気付けばそこには過去が在り


 剣を撃ち合う音が響き、地面をする足音が重なる。
 弾む息は一方だけだが、時折、重い呼吸が辺りを包む。

「どうした、春」
「いえ、まだまだッ」

 地を蹴り、孫春の繰り出した斬撃が夏侯惇を襲った。
 それを真正面から受け止めて、夏侯惇は力ずくで押し返していく。

「この程度では、まだまだ勝てぬぞ」
「やぁッ」

 鍔迫り合いを瞬間的に拮抗させ、直後にできた隙を使って孫春が剣をさばく。
 剣をさばかれた夏侯惇は、改めて感じる護衛の技量に片頬を歪めた。

 だが、その余裕を見せ付ける暇も無く、孫春の追撃が彼を見舞う。
 的確な剣さばきでそれらを迎え撃ち、彼は殺気をこめた剣戟を返した。

 それもあっさりとかわされ、夏侯惇と孫春の間が開く。
 一足飛びに踏み込まなければならない間合いに、二人が同時に息をついた。

「相変わらず、見事よ」
「お褒めに預かり、恐縮です」
「もう少し楽しみたいところだが……」

 そう言って言葉を切る夏侯惇の横顔は、夕日に赤く染められていた。
 鍛錬を始めて、既に一刻以上も二人で剣を合わせている。
 孫春の息も上がっているように見えるが、それを表に出すほど彼女は素直な人間ではなかった。

 もちろん、夏侯惇にしてみても、一瞬たりとて気の抜けない相手との鍛錬は疲労をもたらす。
 いくら衆目にさらされることの無い自宅の庭とはいえ、そこは男の意地、主人の見栄もある。

「そろそろ日も暮れる。今日はここまでとしよう」
「はい……ありがとうございました」
「あぁ。いい鍛錬になった」

 実のところ、孫春の気力と体力は限界にあった。
 普段ならば主人に対してみせる気遣いも忘れたように、その場に膝をついてしまう。

「疲れたか」
「……はい」

 失態を見られた孫春が、観念したようにそう答える。
 夏侯惇は剣を納めながら、孫春の労をねぎらった。

「実戦なれば、一刻以上も剣を合わすことはない」
「ですが、緊張し続けることは必要かと」
「俺たちが一刻以上も剣を振るい続けるなら、それは負け戦よ」

 ようやく呼吸を整え終わった孫春が立ち上がるのを待って、夏侯惇は控えている筈の侍女を呼んだ。
 主人を待たせることなく姿を見せた侍女に手拭いを頼み、彼は館の縁側に腰を下ろした。

「それに、貴様の剣は一撃必殺。他者を殺すための剣よ」
「恐れ入ります」

 剣を下ろし、庭に立ったままの孫春が頭を下げた。
 彼女の背後に沈み行く夕日が、孫春に流れる汗を煌かせる。

「元譲様」

 孫春に見とれていた夏侯惇は、彼を呼ぶ声に咳払いをしてから視線を向ける。
 彼を呼んだのは、孫春の弟であり、彼の家が抱える鍛冶師だった。

「どうした」
「頼まれていたものが出来上がりましたので」
「おぉ、そうか。早速渡してやれ」
「はい」

 弟の登場に戸惑う孫春へ、秋芳が打ち上がったばかりの剣を手渡す。
 目を丸くする孫春に、夏侯惇はその理由を口にする。

「次の戦は激しいものとなる。貴様にも、しっかりと働いてもらわねばな」
「私に、この剣を下さると」
「弟の剣だ。貴様が使うのに相応しかろう」
「そんな……ありがとうございます」

 深々と頭を下げる孫春に、夏侯惇は満足げに頷いてみせた。
 そして、姉と並ぶ秋芳へと視線を移す。

「しかし、秋芳よ。随分と髪が伸びたな」

 一週間以上も鍛冶場にこもっていた秋芳の髪は、先のほうが火に炙られていた。
 それがまた、彼の髪をぼさぼさに見せている。

「そうですね。秋芳様も元は良いのですから、もう少しおなりを整えられては」
「……はい」

 手拭いを持って戻ってきた侍女が、そう言いながら夏侯惇と孫春に手拭いを渡す。
 そのまま立ち去らないところは、主人の次の命令を促しているかのようにまで見えた。

「では、私が」

 そう言って弟の腕をつかんだ孫春に、侍女が素早く秋芳の逆の腕を取った。
 戸惑う秋芳が身動きする前に、侍女が主人を味方に引き入れる。

「秋芳様のことは、この夏伎にお任せくださいませ」
「お、おぅ」

 咄嗟にそう答えた夏侯惇に、孫春が弟の腕を離す。
 その隙を逃さずに、夏伎が夏侯惇家のホープを連れて行く。

 その場に残された二人はどちらからともなく視線を交わすと、互いに苦笑を浮かべた。

「夏伎さん、秋芳のことを……」
「そうなのか。まったくわからなかったが」
「上手くいくといいですね」
「あの夏伎だぞ。男は苦労すると思うがな」
「まぁ」

 吹き出す孫春に、夏侯惇も釣られて笑い始める。
 ひとしきり笑った後で、孫春が改まって頭を下げた。

「旦那様、過分のご配慮、ありがとうございます」
「いや、礼ならよい。貴様たち二人には、これからも働いてもらわねばならぬ」
「それでは、何か一つ、お返しをさせてくださいませ」

 肩でも揉もうかと考えていた孫春に、彼女の主人は予想外のことを頼んできた。

「ならば、久しぶりに貴様の飯が食いたくなったな」
「夕餉でございますか。喜んでお作りいたします」
「そうか。そろそろ寒くなってくる頃だからな。簡単な雑炊でよい」
「では、早速厨房に参ります」
「あぁ。待っている」

 やや疲れている感の見える孫春の後ろ姿を眺めて、夏侯惇は大きく伸びをした。
 心地よい疲労感とほんの少しの期待感に包まれながら、彼は縁側に寝転がった。
 時折吹く風が、彼の汗に濡れた前髪を撫でていく。

「ふん……これも平和よな」

 激闘の幕開けは、すぐそこまで迫っていた。

 

<了>