+ 薩摩隼人 + |
〜島津氏の生きた激動〜
時あたかも戦国の世、九州の南、辺境の土地にその一族はいた。
鎌倉時代から薩摩の守護を務めた、武家の名門島津氏である。島津氏の成り立ちがどういったものか詳しいことは分からない。だが、現在も続いているという中では、恐らく薩州島津氏ほど古い家柄もないだろう。
薩州島津氏の祖は、源頼朝の落胤という伝説もあるらしいが、あくまでそれは伝説である。
近衛氏の下司であったという説がもっぱらのようであるから、元は京都にいて守護に任命されたことで下向していったのかも知れない。
ともかくも、島津氏はいつの頃からか九州南端の薩摩の地に落ち着いた。薩摩とは、現在の鹿児島県の西部にあたる。
鹿児島と聞いて、何を思い起こすだろうか。私ならまず、桜島を思い起こす。
桜島は火山島で、大正年間に一度大きく噴火している。度重なる噴火で、中央が隆起し桜島という島しょうを形成した。今でも噴煙を吐き上げる活火山である。
ある鬱屈を天空に向けてぶち上げる。その様は、あたかも薩摩隼人と重なって見える(これは想像)。その満たされない思いを、薩摩の領主となりやがて九州全土をほぼ平定することになる島津氏も、抱いていたのだろうか。
16代当主の島津義久は、父貴久の後を継いだ戦国大名であった。貴久以前はまだまとまりがなかった薩摩領内は、貴久の頃にある程度安定したようである。
貴久には嫡男・義久のほかに、次男・義弘、三男・歳久、四男・家久がいた。義弘は後に17代の当主になる。この兄弟の間に、戦国期しばしば見られる家督争いなどがなかったことは、特筆すべきことだろう。特に四兄弟の中でも、次男・義弘は義久をよく補佐し、稀代の名将といわれ戦神と恐れられた。
戦場での武勲は、弟の方が何枚か上であった。
大隈の肝付を平定した島津軍は、日向へと兵を送り込んだ。強悍と恐れられた薩摩隼人の島津軍を相手に、日向に覇を唱えていたさすがの伊東も破れてしまう。
島津一門、その他外城・内城地頭諸々の結束力の元に成しえたことであった。しかしながら、九州にはまだ豊後の大友をはじめ筑前の高橋、肥前の龍造寺、肥後の相良、と気を緩める隙はない。
攻め込まれる前に攻める。攻撃こそ最大の防御である。やがて島津軍は、豊後大友を除く九州大半を制覇するに至った。この状況に際し、さすがに独力では打開困難と見た大友は、豊臣秀吉に恭順して救援を頼んだ。
秀吉は自身が天下を統一する上で、九州島津の侵略を見て見ぬふりはできない。たちまち島津は窮地に立たされた。秀吉が島津征討の兵を挙げたのである。
これに挑んだ島津軍は、総勢5万で迎え撃つ。南九州の領国から兵を総動員し、筑後・豊後に攻撃を仕掛け徹底抗戦の構えを見せた。
だが、秀吉の圧倒的な物量の前に、さすがの島津軍も大敗を喫す。当主義久は戦後処理を滞りなくおこない、本領の薩摩と大隈は安堵された。
今ここまで書き連ねたのは、よく知られている島津氏の歴史のほんの一部分である。これだけでは、ただの戦国大名に思えるかも知れない。しかし戦国の世を、ただ保身のために生き抜いてきたとは考えない。実際の島津氏は、多分に奇異な面をみせている。
小田原征討で北条氏を降した秀吉は、ついに主君織田信長さえ成しえなかった天下布武を果たしたのである。天下統一はなし得たものの、しかし新たな問題が浮上してきた。戦後不況の心配である。どうしたらこれを回避できるのか、秀吉が打ち出した答えこそ、あの悪名高き朝鮮出兵であった。慶長・文禄と続く海外遠征である。
ここで述べねばならぬことは、朝鮮出兵の目的として戦後不況は、あくまでも仮説の中のひとつであるということである。秀吉が、何故朝鮮出兵を考えたのかは未だになぞが多い。日本至上最も出世した男・天下人秀吉の晩年は、奇異な行動が余りに多い。
この朝鮮出兵に、島津氏はかりだされた。義久は国許を、義弘は嫡男・久保を伴い朝鮮に渡った。だが義弘は、−戦後不況の回避ということを予見していたとしても−この朝鮮出兵の意義というものを、いかほど感じることができたであろうか。結果からいえば、この朝鮮出兵が元で、豊臣政権内の文治派と武断派の亀裂が絶望的なものになってしまうのだから。
それなのに、島津義弘という男は国内の兄・義久宛に「日本一の大遅参なり」と書いた書状を送っているのである。自身に何の益もないような戦いでも、美徳を忘れない。
対する秀吉恩顧の加藤、福島らはこの出兵に嫌気がさして、豊臣政権を見限ったのではなかったか。この差は一体なんなのか。
薩軍の戦いぶりは、朝鮮を畏怖させた。泗川の戦いである。朝鮮攻略の拠点として築いた泗川新城に、明軍20万の軍兵に城を包囲されてしまう。義弘は冷静に敵を引き付けて反撃に転じ、混乱した明軍の隙を突くことに成功する。混乱した明軍に、火薬庫爆発の惨事が重なり明軍は撤退する。
これ以後、島津の名前は朝鮮・明国側に轟き、石曼津(シーマンズ)と呼ばれ恐れられた。
そんな折も折、秀吉逝去の報が入り、退却を余儀なくされる。義弘は水軍を率い小西行長を救出、朝鮮の名将・李舜臣と交戦し、これを退け日本軍の退路をなんとか見出すに至った。
帰国を果たした義弘は、紀州高野山に敵味方供養塔を建立し、文字通り敵味方の区分なく厚く弔った。関ヶ原の合戦で、勝利した東軍総大将の徳川家康は、西軍の石田三成を七条河原で斬首した。後に江戸幕府は、三成を奸臣、佞臣と侮蔑の対象とした。最近ようやく見直されてきた三成だが、その業績はいうまでもなく、その人格に至るまで、長い間不当な名誉毀損にさらされてきたのは疑えない。
「青年よ、大志を抱け」で有名なクラーク博士は、関ヶ原の布陣図を一見して西軍の勝利といったというが、実際三成を勝ち目のない戦にあえて挑んだ愚か者と評するのは、根本的に間違っている。それにしても、この違い(島津と徳川の)は何なのだろうか。
16代当主の島津義久は和歌、連歌に長じており教養の高い人物として評価が高かった。また次男・義弘も茶道を好み、戦陣でもよく茶を立てたという。千利休の弟子であり、茶道の奥義を極めたともいわれている。島津義弘の直属家老・長寿院盛淳は、幼少時に紀州高野山の根来寺で山岳修行をしたという。
そのつてから、秀吉政権下で疎んじられていた紀州根来寺を、島津氏は全面的に庇護し全国各所を渡り歩く山伏から必要な情報を得ていた。本国が政権の中心である畿内から辺境であったためであろう。
島津氏は武家でありながら風流を忘れることがなく、神仏に対しては崇敬すること厚く、私心を去り礼儀を知わきまえ、領民に対しては寛容で、戦場では勇敢であった。
それにしても、戦国時代から安土桃山、関ヶ原と薩摩の島津氏がどれだけ歴史に彩りを添えたことか。あでやかという他ない。
後に、関ヶ原で島津軍は西軍に属したが、家康の本陣を横切って帰還し戦国の終焉にふさわしい気骨を示した。この一大退却劇では、四男・家久の嫡男豊久、長寿院盛淳らが戦死を遂げている。その後、領国の軍備を拡充して家康に謝罪を繰り返し、西軍に属した大名としては異例の所領安堵のさやに収まった。
それから凡そ260年後、薩摩藩が明治維新の原動力となりえたのは、戦国島津氏の精神を脈脈と受け継いでいたからであろう。
武家でありながら文化的で風流を忘れなかった一族が、辺境の南九州に鎌倉時代から延々と存在していたことは大きな発見であった。決して武一辺倒ではない武家・島津氏の処世に学ぶべきことは多い。
〔完〕
〜 後書き 〜
いつも本文より前書きや後書きが長くなってしまうのを、ここの管理人によく指摘されるので、その点を考慮し今回は前書きなしという形にしました。まあ、余力があれば引き続き読んでいただきたいと思う。
いま何故、島津氏を取り上げようとしたのか。実をいうと偶然行き着いた末のことなのだが、真に重要な示唆を教示しているように思えてならない。
近頃妙に思い悩むことがある。何を思い悩むかといえば、つまり新しい事物が必ずしも良いものとは限らないという確信に近いものを持っているのだが、さりとて新しいものばかり血眼になって追い求める人の姿を、よく見かける気がするのである。新しい音楽、洋服、食い物、スポーツ。新しいものは次から次へと現れてくる。本当に驚くような早さである。
書き手はどちらかというと、その時代の流れから一線隔たった場所に落ち着いている人間であると思われる。もう何年も前から、そんな気がしている。時代の流れが仮に主流だとしても、あえてそれに同調しようとはしてこなかった。理由は、前述した信念を保持しているからである。それは、今後も変わることはないであろう。
ここでいう新しいものとは、何も新しい商品のみをいうのではない。むしろ書き手がついていけないのは、もっと別のところのものである。新しいもの、その最たるものは時流である。この時流には、風潮、思想、方向、流行などが含まれるだろう。時流はやがて主流となる。時流から、新しいものはつくられる。
・・・今の時流・・・それは何であろうか。とても、一言ではいえない。しかし、私は思う。時代は難局を極めている。かつてないほど、時勢は混乱の様相を呈している。そんな中、志ある者が現れない・・・。この文章を書いている今も、政治は混迷を極めている。なにやら大きな動きがあったようだ。時代の流れと呼応するように、政治も暗雲が立ち込めそこはかとしない。何もかも、うやむやのうちに真相は闇に葬られる。従うも何もあるか。
今の時流が混乱しているのではない。混乱こそが、今の時流そのものなのである。それは何故か、筋が通っていないからである。あらゆることに今、筋が通されていない。国家の姿勢も伝わってこない。必然、時流の源となる人間個人は軽薄である。
考えることといえば、自身の利益、安全、保身。まあ、こんなご時世ある程度やむをえない。だが風潮、思想、方向、流行すべてに今中身がないのは明白なことである。自身が立つほかない。
近視眼的な国のトップは、当面の生活を良くしようというだけで、その先を見据えてはいまい。経済成長しか念頭にない。株価とGDPの伸び率と失業率が、一番の関心事なのである。
だが、日本が高度成長期を迎えたのは、とうの昔の話である。これからも昔同様の経済成長に奔走しようというのか。新しいものは作られるが、もはや新しいものだけではこの時勢を乗り切れない。いや、この期に及んで新しいものは不必要だろう。
むしろ新しい人間こそが、今必要なのではないか。そしてそれは同時に古い人間ということである。
ある意味で我々は、不遇なのかも知れない。例えば、桜島の噴煙を日本の南の果てから日々眺め育ったならば、その満たされない思いから、もう少し健全であったかもしれない。故郷を失った日本人は、その心底にあるべきはずの精神の根源である自然の記憶がない。
いつか鹿児島を訪れて、桜島を望みたいと思う今日この頃である。
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