気付けばそこには想い在り


「つまらぬ」

 本日五度目の台詞に、温厚で陽気なさすがの夏侯淵も、思わず閉口する。
 彼の主である曹操が、先程からこう言っては部屋を出ようとしているのである。

「大殿、ダメだと思うぜ」

「むぅ……やはり、儂の後ろに居る男のせいかの」

 そう言うと、曹操がチラリと背後を振り返る。
 予想に違わない人物がそこにいることを確かめ、小さくため息をつく。

 鬼の形相をした、彼の秘書官に等しい文官が、主君の書く書簡を、無言の圧力をかけつつ待っているだ。
 その文官の類まれなる智謀は好めども、少しばかり頑固なところは、主君の意にそぐわなかった。

「まったく、元譲といい、奉考といい、儂のまわりは頑固者ばかりよ」

「……殿、御手が休まれておいでです」

「わかっとるわ」

 郭嘉の指摘に渋々ながらも筆を走らせ、ようやく書簡を完成させる。
 それに郭嘉が素早く目を通し、書簡を運ぶために待機している夏侯淵へと渡す。

 夏侯淵が恭しく押し戴くと、すぐさま新たな書簡が郭嘉の手によって、曹操の前に並べられた。
 思わず曹操が文官を睨みつけても、当の郭嘉は涼しい顔である。
 彼にしても、主人が仕事を終えない限りは休むこともできないのだから、当然とも言えた。

「やはり此度の戦、何にも増して重要であろうな」

「そうでございます。以前の黄巾族との戦とは、格が違います」

「なればこそ」

「後顧の憂いを絶つためにも、何卒、総ての雑事をお片付け下さいませ」

 曹操の言葉の先を言わせない郭嘉に、曹操は真面目ぶって筆を動かす。
 彼自身、やらなければならないことぐらいは分かっているのだ。

 しかし、それもたった数分のことで、再び筆がピタリと止まる。
 もちろん、魏の優秀な秘書官である郭嘉が、それを見逃すはずもない。

「やはり此度の戦の陣立、この儂が直接」

「どうか、夏侯将軍に一任なされませ。僭越ながら、夏侯将軍に間違いはないかと」

「いやいや、元譲も人の子。特に最近は女に狂っておる様子。ここは儂自ら」

「夏侯将軍の優秀な護衛を引き抜こうなど、殿も御無理をなさります」

「優秀な護衛か知らぬが、女ぞ」

 女の身で武芸者である人間は、噂に聞くだけでも片手に余るほどではある。
 それでも、魏の国に限って言えば、女は曹操の後宮にいるたおやかな者が多かった。

 その中で、夏侯惇の護衛として御前試合に出てきた孫春は、確かに人目を引いた。
 他の雑兵を圧倒しただけでなく、戯れに戦わされた武官にすら、互角以上の駆け引きを見せていたのだ。

「あの剣の腕、身のこなし。私よりも遥かに武の達人にございます」

「しかしのぉ、あのような眼をしている女子、そうそう居らぬぞ」

 女談義ともなれば、曹操が部屋を出ることもない。
 そう考えた郭嘉は、仕方ないとばかりに主君のネタ振りに乗ることにした。

 立腹して部屋を出て行かれるよりも、数分の雑談で主君の気分が乗るのならば、その方が良いのである。

「確かに、綺麗な目をしておりましたな」

「あれは意志ある眼よ。着飾ることしかできぬ女には、到底叶わぬ」

「まさに、これからの魏に相応しき武人ですな」

「だがの、あの眼をしている女は奥が深い。腹では何を考えておるのか」

「なおのこと、殿のお側には置けませぬな」

「いやいや、儂の慰みで口を割らせるのも一興」

「夏侯将軍ならば、先の楽しみな者の行く末を、心から案じられるのでしょうな」

「花は綺麗なうちに食さねばならぬ」

「では、仕事も実のあるうちにやり遂げねばなりませぬ」

 そう言って、郭嘉が主君の前に広げられている書簡を指先で叩く。
 コツコツというその音に、曹操は自らの敗北を悟った。

「仕方ないのぉ……今日は儂の負けじゃ」

「ありがたき幸せ」

 少し機嫌の良い様子で仕事にとりかかった主君に、郭嘉は深々と頭を下げていた。

 

 

 

 各諸侯たちの協力を仰ぎ、何とか黄巾の乱を治めた漢帝国も、その内情は腐敗を極めていた。
 黄巾の乱の原因ともなった董卓の専横は相変わらず続いており、もはや皇帝に権力はない。

 董卓の誇る側近衆の中でも、鬼神の二つ名を持つ呂布の存在は大きかった。
 彼が一人いるだけで、董卓に反旗を翻す者をすべて葬られてしまうだろうとまで言われている。

 そんな中、徐々に勢力を伸ばしつつある反董卓連合は中央の董卓を無視し、一触即発の状態が続いている。
 曹操たちもこの戦に加わるために、寸暇を惜しんで、戦力の増強と鍛錬に勤しんでいた。

 

「次、鶴翼の陣!」

 全体の指揮を執る夏侯惇の号令が響き、隊形が徐々に変わっていく。
 全面衝突となれば使いものにならない程度ではあるが、それでも軍としての格好だけはつき始めていた。

「最後だ。あの山の上まで駆け抜けぇい!」

「おおぉッ」

 夏侯惇の計らいで、山上には食事が用意されているのである。
 既に何日も訓練を施しているせいか、食事を意味する夏侯惇の一声に大きな歓声が沸いた。 

 一般兵にしてみれば、多少の訓練を受けるだけで一食が保障されているとなれば意気も上がる。
 その心情を巧みについた訓練は、短期間での驚異的な教育の成果を挙げていた。

 しかし、一斉に駆けだした兵士たちを見つめながら、夏侯惇は小さくため息をついていた。

「これでは、とても呂布などに勝てぬな」

「彼ら雑兵は、いわば肉の壁。討ち取るのは、我らしかおらぬ」

 そう言って肩をまわす将に、夏侯惇は何も答えずに踵を返した。
 彼の護衛として従っている孫春が、将に一礼して、夏侯惇を追いかける。

「……あれでは敵わぬまでも、逃げることもできまい」

「そのための、最後の鍛錬なのではありませんか」

「疲れきった時の逃げ足は速くなろう。だが、それだけだ。居竦んだときの速さではない」

 鍛錬の意図を理解している孫春の言葉に、夏侯惇はわずかに表情を緩めた。

 彼の考えていた以上の早さで、彼女は彼の護衛としてだけでなく、側近としての能力も高めている。
 彼もそれを感じ取っているからこそ、護衛の必要のない些細な鍛錬にまで、孫春を従えていた。

「ですが、逃げるときの基礎にはなります。生き残る可能性は、高くなるはずです」

「模擬戦をするだけの余裕があればな」

「夏侯淵様のお話では、あと一月も経たぬうちに、袁家が立つと」

「今の孟徳では、出兵要請を断りきれぬだろうな」

「戦……ですね」

 視線を伏せつつ、戦という言葉を口にした孫春に、夏候惇は足を止めた。
 その気配を感じた孫春が顔を上げると、夏候惇の大きな手が彼女の頭に置かれていた。

「言った筈だ。貴様にも秋芳にも、二度と失う悲しみを味合わせぬと」

「はい」

 孫春が苦労しながら口許を上げると、夏侯惇は顔を赤くしながら手を離した。
 そして自身が赤くなっていることを悟らせぬようにと、再び前を向いて歩き出す。

 彼の護衛である孫春も、一歩遅れて彼に続く。

「……それにしても淵の奴め、そのようなことまで貴様に話しておるのか」

「旦那様からの信頼は絶対だと仰っていました」

「フン。それが淵の甘さよ」

 まだ乗馬のできない孫春に合わせたのか、二人は歩いて曹操のいる館を目指した。

 鍛錬場から曹操のいる館までは、歩けば三十分ほどの距離がある。
 徐々に遠くなっていく喚声に背を向けて、二人は黙々と歩き続けた。

 館に着けば、上殿どころか後宮にまで立ち入りを許されている夏侯惇に、警護兵も嫌応なしに道を譲る。
 彼の護衛である孫春はその任を解かれ、わずかに気を緩めた。

「それほど時間はかかるまい。その辺で休んでおけ」

「はい」

 上殿の許されない身分である孫春を館の入り口に置き、夏侯惇は奥へと進んでいく。
 戦も近いせいか、曹操軍の中核を占める将軍たちが、そこらかしこに集まっている。

 彼らからかけられる挨拶に礼を失さぬ程度で受け応えし、夏侯惇は曹操の居る筈の部屋へと足を踏み入れた。
 主君の書き終えた書簡を片付けていた郭嘉が彼に気付いて、その場に平伏する。

「よい。して、孟徳は厠か」

 必要以上の郭嘉の礼に、無用と言い返し、夏侯惇はそう尋ねた。
 郭嘉が立ち上がり、服の膝辺りを手で払う。

「いえ、陣立てを直で確認したいと、夏侯将軍のところへ行くと」

「む、入れ違ったか。その報告に来たのだがな」

「どこかへ寄ってから、将軍の所へ行かれるつもりだったのかもしれませんね」

「だとすれば、また戻らねばならぬな」

 来てそうそう、腰も落ち着けずに来た道を引き返そうとする夏侯惇に、郭嘉が苦笑する。

 実直な部下に、奔放な主君。
 絵に描いたような苦労性の男に、かける言葉は見つからなかった。

「では、次の戦も頼りにしている」

「私こそ、夏侯将軍の武勇と機転をアテにしております」

「孟徳の世のためならば、俺はいかなる苦労も辞さぬ。貴様はその策で、孟徳を支えてくれればいい」

「喜んでお仕えいたしましょう。それにしても、お互い、苦労いたしますな」

「孟徳に仕えることが面白いからだろう、俺も貴様も」

 真顔の夏侯惇の言葉に、郭嘉が思わず微笑みをもらす。

 彼の言葉は実直であり、真っ直ぐでもある。
 策を弄し、人を欺き、目的を達成する。

 ある意味、夏侯惇とは対極にいる彼ですら微笑んでしまうほど、夏侯惇の言葉は真実を突いていた。

「その通りで」

「では、戻らせてもらうぞ。孟徳を待たせるわけにはいかん」

 部屋に残って片付けを続ける郭嘉に別れを告げ、夏侯惇は来た道を引き返す。

 後宮の廊下ですら一本道ではないが、曹操のいる気配はしなかったのだから、既に後宮を出ていたのだろう。
 そう考えた夏侯惇が後宮を出たところで、体の大きな男が文官を連れて歩いて来るのにでくわす。

「ありゃ、惇兄」

 意外な人を見たという従弟の表情と声に、夏侯惇は足を止めた。

「淵か」

「忘れ物でもしちまったのか」

「いや、孟徳を探しに来たのだがな。入れ違いになったらしい」

 夏侯惇の言葉に、夏侯淵が大きく首をひねる。

「大殿なら、入り口のところで孫春としゃべってたけどな」

「何……孟徳ッ」

 足音荒く入り口の方へ駆けていった従兄を見送り、夏侯淵は罰の悪い表情を浮かべた。

「まずかったかなぁ」

「はぁ」

 その問いかけに答えられよう筈もなく、文官が曖昧な返事を返す。
 それさえも疑問に置き換え、夏侯淵はポリポリと頬を掻いた。

「ま、自業自得だな」

「左様で」

「うるさくならないうちに、引き上げるとするか」

 そう言うと、夏侯淵は郭嘉の残る部屋へと足早に立ち去った。
 数刻後に聞こえてくるであろう従兄たちの怒鳴り声から、身を隠すように。

 

 

 

「ほぅ。いつ見ても、良い眼をしておる」

「恐縮にございます」

 突然現れた曹操の姿に、警護兵たちが慌てふためいて警護の輪を広げる。
 暗殺の可能性が低いとはいっても、さすがに地方を治める領主である。
 どこから矢が飛んでくるかは、わかったものではない。

「よいよい。この儂を暗殺する度胸のある者なら、逆に捕えて、顔を見てみたいものよ」

 にわかに慌しくなった周囲にそう言い放ち、曹操が孫春を傍へと呼んだ。
 剣をその場に置いた孫春が傍に寄ると、曹操が相好を崩す。

「お前が元譲のお気に入りか」

「夏侯将軍には、過分の御配慮を戴いております」

「まぁ、それも納得というものよ。お前のような眼を持つ者は、いかに我が配下といえども、そうはおらぬ」

 鍛錬の後だったせいか、孫春の身体はわずかな桂甲に包まれている。
 それでも女性特有の柔らかなラインは、隠せるほどではなかった。

 遠慮のない曹操の視線から逃れるわけにもいかず、孫春は居心地悪そうに視線を伏せる。

「惜しいものよ。後宮にて、男を陰で操ることもできように」

「私の望みは、この命を助けてくださった夏侯将軍のお力となることでございます」

「傾国の花とはならぬとな」

「おそれながら、私ごときでは渓谷の水と名乗るのもおこがましく」

 孫春の返事に、曹操が目を瞬かせる。
 それもわずかな間だけで、次の瞬間には満足そうな笑い声を立てていた。

「はっはっはっ。機転も利くようじゃの。まこと、元譲には過ぎた女よ」

「ほぅ……随分と暇そうだな、孟徳」

 その場を凍りつかせるような低い声にも、曹操だけは動じていなかった。
 警護兵たちが身を固くしてしまっているのと対象的に、のんびりとした動作で背後を振り返る。
 憤怒の表情をした夏侯惇の姿を認めても、その様子は何ら変わる様子もない。

「陣立てのことで話があるのだが」

「ふむ。このような場所では差し支えるな。よし、部屋へ行こうか」

「あぁ……そうしてくれ」

 既に怒る気力もなくなっているのか、夏侯惇も主君の提案にあっさりと従う。
 だが、それだけで終わらせるほど、曹操も大人しい人間ではない。

「孫春、お前もついて参れ」

「え……あ、あの」

「孟徳」

 突然のことに戸惑う孫春の前に立ち、夏侯惇が曹操を睨みつける。

「いつも元譲のせいで、ここで待たせておるのでな。たまには女っ気のある会議もよかろう」

「後宮にいくらでもいるだろうが」

 夏侯惇のもっともな指摘にも、奔放君主は一向に耳を貸さない。
 それどころか、隙あらば孫春の手を取らんと、右手が怪しく動いていた。

「後宮におる連中は、このような荒事は好まぬでな」

「女っ気のある会議をしたいと言ったのは孟徳、お前だろうが」

「それじゃ、訂正しよう。孫春っ気のある」

「却下だ、却下!」

「命令だ」

「ぐっ……」

 最後は君主権限に敗れ、夏侯惇が苛立たしさを隠さずに孫春の名を呼んだ。

「孫春、主命だ。ついて来いッ」

「はい」

 素早く剣を取りに戻った孫春は、既に歩き去った曹操を追う夏侯惇の背後についた。
 怒りのせいか歩調の速い主人に合わせて、やや小走りに館の中へと入っていく。

「こっちだ。不慣れな場所だろうが、ついて来い」

 初めての上殿に、ともすれば遅れがちになる彼女へ、夏侯惇が見かねて手を伸ばす。
 腕をつかまれ、孫春は顔を上げて主の顔を見つめる。

「……はい」

 女の手を取ることが気恥ずかしいのか、なるべく人目を避けるような順路を辿り、夏侯惇が曹操の後宮へと入る。
 後宮に入れば、女性の香の香りが辺りを支配し始め、二人は思わず顔をしかめていた。

「夏侯惇様」

「おぅ、蕗か」

 顔馴染みの姫に声をかけられ、夏侯惇が足を止める。
 同様に足を止めた孫春は、つかまれていた腕をさり気なく外した。

「殿が、案内をするようにと」

「頼む。どこにいるのだ」

「私の部屋にございます」

「ほぅ……随分と真面目に話すつもりのようだな」

「それは、私に対する侮辱ととらえますわよ」

「そのようなつもりではない。蕗の部屋は、いつも机が並べられておるからな」

「これでも私、書を嗜んでおりますのよ。たとえ妾になろうとも、私は私でございます」

 そう言って、蕗が二人を案内するために、先を歩きだす。

 蕗が時折、夏侯惇と言葉を交わすことに、孫春はどこかしら不満を感じていた。
 それを、上殿はおろか、後宮などに入ったことのない緊張のせいと片付け、無言のまま後に続く。

「殿、夏侯将軍がお着きにございます」

 後宮の端、外庭に面した部屋で足を止めた蕗が、その場で平伏する。

「元譲、入るがよい。蕗は、しばらく孫春を連れて庭におれ」

「承知いたしました」

 夏侯惇が蕗の部屋の中に入り、孫春は彼女に促されるままに庭へと下りた。

 そのまま庭を横切り、自然の川を利用したため池のところで、蕗が足を止める。
 そこまで黙って彼女に従っていた孫春に、蕗が微笑んだ。

「何か、聞きたいことは?」

「何故、私が上殿を許されたのでしょう」

「ひょっとして、まぐわるとでも思っていたのかしら」

「多少は」

 そうでなくても、場所は曹操の後宮である。
 孫春でなくとも、後宮の意味と日常に行われていることぐらいはわかる。

 その孫春の考えを、蕗がその笑顔で打ち消した。

「随分と神経質でいらっしゃるわ、今の殿は。今回のことも、夏侯将軍と二人きりで話したかったからでしょう」

 曹操の意を汲み取っているとも感じられる蕗の口調に、孫春は無意識の内に眉をひそめていた。

 今の時代に、賢い女を欲しがるような男は稀である。
 稀であるからこそ物好きは賢い女を得ようとし、ずるい男は賢い女を利用する。

 主君が騙されているのではないだろうか。
 そんな孫春の考えに気付いた蕗が、柔和な微笑みを浮かべる。

「これでも私、豪族の娘よ。曹操様に差し出された人質。もっとも、帰る家もないけれど」

 答える言葉を見つけられないままの孫春に、蕗が一方的に話を続けていく。

「貴方も、多少は身分ある家の娘でしょう」

「私の父も、祖父も、一介の鍛冶です」

「噂の剣匠の姉でしょう、貴方は。曹操様が、後宮に入れ損ねたと嘆いていらっしゃったわ」

「私ごときでは、とても後宮など勤まりません」

「辛いわよね、好きになった人と離れるのは」

 蕗の唐突な言葉に、孫春は思わず肩を強張らせていた。
 その様子すらも楽しげに眺め、蕗がしゃがみ込み、池の水に手をつける。

 池の水を掬い取り、指の隙間からこぼれるままにさせる。
 手のひらの上にわずかに残った水をそのままにして、蕗がゆっくりと孫春を見上げる。

「人にすくえるのは、この手に残る僅かばかり。そう何人も愛せるものではないわ」

「何が仰りたいのですか」

「えぇ……何が言いたいのかしらね」

 手のひらを返し、手についた水を払う。
 丁寧に何度も手を払って、蕗がその手を孫春へと伸ばした。

「何度振り払っても、水は完璧にはなくならない。人の想いも、これと同じ」

 水気の残る手を孫春の頬に合わせ、蕗がにっこりと微笑んだ。

「貴方は、その水を手に取ってしまったのではなくて」

「……蕗様は、その水を拭い取られたのですか」

「無理やり、新しい水を汲まされた。それでも、その水はこの上なく魅力的よ」

「では、私もそのようにお答えしましょう」

 そう言った孫春に、蕗が楽しそうに笑う。

「やっぱり、貴方が後宮に来なくてよかったわ」

「私ごときでは、とても」

 先程と同じ言葉を繰り返そうとする孫春の言葉を遮るように、蕗が立ち上がる。
 思わず台詞を止めた孫春へ、蕗が歩み寄っていく。

「貴方のもつ力が羨ましい。本当、このまま絞め殺してやりたいくらいに」

 蕗の手が喉にかかり、孫春はすぐさま蕗の腕をつかんだ。
 しかし、か弱く折れそうな手に、孫春は力を入れることをためらった。

「細いでしょう、私の腕は。剣を持つことなんて、できないわ」

「はい」

「だから、曹操様の御無事を願うわ。神がお聞き届け下さるまで」

 蕗の手が、孫春の首を撫でるようにして離れていく。
 それにあわせて蕗の腕を離していた孫春は、戸惑いながら彼女を見つめていた。

「夏侯将軍のお気に入り、ね。羨ましいくらいに真っ直ぐだわ」

「一度は失った命。旦那様のための命と思っております」

「その奥にある気持ちに、早く気付くことね。それは、夏侯将軍にも言えることだけれど」

「……気付いたところで、私ごときでは釣り合いません」

「そうかしら。あの御方は、頑固すぎるほど頑固な御方よ。私たち、後宮の花をも路傍の石と同じに見るほどに」

「大殿の大願成就のためなら、鬼となられます。そして、私も」

 そのとき、曹操の大声が蕗の名を呼んだ。

 瞬時に反応して、声のする方へ駆けていく蕗を追いつつ、孫春は曹操の背後に立つ主の姿を探していた。
 それに気付いたとき、ようやく蕗の言葉の意味を悟る。

「……恋ではありません。旦那様は、旦那様です」

 そう呟いて、孫春は早足にならぬように気をつけながら蕗の後を追う。

 そう、夏侯惇のところに行くのではない。
 彼女を追っているのだと言い聞かせながら。

 

<了>