風を信じて外伝

安らかな寝顔


「フィー、どうかしたのか?」

 日頃から他人にはほとんど干渉しないアーサーが思わず尋ねてしまう程、フィーは何回もため息をついていた。

 朝食の時から様子がおかしいことには気付いていたのだが、アーサーは気を使って尋ねようとはしなかった。

 しかし、こうも長い時間ため息をつかれ続けると、さすがのアーサーも感情がささくれ立ってくる。

「え?」

「そんなにため息ばかりついて。おかしいぞ、今日のフィーは」

 少し目尻を上げ、アーサーは突然の呼びかけに目を丸くしているフィーを睨み付けた。

「そんなに変かな……」

「一時間に三十回もため息をつくのが普通だと言うのならな」

「そんなにため息ばっかりついてたんだ」

「正確には三十二回だ」

 聖戦の残務処理は、アーサーのいるヴェルトマーがかなりの部分を受け持っている。

 聖戦の渦中にいたヴェルトマーを継いだ者として当然という見解もあるが、それは決して正しくない。

 ヴェルトマーにまわされた残務処理の多くは、アーサーの意思によるだ。

 自分の手で殺した者への償いとして、アーサーはあえて膨大な残務処理を引き受けたのである。

 もっとも、多くの人材を失ったグランベルにあって、アーサーは内務処理能力に長けた貴重な人材でもあった。

「体調がおかしいのなら、早く休めよ」

 アーサーはそう言うと、再び書類に視線を落とした。

 執務机に山積みにされている書類の束は、とても一日で処理できる分量ではない。

 そしてそのほとんどが、あらゆる都市から提出された現在の状況の報告書である。

 その全てに目を通し、新年を迎える前に予算を組み立てなければならないのだ。

「ここでお前に倒れられると、仕事が一向に片付かなくなる」

「……ごめん」

 そう言って立ち上がったフィーは、特別顔色が悪いと言うわけでもなかった。

 顔色そのものは、むしろ健康そうである。

 部屋を退出するフィーの表情を盗み見たアーサーは、自分以外誰もいなくなった部屋で小首をかしげた。

「一体、何だってんだ」

 そう呟いてしまうと、余計に気になってしまうのが人間である。

 最初の内は何とかペースを保って書類を処理できていたが、次第に紅茶を飲む回数が増えていく。

 ヴェルトマー特産のローズティーも、徐々にその効力を失っていった。

 段々と書類の文字が小さく見え始め、静か過ぎる部屋の中が、逆に雑音で包まれているように感じ始める。

 ついには堪らなくなったアーサーの足が貧乏ゆすりを始める。

 書類を読む態勢が崩れてゆき、最後には書類を机の上に叩き付けた。

「えぇい、やってられるかッ」

 勢いよく立ち上がったアーサーは、そのまま執務室を飛び出した。

 偶然通りかかった部下にアミッドを呼ぶように言いつけ、アーサーはフィーのいる馬小屋へ向かう。

 予想通りにマーニャの世話をしていたフィーの腕を掴み、アーサーは強引にフィーの視線を自分へ向けさせた。

「な、何なのよ」

「明日から旅に出るぞ。フィー、文句ないな」

 全く唐突な言動に、フィーはさすがに顔をしかめた。

「一体何なのよ。何で急に旅に出るとか言うわけ?」

 至極当然なフィーの問い返しに、アーサーはキッパリと言い放った。

「知るか」

「ハァ?」

 思わず語尾を上げて上目遣いに睨みつけたフィーに、アーサーはなおも平然と続ける。

「理屈なんてない」

「……ったく、頭のネジが飛んでるわよ。お医者様呼んだ方がいいかしら」

 そう言って踵を返そうとしたフィーを、アーサーはグッと引き寄せた。

 腕を引っ張られて振り向かざるを得なかったフィーの目を見て、アーサーが言葉を続ける。

「フィーがしたいようにすればいい。だから、もう二度とオレに隠し事はするな」

「それだけ?」

「一人で悩むな。フィーが言ったんだぞ、二人で悩めば解決できるってな」

 アーサーの言葉に、フィーは思わず微笑を漏らした。

 揺らした肩から何かが外れたような音を聞いて、フィーは黙ってアーサーの方に体を預けた。

「約束だけは守ろうぜ。お互いにな」

 フィーを受け止めながら、そう耳許で囁く。

 アーサーの息が耳にかかり、フィーは幸せそうに瞳を閉じた。

 

 

 

 フィーの愛馬・マーニャは気持ち良さそうに故郷の空を駆けている。

 その背中に跨って、アーサーはフィーと共に眼下に広がる雪原を眺めていた。

 シレジアの中でも標高の高いこの地方は、良質の天馬を産出するシレジアの大事な直轄地である。

「ここがマーニャの生まれ故郷か」

「そうよ。天馬が育つには充分な環境なの。夏になると牧草で緑に覆われるのよ」

 土地に詳しいフィーにそう解説してもらっても、アーサーにはまったく予想がつかない。

 何しろ、今は一面の雪化粧を施されているのである。

 緑色に染められた雪原は、とても想像できるものではなかった。

「自然界の神秘だな」

「そうかな。まぁ、天馬も言ってみれば神秘の賜物なのかもね」

 アーサーの言葉にそう返しながら、フィーはマーニャの手綱を少し絞った。

 主の意思を汲み取り、マーニャがわずかに速度を落としながら降下を始める。

「アーサー、ありがとう。シレジアに行かせてくれて」

「別に。フィーが好きだからな」

 事も無げにさらりと言ってのけたアーサーに、フィーは思わず頬を染めて前を向いた。

 背後でアーサーのクスリと笑った雰囲気が流れてくるが、それには返す言葉も出てこない。

「……ストレートなんだから」

「照れてるフィーもいいな」

 そう言って頬を寄せるようにして抱き着いて来るアーサーに、フィーはもうどうしようもなくなって手綱を揺らした。

 マーニャがすぐさま反応し、強くなった風が二人の頬を冷やしていく。

 すぐさまフィーの背中に隠れながら、アーサーはフィーの大きな鼓動を直に聞いていた。

 

 

 天馬を育てている牧場にマーニャを預け、二人は小さな丘へ足を運んでいた。

 最初は意味もわからずにフィーの背後をついていったアーサーも、次第に雰囲気を感じ始める。

「……誰かの陵墓か」

 背後を歩くアーサーの言葉に、フィーは前へ進みながら答えた。

「ここは歴代の王と王妃を埋葬しているの。だから、天馬は生まれながらにして王家の祝福を受けているのよ」

「シレジアにとって一番大事なものか。ヴェルトマーの炎みたいだな」

「そうかもね。シレジア人にとって、天馬は象徴であり、宝でもあるの」

 シレジアのことを話す時、フィーはいつも大人っぽく感じられる。

 アーサーが親のことを話す時、いつになく子供っぽくなるのとは正反対だった。

 アーサーにとって、ヴェルトマーの系譜とは超えることのできない偉大な自分の保護者たちだからだ。

「母様に、結婚の報告しなきゃ」

 そう言ったフィーの足が止まる。

 必然的にその背中を守る位置に立ち止まったアーサーは、目の前にある石碑を見上げた。

「これが?」

「シレジア王妃歴代の墓。あたしの母様もここに眠ってる」

 そう言って、フィーは一礼をしてから石碑を囲う木々の柵の中に足を踏み入れた。

 それを黙って見送りながら、アーサーは石碑の向こうに見える山々を見渡した。

「一面の雪化粧だ。美人が多いわけだよな」

 自分で漏らした呟きに不謹慎だと思いつつ、アーサーはフィーに呼ばれるままに柵を乗り越えた。

 石碑の前に置かれた石畳の上だけは雪がなく、誰かが定期的に管理に訪れていることがわかる。

 そんなことを思いながら、アーサーは言われるままにフィーの隣に並んだ。

 適度な位置関係に置かれた二つの石畳は、それだけで何やら神聖な気持ちにさせる。

「母様、フィーはこのアーサーと結婚致しました。これからはヴェルトマーの地で、新たな風を受けていきます」

「フィーはオレが幸せにします」

 アーサーはそれだけ言うと、軽く手を合わせた。

 黙って瞳を閉じ、石碑に祷りを捧げているフィーの邪魔をする気にはなれなかった。

 それでも、アーサーには石碑に対する特別な思い入れはない。

 付き合って祷りを捧げることもなく、アーサーはただ石碑を眺めていた。

「……先客か」

 風に乗って運ばれたような小さな声に、アーサーはゆっくりとした動作で後ろを振り返った。

 フィーには届かなかったのか、フィーが振り返る気配はない。

「セティ」

 アーサーの声に軽く手で応え、セティが柵の中に入ってくる。

 セティの足音を聞いても、フィーが祷りを止める様子はなかった。

「どうしてここにって顔だな」

「あぁ。シレジア王家ってのは暇らしいな」

「風がお前達が来ていることを教えてくれた。私も、フィーに言わなければならないことがあるんだ」

「父様が亡くなったのね?」

 突然二人の会話に入ってきた妹に、セティは軽く頷いてみせた。

「一週間ほど前、母上の墓の前で息を引き取られた」

「ここでか?」

「いや、母上一人だけの墓の前でだ。フィーには悪かったが、既に埋葬も済ませた」

 セティがそう言うと、フィーは石碑の方を向いた。

「そっか……父様もこの中に入られたのね」

「あぁ。お前には悪かったが、もはやお前が戻ってくるまで耐えられる状態ではなかった」

 セティの言う通り、レヴィンの亡骸はあまりにも酷かった。

 元々病気で無理をしていた身体である。

 一度生命活動を失ってしまうと、もはや崩壊を止めることはできなかった。

「病気?」

「母上よりも酷かった。聖戦も、生きておられただけで不思議なほどだ」

「ひょっとしたら、母様もそのことを知っておられたのかもね。だから、あんなに無理をして……」

 セティとフィーが石碑を見つめる中、アーサーは居心地悪そうに頬をかいていた。

 他人である彼が中に割り込めないほど、レヴィンの家族の絆は固かった。

 二人の親が死んでしまっては、アーサーが家族の中に入り込む機会も与えられない。

「……なんか、スッとした」

「そうか」

「うん。父様の顔を見れなかったのは残念だけど、そろそろ母様にもゆっくり休んでもらわないとね」

「そうだな。父上が側に行かれて、母上もようやく心から安らげるだろう」

 シリアスな雰囲気が、フィーの背中から抜けていく。

 いつもの元気なフィーが戻っていた。

「あたしが心配かける訳にもいかないし。父様に祟られても困るしね」

「違いない。父上なら、母上との仲を邪魔しただけでも祟ってきそうだ」

 珍しく冗談を口にした兄に、フィーは叩く仕草をして見せた。

 セティがそれを軽くあしらい、黙って見ていたアーサーの方を向く。

「寄ってくか?」

「いいのか?」

「あぁ。どちらにせよ、今日中にヴェルトマーには帰れないだろう。私も久しぶりに話がしたい」

「じゃ、遠慮なく」

 アーサーがそう答えたところで、三人はあらためて石碑の方へ頭を下げた。

 そして、フィーを先頭にして陵墓を後にする。

「……セティ、レヴィンさんの死因って何だ?」

「極度の衰弱だ。それも、魔法力の過度の行使によるものだった」

「もしかして、魔法力で肉体をもたせていたんじゃないのか?」

「あぁ。父上は、私に会った時点で限界に近かった。最後の日など、もはや身体さえ動かせない状態だった」

「全然気付かなかった」

「あぁ、そうだろうな。父上がバルコニーで倒れられるまで、私も確信をもてなかったくらいだからな」

 先にマーニャの所へ走って行ったフィーが、二人に向かって大きく手を振る。

 それには何も返事をせずに、アーサーはセティを見てニヤッと笑った。

「お前、レヴィンさんの口癖が移ってるぜ」

「……そうか?」

 曖昧な表情を浮かべて尋ねたセティに答えることなく、アーサーは笑顔のままフィーの方へ駆け出した。

 楽しげにマーニャと三人で笑いあっている妹夫婦を見ながら、セティは片時も離すことのない魔道書を撫でた。

「風の神よ、どうか母上と父上に穏やかな風をお与え下さい」

 セティの呟きが風に流され、フィーとアーサーが笑顔でセティを迎える。

 

 シレジアの風は冷たく、そして清々しい。

 山の雪に清められた風は、どんな時も新鮮な風をシレジアの民へと与え続ける。

 シレジアの風は今、新しき王と共に歩き始めた。

 前王の厳しいまでの冷たい風と、前王妃のどこまでも暖かな風。

 そして、新王の呆れるほどに包みこんでくれる風。

 シレジアの大地は、民は、どんな風でも受け入れる。

 まるでそれが、風の地に生きる特権だと言わんばかりに。

 

<完結>