煙草と酒と若者と
この店の扉を開ける人間は、大きく分けて二通り。
喧騒を避け、逃げ場を求めてやってくる人間。
そして、道に迷い、気がつけば扉の前に立っていた人間。「……グレースなら、上だよ」
客商売の人間なら、入ってきた少女が一目で未成年だとわかる。
無理はしていない程度の大人っぽい服装だが、髪の艶と視線が違う。「ここは、ノース・ウィンドですか」
「あぁ」
少女がコートの中の手を動かしていた。
どうやら、この店のマッチを持っているようだ。「待ち合わせかい」
「……多分」
店の中を見まわした少女が、カウンターに腰を下ろす。
「何か飲むかい」
未成年相手だが、俺は興味を引かれていた。
カウンターに座った後の仕草が、常連客に似ていたのだ。「……飲まなくてもいいの」
少女の質問に、俺は肩をすくめて見せた。
「別に、頼まなきゃいけない決まりはないさ」
「じゃあ、後でいい」
「はいよ」
グラスを渡すつもりはなかった。
お冷を渡すこともできるが、必要がないように見えたからだ。俺は少女の前から離れると、新しい煙草に火をつけた。
立ち上がった煙草の煙に、少女の視線が動くのを感じた。声をかけるきっかけにはなる。
だが、ウチは児童相談所じゃない。「……その煙草、オジサンの」
「あぁ」
「その匂い、知ってる」
「悪いが、客は禁煙でね」
見え見えの嘘だ。
少女の目がよければ、カウンターの灰皿の灰に気付くだろう。「吸わない」
どうやら、喫煙の習慣はないようだ。
紫煙を追う視線は、まだ煙の動きに慣れていない。「本当に、お客さんは煙草を吸えないの」
「いや、女性は禁煙なんだ。俺の趣味でね」
「変なの」
今時の少女は、あまり長い会話に慣れていないらしい。
会話を終わらせた少女の視線が、カウンターの上を走る。「メニューはないぞ」
「店じゃないの」
「こういう店に、メニューはないの」
「知らなかった」
「勉強が終わったら、家に帰りな」
少なくとも新宿が似合っても、くすんだ空気に染まっていない。
この店に来る人間にしちゃ、随分と奇麗なからだのようだ。「勉強は嫌い」
そして、あまりひねくれてもいないようだ。
言葉を素直に受け取る人間なんて、出来の良過ぎる後輩くらいだ。「何が飲みたい」
「……トマトジュース」
「フレッシュじゃなくていいな」
「フレッシュって」
「生のトマトが入っているのを、フレッシュというの」
「生のじゃなくていい」
「はいよ」
冷蔵庫からトマトジュースを取り出す。
氷も入れず、単純にグラスに注ぐ。「はい、トマトジュース」
「いくら」
「百五十円」
「普通ね」
「特別価格だ」
「普段ならいくら」
「二百円」
「安いの」
「さぁね」
店値なら五百円だよ、お嬢ちゃん。
新宿のBARで飲むのなら、平均的な価格だ。「先に払う」
「好きにしな」
カウンターに、百円玉が二枚置かれた。
取り出した財布は、予想以上に使い込まれている。
新宿で徘徊している不良娘のものとは違う。もちろん、お子様でもないが。
「……フレッシュでないなら、この味なの」
グラスを傾けていた少女が、こちらを向いた。
「そうだ」
「家のと同じ味。でも、友達の家のと違う」
「そりゃ、偶然だな」
今の一瞬でわかった。
少女の母親が誰なのか。
この店に来た理由は知らないが。「どうして。新宿の店だけで売ってるの」
「いや、今はどこにでも売ってる。そこの酒屋でもな」
「クラマトだ」
少女の言葉に、俺はビンをカウンターの上に置いた。
「正解」
「美味しい、これ」
「そうかい」
慶子の娘だろう。
驚きに顔を上げたときの表情がそっくりだ。しばらく沈黙が流れ、俺はグラスを拭き始めた。
さほど多くない客に合わせて、最小限のグラス数しか置いていない。
真面目に拭き始めれば、次の客が扉を開けるまでに何週もすることになるだろう。「オジサン……北方さんでしょ」
「お嬢ちゃん、こういう場所で名乗る名前に意味はないんだよ」
「北方さんでしょ」
随分と頑固なお嬢ちゃんだ。
溜と一緒にいるお嬢ちゃんといい、最近は頑固なお嬢ちゃんが増えているらしい。「違うといったら」
「別にいい」
これ幸いに否定しようとした矢先に、少女が次の言葉を重ねてくる。
「気にしないで話すから」
「……そうかい」
やれやれ。
二週目のグラス磨きにかかりながら、少女の前に立つ。「中学を出て働くって言ったら、泣かれた」
「そうかい」
「お母さんが苦労してるのは知ってる。だから、少しでも早く働きたいの」
「まぁ、よくある話だこと」
からかうつもりはないが、真剣に聞くつもりもない。
俺の応対は、少女にとって予想の範疇だったのだろう。
不機嫌な空気は隠せていないが、まだ我慢できるようだ。「オジサンは、どう思うの」
「よくある話だねぇ」
「どっちが正しいと思うの」
「さぁね」
磨き終わったグラスを片付けようと、背中を向ける。
そのまま振り向かないでいたいという気持ちは、少女に読まれていた。「右のグラス、まだ磨いてないよ」
「……そりゃ、どうも」
少女に言われた隣のグラスを手に、背中を返す。
見下ろす少女の目は、白けるには真剣すぎた。「オジサンが何を言ってもいいのかね」
「オジサンなら、いい」
「そうかい」
グラスを置いて、間を取るために煙草に火をつける。
紫煙を吸い込まずに、煙のカーテンを作るためだ。「お嬢ちゃんの人生だ。お嬢ちゃんがいきたいように生きればいい」
「それって、無責任じゃないの」
「他人に生き方を聞くほうが、自分に無責任だと思わないかい」
俺の言葉に、少女が視線を伏せた。
なかなかに聡い子だな。「帰って、母親と相談するんだな」
「まだ、帰ってこないよ」
「そうかい」
「ここに来るはずだから、待っててもいいでしょ」
そっちかい、本当の目的は。
だが、ここはBARだ。
児童相談所じゃないんだよ。「お嬢ちゃん、ここはBARだ」
「はい」
「家族会議は、BARでするもんじゃない」
「でも」
扉が開き、新しい客が入ってきた。
不定期に見かける顔だが、印象には残る客だ。「一杯、いいかい」
「あいよ」
少女を一瞥して、客が端の椅子に腰を下ろす。
「ラムで、温かいのを」
「バターは」
「入れて」
相変わらず、珍しいのを飲みたがる客だ。
一人で寂しい時に、この客はこの店に来る。
そして、目当てのカクテルと一杯だけ戯れる。「今日さ、人事異動があったんだよ」
「転勤か」
「それだと、この店に来辛くなるなぁ」
「どうせ、一杯しか飲まないだろうが」
「でも、北方さんは面白いカクテルもたくさん作ってくれるし」
「今は便利なんだろ、インターネットとか」
「そう。でも、写真見たって美味しいかどうかはわからないだろ」
そう言って笑う客を、少女が見ていた。
視線を感じたのか、客が少女に向かって首をかしげた。「北方さんの娘さんにしては、大きいね」
「今日の一番客だ」
「店、間違えたの」
客の言葉に、思わず笑ってしまう。
そら、少女に相応しい店じゃないからな。「北方さんに、相談があったんです」
「ダメだよ、この人は」
「どうしてですか」
「ここはBARだから」
客はそう言って、口許で人差し指を立てた。
「ほら、ホット・ラム」
「いいにおいだ」
『素人は素人らしく』が、客の謳い文句らしい。
クンクンと鼻を鳴らす客を見て、少女が立ち上がる。「また、来ます」
「悪いけど、親子喧嘩は他所でやってくれ」
「いえ、北方さんを味方につけたいんです」
「じゃあ、お嬢ちゃんに忠告だ」
俺の言葉に、少女が帰ろうとしていた足を止める。
「ここはBARだ。まだ、お嬢ちゃんには見せられないものがある」
「見てはダメなの」
「覚悟とかとは違う。まだ、見なくていいものなんだ」
「……わかりました」
扉の前で足を止めた少女が、こちらを振り返った。
「五年後、また来ます」
「好きにしなよ」
少女が出て行った後で、客がグラスを置いた。
「ごちそうさま」
「あいよ」
「あの子、あの女の人の娘さんだね」
「さぁ、どうだろうな」
「お父さんがいない子だとわかるよ」
「職業病だな、アンタも」
「そこはお互い様でしょ」
グラスを流しに置いて、水を流す。
「置いとくよ」
「客が勝手に値段を決めるなよ」
「それじゃ、あの子の分も含めて。これでまけといてよ」
「それじゃ、仕方ねぇ」
客が出て行くと、また一人に戻る。
「慶子ちゃんには、クギ刺しとかないとな」
野戦病院とは名ばかりの、託児所になっちゃかなわねぇ。
ただでさえ、出来の悪い後輩が来るんだからな。
<了>