愛しい人


「―――お疲れ様。休んで結構です」

 侍従を下がらせ、一人執務室に残ったロスメスタは、凝った背筋を強引に伸ばした。
 軽い衝撃の後になる音は、心地よい快感となってロスメスタを微笑ませた。

 かつて、世界を覆った「大いなる災い」の際、世界を仲間とともに救った王女は、国務に追われる今も、
健やかな健康美を保っている。

「さて、明日にはオルジェイも帰ってくるか」

 動乱が終結し、多くの困難を抱えている国教の総本山、太陽神殿の長には、動乱の最中にロスメスタの
前王によって解任された、オルジェイが復職していた。

 そのオルジェイは新しい部下と共に、崩壊した神殿の威光と組織を立て直すための巡回に出ていた。
 その彼も、明日、巡回を終えてこの王都に帰ってくる予定であった。

「次は、私が旅に出る番だ」

 ロスメスタは少し考え込んだ後に、誰もいない執務室の扉に向かって口を開いた。

「オルジェイとかけて、亀の甲と解く。その心は、叩いても割れぬ」

 少しの沈黙の後、ロスメスタは満足げに頷いた。
 彼女の、旅の仲間全員に「ヘタクソ」と言われた謎解き癖は、まだ治っていないようだった。

 


 私の母の死去は、私の周囲を、この国を一変させた。

 実際、私は王位継承権などはどうでもよかったのだ。興味すら湧かなかった。

 そう、苦労してでもいい。ただの市井として、市街で暮らしてもよかったのだ。

 

 しかし、ある男は、私が想う男は、それを許してはくれなかった。

 その時、私は一緒に来るように頼んだ。

 男は難色を示した。男が「厄災」の元凶であり、それに乗じて人間を傷つけた魔族であることが、
新王となる私の枷になるからと。

「バカを申すな。お前が魔族だからとて、お前は私とともに厄災を退けたではないか」

「バカではない。貴様が思っているほど、民衆は甘くはない」

「……あの時、私を守ってくれると言ったのは、嘘なのか?」

「何かあれば、助力は惜しまない。貴様は、今、喪失感に迷っているだけだ」

 男は決して私の目を見ようとはしなかった。

「本来の貴様は、俺なんかよりもずっと強い」

「違う! 私は無力なのだ。私に何ができた? 厄災を退けたのはお前であり、お前の親友だ」

 感情が暴発してゆくのを、抑え切れなかった。

「貴様は不甲斐なさを感じることができた。最後まで生き続けた。母親を殺され、重臣が殺され、愛した国民が
 死にゆく中、虚無に流されることなく、心を保ち続けた」

「私は何もしなかったのだ」

「貴様はいるだけでよかった」

「……お前も、私は飾りだと言うのか?」

 涙がこぼれていた。

 私の感情は、この男の前では垂れ流しになる。

 男が、私の涙を拭う。

「泣くな」

「私だって、泣きたい時はある」

「貴様はいるだけで、戦い続けていた。並みの人間なら、崩れていただろう」

「……止めろ」

「貴様は、今を見失うような人間じゃない」

「止めてくれ」

「……俺は、慰めが下手だ」

「私の感情を止めてくれ」

 男が、こわごわと私の体を抱いた。

 抑え切れない感情が、声となり、涙となり、しがみつく力となって垂れ流されつづけた。


 新調した市井の服に着替え、ロスメスタは王宮を脱出した。

「ふむ。やはり孤児院の子供のいうことは確かだったか」

 ロスメスタは孤児院へ慰問したさい、子供から簡単な脱出法を教わっていた。

「まさか、服を変え、髪型を変え、足取りを変えるだけで誰にも気付かれないとはな」

 ロスメスタを見咎める者はなく、ロスメスタは裏通りを突き進む。
 一軒の古びた道場の門をくぐったロスメスタは、玄関の前で息を整えた。

 無言の気合が渦巻いている、道場の扉を開いた。

「約束だ。私を助けろ」

「……何だ?」

「少し厄介な問題が起きてな。旅の共を頼みに来た」

「その割には、気楽な服装だな」

 男が呆れたように、気合を解く。

 ロスメスタが、愛しい男の前に立つ。

「時間がないのだ」

「オルジェイはどうした?」

 ロスメスタが男の一瞬のスキをつき、肩を掴んだ。

「パジャ、相変わらず野暮なヤツだな」

「……俺には一生、貴様を理解できそうにない」

「なら、一生かかって理解しろ」

 ロスメスタの笑顔が、パジャの困惑顔に華を添えた。

 

 

 厄災を救った伝説的王女の心を射止めた、厄災の元凶の魔族の男。

 男の苦労性は、一生かかっても治りそうにはない。

 

 

「駆け落ちとかけて、伝説の王女と解く。その心は、面倒なことこの上なし」

「おっ、できるようになったではないか、パジャ」

「貴様のことだ」

「ふむ。これから、私の素晴らしい謎解きをたくさん聞かせてやろう!」

 パジャの嘆きは、新王の心のオアシスなのかもしれない。

 

<了>