R計画第25弾 「き」
作成者:小田原峻祐

 

金木犀


 

 夏休みも体育祭も終わり、僕たち中学三年生には重い現実が忍び寄ってきた。

 否定したくてもしきれない重圧は、日々の様々なところで顔をのぞかせる。

 窓の外に浮かんでいる雲でさえ、その発生のさせ方はどうだったかと考えてしまうほどだ。

「僚……外に何かあるのか」

「いいや。雲を発生させるには、何が必要だったかなって」

「線香の煙だろ」

 目の前にいる友人も、受験に追い込まれている一人だろう。

 雲を発生させるために必要なものが線香の煙だなんて、相当に病んでいる証拠だ。

「氷の粒だって」

「フラスコの中に氷の粒なんて入れられるのかよ」

「誰が理科の実験の話をしてるんだよ」

 僕がそう言うと、友人は目を瞬かせた。

 そして大きく息を吐くと、僕の前の席にドカッと腰を下ろした。

「余裕でございますなぁ、僚殿は」

「バカ言うなって。そんな実験の知識が、何の役に立つっていうのさ」

「少なくとも、就職するまでは役に立つ知識だろ」

 嫌な話だなぁ。

 中学生なのに、就職まで考えなくちゃいけないなんて。

「そういうもんかな」

 僕は窓から視線を外すと、ぼんやりと教室の時計を見上げた。

 あと五分もすれば、いつものように先生が来て、退屈な数学の授業が始まる。

「そういえば、僚、次の土曜日って空いてるか」

「特に用事はない」

 脳裏に塾の予定表を浮かべて、夕方にある土曜特訓の時間割を消しゴムで消す。

「クラスでこの間の体育祭の打ち上げと、文化祭へ向けての打ち合わせするんだけど、来ないか」

「打ち上げね……どっか行くのか」

「わかんね。今のところ、ボーリングでも行こうかって話らしいぜ」

 こういう時、クラスの中心にいる友人は、必ず僕にも声をかけてくれる。

 人付き合いが上手くない僕がクラスで浮いていないのも、この友人のおかげだろうな。

「まぁ、時間が合えば参加で」

「参加だな。遅れんなよ」

「そう思うなら、駆ちゃんが迎えに来てよ」

「無茶言うなよ。オレ、幹事だから、先に行ってなきゃならないんだぞ」

「それも面倒だなぁ」

 一緒に行って待つっていうのも、何か張り切ってるみたいで嫌だしねぇ。

 どこかでブラブラしながら、遅れないように集合場所に行くって感じかな。

「それじゃ、オレの代わりに誰かと一緒に来いよ」

「近所のクラスメートなんて……そういえば、葛城は来るのか」

「あぁ、あいつなら来るんじゃないかな。美沙紀が誘うって言ってたからな」

 あの人に誘われたら、どんな奴でも来るだろうな。

 学校内でも有名なお人好しでお節介な人だからな、美沙紀さんは。

「お、何よ。葛城が来なきゃ、僕も行かないってか」

 駆ちゃんがニヤリと笑った。

 こういう時の友人は、まことに面倒だ。

「そうじゃないけど。葛城が来たら、全員集合って感じじゃない」

「まぁ、実際、そうなんだけどな」

「なら、僕も行かないとね」

 いつもより少し早く、数学の先生がやってくる。

 まだ若い先生で、ノート量が多くて大変だ。

 やることやれば、早く終わってはくれるんだけど。

「うわ、もう来たのかよ」

「移動したほうがいいんじゃない」

「んじゃ、時間は後でメールするからな」

 そう言って数学の用意を持って出て行く友人を見送って、僕は数学のノートを用意する。

 この数学のノートに落書きされた、葛城の後姿。

 いつも髪を後ろで一本にまとめていて、その先が少しほつれているようにふくらんでいる。

 その姿が何ともスケッチに具合がよくて、暇な時はノートの隅に走り書きしているのだ。

「きりーつ」

 細枠で度の強い眼鏡をかけているからか、真面目そうで、影の薄い印象は否めない。

 そういえば、正面から葛城の顔を見たことってなかったな。

「楠木、立てよー」

「あ、はい」

 いつの間にか号令がかかっていて、前にいる葛城も、僕を振り返っていた。

 久しぶりに見たその顔は、いつもより少し白いような気がした。

「始めます、礼」

「お願いします」

 いつものように、少し変な始まり方で授業が始まり、僕はノートを広げた。

 とにかくしゃべるか書くかの先生で、ひたすらにノート量が多い。

 先生は一日一ページとか言ってるけど、問題数が多くて、とてもじゃないけどおさまらない。

「……代入する、計算する。それだけやからな!」

 先生の解説が繰り返しになってきた。

 ここは気を抜いてもいい時間だ。

 黒板が埋め尽くされて、ここからはプリントをするだけだ。

 少しホッとして、前にいる葛城へ視線を向ける。

「ここ、発展な」

 塾で教えてくれるやり方を、葛城は真剣にノートに写していた。

 塾に行っているという噂を聞かないから、ひょっとしたら勉強するのは学校だけなのかもしれない。

「んじゃ、プリント配るぞ」

 適当にプリントの問題をこなして、宿題を潰す。

 宿題を学校の余り時間にやってしまえば、家で勉強をしなくても済むし。

 問題の合間にふと息を吐くと、窓から香ってきたのか、甘い匂いが鼻をくすぐってきた。

 視線を窓の外へ向けると、遠目にオレンジの花が咲いていた。

「キンモクセイか」

 こうして仄かに香る程度なら、いつまでだって身を委ねられる匂いだ。

 家の近所にある神社のキンモクセイはまだ咲いていなかったから、今年最初のキンモクセイ。

 知らぬ間に目を閉じていた僕は、先生から教科書のチョップを食らっていた。

「おーい、起きろよ」

「あ、はい」

 教室の中から、クスクスという笑い声が聞こえた。

 僕は首を竦めて、先生が立ち去るのを待って、再び視線を窓の外へ向けた。

「アンニュイなのか、楠木は」

 先生の呟きが聞こえてすぐ、チャイムが鳴った。

「んじゃ、終わりな。お疲れさん」

 先生が教室を去り、喧騒が教室内に戻ってくる。

 僕は窓際へ身体を寄せると、身体を窓枠に預けて目を閉じた。

 

 


 

 

「僚、お迎えが来てるわよ〜」

 妙に楽しそうな母さんの声に叩き起こされて、僕は寝ていた姿のままで一階へと下りた。

 朝食は食べるつもりはなかったのだが、ドーナツが二切れ、皿に盛られていた。

「アンタ、そんな格好で出掛けるつもりなの」

「ん、あぁ、着替えるけど」

「なら、そんなの食べてないで、さっさと着替えておいで。女の子、待たせちゃ悪いわよ」

「へいへい」

 ん……駆ちゃん、女装でもしてきたのかね。

 女の子って言ってたよな、母さん。

「ふぁ……ねむ」

 昨日のうちに準備しておいた服に着替えて、朝の準備を済ます。

 さっぱりした俺が洗面所から勝手口をのぞくと、母さんが誰か知らない女の子と話していた。

「おはよう、母さん」

「あぁ、遅いじゃないの。ごめんなさいね、待たせちゃって」

「いえ、お気になさらず。楠木君、行こうか」

「あぁ」

 ……誰だ?

「時間はまだあるけど、歩いて行くから時間がかかるでしょう」

「いや、そうだけど」

 母さんがいる手前、誰かとは尋ねにくい。

 そのことも分かっているかのように、女の子は先に歩き出した。

「自転車、後ろに乗るか」

「スカートでは乗らない主義なの。ごめんね」

「いや、いいんだけど」

 百メートルほど家から離れたところで、僕はようやく女の子の正体に気がついた。

 後姿が、葛城にそっくりだったのだ。

「おい、葛城か」

「そうだけど。どうかしたの」

「いや、何で葛城がウチに来たんだよ」

 僕がそう尋ねると、葛城は不思議そうに小首を傾げた。

「美沙紀ちゃんが、楠木君が迎えに来て欲しいって言ってたから、行ってくれないかって」

「……そんなこと言ったっけな」

 いや、僕はそんなこと頼んだ記憶がないぞ。

「でも、迎えに来てよかったね。楠木君、さっきまで寝てたんでしょう」

 そう言って、葛城がクスクスと笑う。

「いやま、そうなんだけど。でも、その、何で」

「お母さんが言ってたわよ。今、必死でセットしてるからって」

「何言ってんだよ、あの母さんは」

 憮然としてみせておこう。

 本当は母さんよりも問い詰めたい輩がいるんだが。

「いいお母さんだね」

「いい母親なら、息子に恥はかかせないと思うけどな」

 それにしても、いつもと印象が違う。

 むちろん、面と向かって話すのも初めてなんだけど、何かが違うんだ。

「そういえば葛城、メガネは」

「今日はコンタクト。髪もしばってないよ」

「それだ、それ。どうも違和感があったんだよな」

「変、かな……」

「いや、全然」

 ちらりと葛城の髪へ視線をやる。

 いつもは一つにまとめられている後ろ髪は、結ばれることなく広がっている。

 髪の癖がついてないところをみると、元々髪の毛が柔らかいのかな。

「美沙紀ちゃんがね、絶対にコンタクトで来いってうるさくて」

「コンタクトの方がいいよ。十人がいたら、八人が振り返るって」

「あ、二人はダメなんだ。楠木君と清水君かな」

「いや、二人とも、真っ先に振り返るって」

「えー、ちょっとだけ嬉しいよ」

「ちょっとかい」

「うん、ちょっと」

 こんなに話す人だったかな。

 いつもは真面目に勉強してて、クラスの女子の中でも大人しいほうに見えてたけど。

「楠木君、こっちの道から行かない?」

「え、あぁ、いいよ」

 葛城に誘われるままに、公園の中の道を歩く。

 歩くペースを少し落として、彼女の隣を歩く。

「裏道に続いてるの」

「知らなかったな。いつも、大通りを行ってるから」

「私も自転車のときはそうだけど。歩くときは、こっちの方が好きなの」

 視線を上に向けると、かすかに色付き始めた銀杏の葉が覆っている。

 少し銀杏の独特の匂いがして、僕は思わず口で息を吐いていた。

「……疲れた?」

「あ、いや。朝バタバタしてたから、息が上がっただけ」

「それって、疲れてるんじゃない」

「そうとも言う」

 意外とツッコミもできるんだな、葛城って。

「楠木君、ちょっと休もっか」

「え、時間は」

「まだあるじゃない」

 葛城に言われるままに、公園のベンチに落ち着く。

 間を持たせるために、僕はすぐ横にある自販機で朝飯代わりのメロンソーダを買った。

「何か飲まないか。迎えに来てくれたお礼に、一本おごるよ」

「それじゃあ、果汁100%の」

「ん」

 葛城にリンゴジュースを渡して、隣に腰を下ろす。

 ベンチの背もたれに身体を預けると、仄かに香る甘い匂い。

「あ……金木犀」

「道理で。甘い匂いがすると思った」

「私、この匂いが好きなんだ」

 そう言って、葛城がベンチから身を乗り出した。

 手を伸ばしてやっと届くかというところの枝を揺らして、その手に花弁を乗せる。

「こんなに小さい花なのに、すごく香るよね」

「木自体は大きいものだからだろ」

「きっと、いい女の人っていうのは、こんな風に控えめにしていても目立つものなんだよね」

 葛城の言葉は、僕に対するものではなかった。

 思わず漏らしてしまったというか、こぼれ出た言葉。

 その証拠に、花弁を地面に落とした葛城は、少し慌てた様子で、残りのジュースを勢いよくあおっていた。

「……そろそろ行きますか」

「そうだね。もう、清水君とかは来てるだろうし」

 中身の残っていた缶をゴミ箱へ入れて、それを待っていてくれた葛城と並んで歩く。

 風が吹き始めたのか、キンモクセイの香りは僕たちを追いかけては来なかった。

 

 


 

 

 あれから一年。

 僕は第二志望の公立高に入り、新しい友達と高校生活を送っていた。

 学校内では前の中学の連中にも会うし、中学の延長のような生活だった。

「んじゃ、お先に」

「おぅ。また明日な」

 駅へ向かう友人と別れて、家路につく。

 ふと鼻をくすぐったのは、秋に咲く、定番の花の香。

「あれ、楠木君?」

 名前を呼ばれて振り返ると、女子高の制服を来た葛城がいた。

 高校からは、コンタクトで通すことにしたのか。

「葛城……今、帰り?」

「うん」

「元気そうだな」

「楠木君も。高校、楽しそうだね」

「まぁ、あまり顔触れは変わってないけど。葛城は橘高?」

「うん。今日、テスト明けだから、制服で遊びに行ったの」

 風が吹いた。

 髪を押さえた葛城が、僕の背後を見て微笑んだ。

「まだ、ちょっと早いみたいだね」

「何が……」

 後ろを振り返ると、そこにはキンモクセイの木。

 オレンジ色の花は、まだ咲いていなかった。

「おかしいな……さっき、香ってきたんだけど」

「それ、これだよ」

 そう言うと、葛城は手提げ袋の中から匂い袋のようなものを取り出して見せてきた。

 確かにその袋からは、甘い匂いが漂ってくる。

「ポプリ?」

「そう。この間、東北の方に旅行に行って、そのときに作ったの」

「いい匂いだな」

「ありがとう」

 自然と並んで歩きながら、僕たちは互いの学校生活を話していた。

 他愛のないことだったけど、それが僕たちの会っていなかった時間を感じさせてくれた。

「それにしても、葛城がコンタクトにするなんてな」

「女子高だから、女の子の目が厳しくって。でも、普段はメガネ」

「え、そうなんだ」

「今日はね、ちょっと予感がしてたの。珍しい人に会いそうだなって」

 そう言うと、葛城は足を止めた。

 遅れて立ち止まった僕が葛城を振り返ると、葛城は僕の頭の上を見上げていた。

「何が……咲いてるな」

 公園にあった木とは別の、キンモンセイの木。

 枝の先からは、オレンジ色が顔をのぞかせる程度に見えていた。

「ほんのツボミだけど」

「まだ甘い匂いはしないか」

「いつになったら、咲くのかな」

「あと三日もしたら、きっとたくさん咲いてるだろうな」

「三日か……あと何年かかるのかな」

「いや、だから三日だって」

 三日に何年もかかるわけがない。

 下手したら、明日にも咲くかもしれないのに。

「ふふっ、冗談だよ」

「何だ、そりゃ」

 笑いだした葛城につられて、僕も笑っていた。

 彼女から流れてくる、甘い香りに包まれて。

 

 

<了>