気付けばそこには愛がある


 

 この地方を統治する、新鋭の主君の凱旋。
 反旗を翻した一族の討伐という簡単な戦であったためか、凱旋軍に疲れの色はなかった。
 先頭を悠然と進む曹操の表情は明るく、民衆の歓喜の声に手を振るほどの余裕も見せていた。

「御無事そうね」

 街の中央通りに集まった民衆の一番奥からその様子を眺めていた孫春は、そう呟いて踵を返した。
 次々と集まってくる民衆の波に逆らう彼女の動きは、まったく逆行していることを悟らせない。
 見る者が見れば嘆息するほどの器用な身体の動きで、彼女は裏通りを駆けていく。

 

 人ごみを何事もないように駆け抜けていく彼女の名は、孫春。
 その名が示すとおり、春に生を受けた、やや細身の女性である。

 肩口を超える程度に伸ばされた髪は、彼女自身の手で綺麗にまとめられている。
 やや面長に感じるその顔は、一目見て三人は振り返るほどで、決して特徴あるものではない。
 しかし、その眼差しを受けた者は、時折身体を硬くする目と言う。

 孫という家名は、かつて仕えていた豪族から与えられたものだという。
 鍛冶として高い腕を持っていた父は、黄巾の乱に巻き込まれて死去。
 暴徒鎮圧のために駆けつけた夏候惇に助けられ、弟と共に下男下女として迎え入れられた。

 血の導きか、鍛冶として高い能力を発揮しはじめた弟が家人として召し上げられると、彼女もまた、それに倣った。
 今では一族郎党への指揮権も持つ、夏候惇家の留守居役も勤めるようになっている。

 

 

 

「今帰った」

「お帰りなさいませ、旦那様」

 出迎えに出た孫春を見た夏候惇の表情から、険が抜ける。
 戦場で彼を眼にした者が今の表情を見れば、同一人物かと疑うであろう。

「勝ったぞ」

「おめでとうございます」

「郎党どもに酒を配ってやってくれ。街中のものではなく、蔵から出してな」

「承知いたしました。すぐに手配いたします」

 ことの他機嫌が良いのであろう。
 普段ならば細々とした指示までは出さぬ夏候惇が、珍しく酒の手配までを指示する。
 そのことを微妙に感じ取った孫春は、すぐに下女を呼び、指示通りに酒を手配させた。

「秋芳はどうしておる」

「はい。先日から工房の方に篭っておりますが」

「そうか。では俺から出向こう。春、貴様も来い」

「はい」

 戦の汚れを落とすこともなく、夏候惇が孫春をつれて、屋敷内の工房へと向かう。
 彼の剣はこの工房で造られていることが多く、その出来の良さには曹操も褒美をとらせたほどである。

 その工房を一手に任されているのが、孫春の弟でもある秋芳であった。
 二人が工房に姿を見せたとき、工房は静かに炉の火を落としていた。

「秋芳」

「元譲様」

「此度の恩賞だ。貴様になら読めるだろうとな」

 そう告げて、夏候惇が一冊の書物を彼へ手渡す。
 押し頂いた彼は、パラパラと中を見て、眼を輝かせる。

「……明日より、とりかかります」

「しばらくは小競り合い程度の戦に過ぎぬ。次の大戦に間に合わせろ」

 夏候惇の言葉にただ頷き、秋芳が書物を大事そうに懐にしまい、工房から早足で自室へと急ぐ。
 その様子を見守っていた孫春は、主人が秋芳を目線で追う事をやめると、深々と頭を垂れた。

「申し訳ありません。まともに口をきけぬ弟で」

「かまわぬ。奴の腕はこの俺が認めている。それよりも、貴様はいつまでも使用人根性が抜けぬな」

「いえ。我ら姉弟、元より流浪の身を救っていただいた者。今の身分は過分にございます」

「家人がいつまでも使用人のようでは、周囲の者に示しがつかぬわ」

「……努力いたします」

 それ以上の反論は気分を損ねると感じたのか、孫春はそこまでで話を切り上げた。

 わずかに怒気をまとった夏候惇の足音が、彼女から遠ざかっていく。
 たまたま通りかかったのであろう下女が、夏候惇の指示を受けて慌てて走り出すのを、彼女は遠目に見詰めていた。

 下女の様子は、数年前の自分の姿と変わりがなかった。

「いけないわね。少しは慣れないと」

 主人の覚えがめでたい弟の恩恵ではあるが、今の時代、女性が兄弟の恩恵を受けることは少なくない。
 その逆もまた然りだが、孫春は己の容姿には自信がなかった。

 曹操の意向なのか、宮廷女官たちは皆、見目麗しく、華のある存在だった。
 長く曹操の側に仕えている夏候惇からみれば、孫春などは田舎の街娘に等しいだろう。

 そのような彼女が家人として昇格できたのだから、喜ばなければならない。
 しかし、素直に喜ぶことのできない、幸せに慣れていない彼女の心は、常に彼女自身を卑下していた。

「孫春様、近隣の村より、祝いの品が届いておりますが」

「わかりました。すぐに参ります」

 彼女を呼んだ別の下女にそう答え、孫春は玄関へ向かって駆けだした。
 途中で夏候惇の姿を見なかったところを見ると、既に彼は湯殿へと向かったらしい。

 玄関には既に数人の村長たちが姿を見せており、彼女ちともう一人の家人の姿を見ると、揃って平伏した。
 その中で一番年長の男が、平伏したまま口上を述べる。

「此度の戦も一番槍、一番手柄、おめでとうございまする」

「皆の忠勤のおかげです。これからも、よろしく頼みます」

「祝いの品を献上に上がりました。どうぞ、お納めくださいませ」

「これは大儀。後で夏候将軍に必ずお伝えしましょう」

「ありがとうございます」

 同席した家人の一人が村長たちに退席を促し、孫春は手早く献上品をチェックする。
 村長を送り出した下男が戻ってくると、孫春に献上品のリストを提示する。

「孫春様、このような品々でございます」

「ありがとう。足の速いものだけ、今宵の宴に出しましょう」

「では、その仕度をさせましょう。孫春様は殿のところへ」

「では、御報告に参ります」

 厨房へ向かう下男と別れ、孫春は夏候惇の私室へと赴いた。
 平服に着替えていた夏候惇が迎え入れると、孫春はすぐに献上品のリストを手渡した。

「村長からの献上品にございます」

「変わらずだな」

「はい。足の速いものは今宵の宴に出すように指示をしておきましたが」

「任せる。それよりも春、貴様に話がある」

「はい、何でございましょう」

 孫春が姿勢を正すと、夏候惇は自ら立ち上がり、部屋の周囲に人がいないかを確認した。
 誰もいないことを確認し終えると、今度は部屋の隅へと孫春を誘う。

「実はな……貴様を後宮へ入れよとの孟徳からの誘いがあった」

「私を後宮へですか」

 あまりのことに、孫春は眼を瞬かせた。
 世の女性にとってみれば願ってもない幸運ではあるが、孫春は反射的に首を左右に振っていた。

「で、できません。そのようなこと」

 彼女の反応に満足したのか、夏候惇の口許がわずかに笑っていた。

「だろうな」

「で、では、お断りしていただけたのですか」

「あぁ。するとな、孟徳の奴、こうほざきおったわ。”一人では心細かろう。どうだ、弟もつけて寄越しては”とな」

 そう言うと、夏候惇は口を開けて笑い出した。
 一頻り笑った後で、彼独特の含み笑いで孫春を見詰める。

「奴の狙いは秋芳。貴様の弟だ」

「では、私の代わりに秋芳を……」

「出さぬ」

 あっさりと否定した主人に、孫春がホッと胸を撫で下ろす。
 その彼女の胸に当てられていた腕へ、夏候惇がさり気なく腕を伸ばした。

 彼女の腕をつかみ、夏候惇がわずかにその腕を引き寄せる。
 しかし、手繰り寄せようとした孫春の腕は、彼の予想以上の力で持って阻まれていた。

「な、何を」

「その腕、錆びさせるわけにもいかぬな」

「お戯れを……」

「あの乱戦の中、弟を守りきった貴様の腕とあの眼差し、使わぬ手はない」

 夏候惇が腕を放すと、孫春はつかまれていた腕をかき抱いた。

「次の戦より、戦場に出ろ。さすがの孟徳も、戦に出る武将に手は出すまい」

「で、ですが、私には兵法もわかりません。それに、私は……」

「俺一人守れる腕はあろう。もっとも、貴様に守られる俺ではないがな」

「旦那様」

「俺は貴様を弟の付属物とは見ぬ。貴様の本当の力を俺に示せ。武人としての貴様の腕をな」

 そう言って、夏候惇が立ち上がった。
 落ち着きを取り戻した孫春の耳に、駆けてくる下男の足音が聞こえてくる。

「殿、夏候淵将軍がお見えになりましたッ」

「わかった。広間で待たせておけ」

「はいッ」

 再び来た道を駆け戻る下男を見送り、夏候惇が未だに座りこんでいる孫春へと視線を移す。

「それとも何か。貴様は一生、弟の付属物で終わるつもりか」

 幾分、挑発気味な主人の言葉に、孫春は意を決して立ち上がる。
 そして、右拳で左手を叩き、そのままの状態で両腕を主人に向かって捧げた。

「この孫春、今をもって夏候惇様の刃となりましょう」

「それでいい。貴様の本性、存分に見せてみろ」

「ありがとうございます」

 視線を上げた孫春の瞳の光に、夏候惇は懐かしさを感じていた。
 幼少の弟を守るために、近寄る全ての者に刃を突き立てていた手負いの獣が放っていた光。

 かつて惹き付けられたその光を求めていた夏候惇は、久しぶりに見た光の強さに、喉の奥でクックッと笑った。

「行くぞ。淵が待っておるわ」

「はい」

 

 

 

 時は戦国乱世。
 数多の豪傑や英雄が覇を競い、弱肉強食のこの時代。
 魏を支える猛将の許に、また一人、獣の光を秘めた武将が身を寄せた。

 孫春。字は春華。
 夏候惇に認められた武が各国武将の目に止まるのは、もうしばらく後のことであった。

 

<了>