、騎馬兵達もそれぞれの馬の世話を終えて待機している。

「……どうするの?」

「後方へ下がる。君はここに残るといい」

 自身の馬の鞍を入念に確かめながら、ヨハンは近寄ってきたラクチェにそう答えた。

 ラクチェは未だ残されているヨハン用のテントを振り返って、大きく溜息をついた。

「あのテントを残してくれるってわけか」

「君のような美しい女性に使われるなら、あのテントも報われるというものだ」

「すぐに捨てちゃうわよ」

「それでもかまわない。少なくとも、少しの間は私の形見になるだろう」

「ヨハン、アンタ……セリス様と戦う気なのね」

 鞍の点検を終えて手を止めたヨハンが、ラクチェと向き合う。

 下から見上げてくるラクチェの真っ直ぐな眼差しを受けとめて、ヨハンは口許を緩めた。

「弟がそちらに協力しなければ、私が協力することになるよ」

「どっちか一人ってこと?」

「そうだな。ソファラとイザークのどちらも救うには、生き残ったほうがそれを背負うことになるだろう」

 ヨハンに苦しそうな表情は微塵も見えなかった。

 既に弟と戦う覚悟はできているのだろうか。

 そのことを疑問に思いながら、ラクチェはヨハンへと手を伸ばした。

「ここで好きって言ったら、考え直してくれる?」

「ランのような君の素裸でも、私を振り向かせることはできないよ」

 ヨハンの言葉に、ラクチェは伸ばしていた手を止めて、クスリと笑った。

「脱ぐわよ、そんなこと言うと」

「川が近くに流れていないのが、非常に残念だな」

 そう言って、ヨハンが中途半端に伸ばされていたラクチェの手をとった。

 指先に力をこめてヨハンの手を握り返したラクチェが、不意に両手を引っ張った。

 バランスを崩して倒れそうになったヨハンを強引に抱きとめて、ラクチェがヨハンの肩に頭を預けた。

「もう一度逢いたい」

「いつかは逢える。君の剣を待っているよ」

「先陣、切るから」

 ラクチェの唇がヨハンの耳をくすぐった。

 離れがたい想いを振り切るかのように身体を離したヨハンは、すぐに馬の背に飛び乗る。

 馬上から見下ろすヨハンへ手を振って、ラクチェは静かに後ろへ下がった。

 ラクチェの姿を視界から外し、ヨハンが大きく腕を掲げた。

「これより、我が隊は谷の後方へと撤退する。陣形は通常。陣立隊は先発し、陣立てを……」

 ヨハンの言葉が途切れた。

 ラクチェの耳にも、かなりハッキリとした蹄の音が聞こえてくる。

「アル!」

 目の良い部下が叫んだ名前を聞いて、ヨハンが馬を走らせる。

 隊の先頭に出たヨハンの目に映ったのは、イザーク城に残していた部下だった。

「ヨハン様!」

「アル、首尾は?」

「ハ! 城下の住民、全て避難が完了いたしました。村の自衛も確認し、準備は整っておりますッ」

 少々興奮気味なアーノルドの報告に、ヨハン隊のあちこちから歓声が上がる。

 ヨハンも自身の高揚を隠しきれずにいた。

「よくやった! シュミットはまだ来ていないな?」

「はい。シュミット隊は未だ領内に入った気配はございません」

「よし。感謝するぞ、アルッ」

「ハッ」

 大声で主の感謝の言葉に応えたアーノルドは、早くも仲のいい者達に囲まれていた。

 その輪から離れ、微笑を浮かべているラクチェへとヨハンは馬の頭を向けた。

 別れた場所でヨハンが近付いて来るのを待ったラクチェが、目で問い掛けていた。

「……セリス殿の申し出、受けさせてもらえるかな」

「よくわかんないけど……もちろん、良いに決まってるでしょ。こちらこそ、よろしくね」

「ランのような素裸を見逃したようだ」

 そう言っておどけるヨハンを見上げて、ラクチェが意地悪そうに視線を流した。

「チャンスはあるかもよ」

「だが、この戦場で流されるわけにもいくまい。全てが終わるまでは、な」

「……そうね。まったく、アンタの切り替えの早さにはついていけないわ」

「そうか」

 一旦真顔に戻った顔が、一瞬だけ笑顔に戻る。

 だが、それも一瞬だけのこと。

 ヨハンは真顔のままで腕を掲げた。

「全軍につぐ! これより我が軍は、解放軍に協力する!」

「おぅ!」

 大きな鬨声が森の中に響く。

 水を得た魚のように、ヨハン隊が進軍を開始した。

 その指揮を執るヨハンの傍らには、大きな剣を事も無げに振り回す少女の姿があった。

 

<了>