夜鳴き

絵梨は、15,6歳の頃から「男」が途絶えたことがない。
彼女の周囲には必ず複数の男がいて、たとえ1人の「彼氏」を選んだとしても、他の影はすぐには消えない。
また、消えたかな、と思う頃には別に男の影が見える。    
その影達は、絵梨に恋人が居ることを知っているし、当然彼らがそれを知っていることを絵梨も理解している。それはそうだ。絵梨から「彼氏いるし」と正直に言うのだから。
15,6歳になる以前はどうだったかといえば、やはり男の影はあった。
それらは性的な意味合いをほとんどもたない、あくまでも「御友達」だ。
それでもその「御友達」はいつもどことなく絵梨を特別扱いしているように彼女には感じられた。
それは、まだ若い少女のくせに、絵梨が「男はどんな風に物事を考えるか・感じるか」を、他の少女達と比較してぐんと理解をしていたからなのだが、それを意識していた少年なぞ、そう多くはいなかったに違いない。
男達からすれば絵梨と付き合うことは、楽だった。
女の愚痴を絵梨に言えば、大抵自分達男の言い分を理解してくれるし、「女はこういう風に思うから、しょーがないんだよね」と冷静に答えてくれる。
感覚でとらえているだけのものを、異性に伝えることは誰にとっても難しい。絵梨は天性の才能なのか、それが備わっていた。
男達が言うことがわかる。女達が言うことがわかる。だから、当然彼女は好きな男をうまく「おとす」ことが出来たし、女友達から「だれそれ君が好きなんだ」と言えば、心の中でその恋愛成就の可能性を簡単にはじき出すことも出来た。
男の視線やちょっとした仕草や物言い、日常の接点のありとあらゆる部分を絵梨は観察して、相手が何を考えているのかをつきとめることが好きだったし、実際それは彼女の類稀なる能力だったともいえよう。
とはいえ、彼女がその才を発揮するのは一定以上彼女が気になっている人間に限られていたし、当然人間対人間であれば予想外の出来事も起きる。
それを差し引いても彼女が多くの女友達よりも男を理解している風なのは確かだったし、狙った男は逃すことがほとんどなかったのも事実だ。逃した時は、相手に婚約者や恋人がいる時だったし、そういう相手に仕掛けることは絵梨は好まない。ただ、「恋人がいる」事実を知らないままあっさりと男をおとしてしまったこともあったし、それは困った才能でもあった。
「絵梨はいっつも彼氏がいるよねえ」
「そうだねー」
「いなかった時期ってあんの?」
「根本さんと別れた後半年くらい?」
「あー、4年前くらいね」
高校からの友人である志穂はにやにや笑いながら、アイスオレンジティーの中に入っているオレンジの種をいちいち取り出し、紙ナプキンの上に置いた。
「そういう間って、次の男欲しいーとか思うの?」
「別に。いらなーいって思ってる。1人は気楽だし。1人だと男友達といろいろ遊べるじゃない」
「おーお、世の中の彼氏いない歴10年とかの女子に聞かせたいセリフだわ」
「人は誤解してるけど、わたし、付き合い出したら長いよ。毎回、1年も一緒に居れば、この人と結婚してもいいって気持ちがちゃんと固まるしさ」
それは間違っていない。
付き合いだして一ヶ月二ヶ月でわかれるカップルの気が絵梨にはわからない。
その程度で別れるなら、なんで最初の数日で見破れないのか。馬鹿だな、と絵梨は思う。
絵梨が今まで付き合っていた男性との別れは、大抵仕事の都合で恋人と遠距離恋愛になり、そのまま自然消滅だ。一緒にいられれば付き合いに支障はなかったのだと思える。
かといって、恋人についていって自分の仕事を辞めるほどの情熱もなければ、それを要求するような無茶な男も彼女の好みではなかったのだからどうしようもない。仕方がないのだ、と絵梨は思っていた。都合のよい話だ。
17歳の頃に付き合いだした男の子とは、大学受験で離れて自然消滅。
大学入学後付き合いだした男の子とも、大学卒業と共に離れて自然消滅。
企業に就職してから付き合い出した先輩とは、2年めの彼の転属で自然消滅。
その後にいきつけのバーで出会った健太と付き合いだして、いまや4年目だ。
その間にも多くの男の影はいつもあった。
職場の先輩に誘われて食事にいって告白されることもあれば、いきつけバーのバイトの男の子に誘われてライブに行くこともあった。大学時代の男友達と呑みに行くこともある。
志穂は「いい加減な女だな」と絵梨に言うし、絵梨も「だよなぁ」と平然と答える。
「でもさ、ひどいんだよね。男の人たちさ。わたしに彼氏がいるってわかって誘うわけでしょ」
「うんうん」
「で、たまにそのうち告白してきたりしてさー」
「はいはい、あー、よかったね、よかったね」
適当に志穂は合槌をうつ。
「だから、聞くの。わたしがあなたの恋人になっても、今あなたが誘っているように、他の男からの誘いに応じ続けるけど、許す?って」
「うわーーー。嫌な女だなぁ、ほんと」
「だって、そーじゃない。で、それ言うと「ヤダ」っていうんだよ。アホじゃん。あんたと付き合ったら止めると思ってんのかよ、ありえない、って思うもん」
「ムカツク女!」
「ねー」
それを絵梨は否定しない。
自分はろくでなしだと思う。
自分は多くの男達に愛されたい。一方的に愛されたい。自分はその愛を返そうとは思わない。情けはかけるけれど。
どうして、そんなろくでなしを男達は好きになるのか。
いや、そもそも、こんなろくでなしを好きになるほど、もっともっと駄目な女が世の中にわんさかいるのに違いない。男心を解さない女達。操縦できない女達。
絵梨はそうルックスが飛びぬけていいわけではない。それでも、自分よりもっとルックスが良い女を捨てて告白をしてくる男もいる。それは嬉しいと素直に思う反面、それを喜ぶなんて、なんて自分は醜いんだろうと絵梨は思う。
嫌な女。本当にろくでもない。
彼女はいつもいつも自分のことをそう思っていた。
だからこそ、このろくでなしを愛しく思ってくれる男達は、可哀相だと時々思う。

絵梨は恋人の健太と休日が合わない月がある。
もともと週に一度しか会わない二人だったが、健太の勤務形態が三ヶ月に一度のサイクルで変則になる。
そういった月は隔週程度でしか会えないし、それを別に寂しいとは思わなかった。
絵梨は水泳が好きで、家から15分のジムのプールに仕事の後でよく通っていたし、志穂と夕食をする日もあったし、家に帰って食事を作ることも好きだった。
適度にインターネットをして、適度に読書をして、半身浴に肌の手入れをして、テレビをみながら翌日のお弁当の仕込みをする。
何の悩みもない日々だ。絵梨は1人で過ごすことが好きだったし、人と約束をすることも苦手だった。いつでものんびりと部屋にいて、突然の呼び出しがあれば迅速に動く。約束をするより、突然彼女の存在を求められる方が彼女の性に合っているのだろう。
健太は毎日何通かメールをくれるし、絵梨も返す。テレビ電話で話をすることもたまにあるが、お互いの時間を拘束することは好きではないので、もっぱらメールでのやりとりだ。
会う日は一日中一緒にいて、絵梨の部屋で何時間も抱き合ってるときもあるし、一日中あちこち買い物めぐりをするときもあるし、たまには遠出もする。
健太は優しくて穏やかで包容力がある男だ。色んな男達に囲まれている絵梨が自分を選んでることが嬉しくて、「他の男と遊んできてもいいよ。絶対僕のところに戻ってくるもんね、絵梨は」と、穏やかでありながらいつでも自信満々だ。
「戻ってこないかも」
と絵梨が物騒な冗談を言ってもまったく怒らず
「戻ってくるでしょう。絵梨にとってこんな都合いい男、そうそういないと思うもん」
とあっさりといってのける。気持ちが太く、相当変わり者だと絵梨は思う。
そんな生活の中、時々。
真夜中、無性に泣きたくなる夜がある。
どうして、健太はここにいないの。
そりゃ、仕事だからだ。わかっている。
なんで、メールがこないの。
それも、仕事だからだ。
誰も彼も今、絵梨のことなんか考えずに好きなようにしているに違いない。
パソコンを触っても、やってくるメールは広告ばかりだし、何度携帯を見ても誰からのメールも受信していない。
誰かの声をききたくて電話しようとも思うが、かける相手がいない。
戸川くんはきっと友達と呑みに行っているだろうな。
ヤマさんは会社の送別会って言ってた。
小野っちと会いたいわけじゃないし。
その突然の「寂しさ」を癒してくれそうな人間を考えるが、それは、誰でもない。少なくともわかっているのは、女友達では駄目だということだ。
誰でもいいなら、呼びつけてやってきれくれる男は何人もいる。でも、そうすることで「絵梨が俺を選んでくれた」なんて思い上がられるのは嫌だ、彼らとは適当な友達でいたいだけだ、と自分勝手なことを絵梨は思う。
それに、欲しいものは。
絵梨は慣れた手つきで、一通のメールを送った。

「おっ、いい匂い」
「食事してないっていうから」
「絵梨の料理、まずくないけどすげー美味いってわけじゃないよな。これも匂いだけかよ」
いつも淳志ははっきりと言う。それも、絵梨は好きだった。
「んーん。これは美味いはず。なんてったって、アレだ。豚丼のモト、とかいうので味付けてるもん」
「そりゃ安心だ」
「真夜中の炭水化物は控えてるから、豆腐にかけとくわ」
「マジで。木綿?」
「木綿。好きでしょ。淳志はモメンスキーだもんね」
「大体絹豆腐はいかん。木綿のあのボソボソのよさが何故みんなわからんのだ」
淳志はベッドのふちに背をもたれて、テレビのチャンネルを替えた。本当は二人用のソファがあるけれど、そこに座っていいのは健太と自分だけだと絵梨は思っていたし、淳志もそれを知っているのだ。
絵梨は、崩した木綿豆腐の上に、豚肉と玉ねぎとえのきを炒めてタレに絡めたものを注意深くフライパンからかけた。
「楓ちゃんとデートしてなかったんだ」
キッチンからトレーにのせた夜食を運んで、ガラステーブルに皿を移しながら絵梨は尋ねる。
それにはあっさりとした答えが帰って来た。
「別れた」
「え。どうしたの」
「俺のこと、アツシって呼びたいって言うから」
「は」
その言葉は、暗に「お前のせいだ」と言っているように絵梨には聞こえた。そして、実際そうだったのだろう。
淳志の名前は「アツシ」だが、誰も彼も彼を「ジュン」と呼ぶ。彼の恋人「だった」楓は、淳志と絵梨の中学校の時のクラスメイトだ。
楓も漏れなく「淳」と呼んでいたのだが、恋人になってから「淳志と呼びたい」と思ったというわけか。
「お前以外に言われると思うとぞっとする」
きっと、淳志はそのまま楓に今のセリフを言ったのだろう。そして、別れを告げたのは、きっと楓のほうだと絵梨は理解した。
ひどい話だ、と絵梨は思う。
「はい、どーぞ」
「おう、サンキュ。と、その前に」
「あとでいいってば」
「駄目だ。今」
淳志は絵梨の手をぐいと引いた。絵梨は簡単に淳志の胸元に引き寄せられる。
「はいはい、よしよし」
そうわざとらしく一本調子で淳志は言って、絵梨の頭を撫でた。
淳志の手は大きい。彼は肩幅も「いい具合」だし、声も不快ではない。ルックスはまあ、どこにでもいる普通の顔だと思うし、芸能人に似ている人間がいるかというと・・・若手のお笑い芸人のコンビの片割れ。そうだ、眼鏡を外せばきっと淳志に似てる・・・のか?と思う程度だ。
淳志と絵梨は、キスひとつしたことはない。
あえて言えば、たった一度だけ酔っ払った時に絵梨がいたずら心をおこして、淳志の耳元を舐めたことがあるだけだ。そうしたときに淳志はどんな反応するんだろう。たったそれだけを知りたくて。
淳志は絵梨が好きにするがままそのままで何もしなかった。
嬉しそうな顔もしなかったし、呆れ顔もしなかったし、溜息ひとつつかなかった。さっさとタクシーをつかまえて、後部座席に絵梨を押し込んでから、自分も乗り込んで。
「寝てろ、起こしてやる」
そういって、絵梨を乱暴に横倒しにして、彼の膝枕を提供してくれただけだった。それがまた、絵梨の気にいった。
何もしない男。寂しいときは来てくれて、こうやって頭を撫でてくれて、恋人代わりをしてくれて。
逆に絵梨を呼びつけることもなく。まったくもって都合がいい男だ。
「いちおーさー、わたしも気にして、楓ちゃんのこと考えてたからさ、最近呑みにも誘わなかったんよ。別れたなら教えてくれてもいいじゃない」
「何ぬかす。別れたって知らなかったくせに、こうやって呼び出しやがって。嫌な女だ」
「んだ、んだ」
冗談めかして絵梨はそう言って、淳志の首に腕を回した。はいはい、と淳志は絵梨の体を軽く抱いてやり、赤子をあやすように彼女の背をぽんぽんと叩いてやった。
こんな関係を信じてくれる人間なぞそうそういないだろうし、「それは、男の方に、身体的問題があるんじゃないのか」なんて言う人間もいるに違いない。淳志はまったくもって普通の健全な男で、年齢相応の「そういった」経験は積んでいるし、興味があるからという理由だけで風俗に手を出したことだってある。その体験談を聞くことが絵梨は好きだったし、「淳くん、風俗なんて最低!」と言う女達の気持ちがまったくもって絵梨には理解が出来ない。
絵梨は、付き合っているわけではない男−つまり、今でいえば淳志だ−の体温は好きだったし、キス以上のことをしなければスキンシップとして許される世の中にならないか、と本気で思っていた。家族で抱き合っても誰も何も言わない。家族のように親しく感じていても、異性である時点で問題が発生するのは何故だろう?そんなことを考えるのは馬鹿げていると自分でも思うが、だって、絵梨は、淳志にこうやって抱かれることが好きなのだ。
もちろん、健太に抱かれることだって大好きだ。断言出来るし、それを照れ臭いとも思わない。
(でも、他の男友達とは、イヤなんだ)
そういう自覚はあった。だから、誰とでもこうやっていると思われるのは−健太にも淳志にも−絵梨の本意ではなかったし、そう思うような男なら、きっとこんな風に付き合っていないと思う。
「はい、とりあえず後は食べてからな」
「はーい」
淳志は最後に絵梨の頬に頬をよせてから、とん、と彼女の体を押して「はがした」。
食べてから何をするかといえば、何もしやしない。テレビを見て、ぼんやりとくっついているだけだ。
絵梨の「寂しい病」は、すぐに消える。本当は、メールを淳志に送らないで我慢をすればいいのだ。
我慢をしていると、そのうち涙が出てくる。
寂しくて寂しくて、何故だか涙が出てくる。
気がつくと、嗚咽を漏らすほど泣くこともある。
しかし、小一時間そのままにしておけば「馬鹿みたい」と呟いて、すっかり泣き止み、ただ残った頭痛と闘わなければいけなくなるだけだ。
その頭痛との戦いを嫌がり、安易に安心を手に入れたくて、絵梨は淳志を呼ぶ。
翌日あっさりと「昨日は淳志が遊びにきてくれた」と健太にメールで報告すると、健太は穏やかに「いつもお守してくれてありがとう、ってちゃんと淳くんに言うんだぞ」と返信してくる。「淳くん」と淳志のことを書いてくる、その健太の心遣いも絵梨は好きだと思う。
こんな風に、「寂しい病」に取り付かれて夜中に泣く人はいるのだろうか。
絵梨はそう思って、インターネットで調べてみた。
うまく検索をすることができなくて、インターネット上の小説だったり、友達がいない寂しい女の子の日記や、彼氏と別れて傷心中、という日記などが主に出てきて、肝心の「彼氏がいるにも関わらず寂しくてしょうがなくなって他の男を呼ぶ」同類をうまく探すことはできなかった。
でも、絶対いる、と絵梨は思うし、それは淳志も同意する。
いるとしても、少数派だということも彼らはよくよくわかっていたけれど。


そんな不思議な関係にも、破局というものがあるのだ。
いつかくるとわかっていたけれど、それは今ではないと思っていた。人生初めての、他人にとってはまったく不可解な、一組の男女の関係の終わり。
淳志から届いた携帯メールの文面は、いつも通り淡々としていた。
彼のメールは、面倒なことがいっさい書いていない。それはいつものことだ。絵文字を使う男ではないし、返信を必要とする内容で来る時は、電話をかえてくることがほとんどだ。
そっけない三行のメールを見て、絵梨の眉根は寄せられた。

「来週から仕事でドイツに行く。」

「長くなる。」

「帰ってきたらまた一緒に呑もう。」

そのメールが届いたのは、健太とのデートを終えて帰宅した直後だった。時計の針は午後11時3分。
慌てて淳志にメールを出そうと思った。思ったけれど、何を書けばいいのかわからない。
来週からって、いつから?
そんなことを聞いてどうするのか。
長くなるって、どれくらい?
わかっていればそんな書き方をするはずがない。
どういうこと?
どういうこともそういうこともない。文面の通り、それ以外に淳志が絵梨に伝えたいと思うことはないのだろうし、絵梨もまた、何も聞くことがないことに気付いて唖然とした。

「そっかー、頑張って!ドイツ報告いつでも待ってるからね〜!」
「ドイツビール呑み過ぎるなよっ、太るぞー!

そんなありきたりのメールを打ち込んで、送信するかどうか悩んだ。
悩んで悩んで、打ち込んで、保存して。
保存した後、その返信用メールを呼び出して、もう一度文面に目を通した。
それから、あまりにも陳腐な文面に呆れて、その返信メールを削除した。
自分は淳志の恋人ではない。
けれども、自分が仕事の都合で同じようにドイツに行く立場なら、こんなメールだけでは済ませないで、絶対絶対淳志に直接言う。
なのに、淳志は自分に対してそうしてはくれないのだ、と思うと、きりりと胸の奥に痛みを感じる。
誰も理解してくれないと思っていた、自分にとって唯一の男が物理的に遠くに離れていく。
部屋の中で絵梨はぼんやりとそれについて考えていた。
長くなる。
その、「長い」を経て彼が戻ってきたとき、自分はどうしているんだろうか。
健太と結婚でもしているんだろうか。
それでも、また淳志は自分と酒を呑みに行ってくれるんだろうか。
誰に対しても感じたことがない、未来の約束事。
帰ってきたらまた呑もう、とメールには書いてあるけれど、それは社交辞令であって約束ではないのだと絵梨は思う。
10分、15分、いや、30分ほどの時間、ぺったりとフローリングの床の上に座り込んで、絵梨は考えていた。
おかしい。
健太がもしも海外に行くことになれば、自分も二者択一で人生の選択肢を迫られると思う。
ついていくか、残るか。
けれど、淳志と絵梨の関係はとても深く、けれどもとても浅く、彼がどこで何をしていようと、絵梨がそれによって人生を狂わされることなどありやしないのだ。
俺は行く。お前はそこにいろ。ただ、それだけのことだ。
絵梨は健太に電話をした。
4回のコールの後、「どーしたの」と気安い声。彼は、電車を降りて、自宅までの道を歩いているのだろうと絵梨は予測した。
「今日は、ありがと。まだ歩いてる?家に着いた頃かけなおそうか?」
「いや、いい。暗い夜道は、電話しながらの方が楽しいしさ」
デートの後は、お礼を言うのが当たり前、それが礼儀だ。絵梨はそつなく健太に礼を言い、今日のデートが楽しかったことを伝えた。それから、次の休日の確認と、約束をしていた映画の前売りを買う話をぽつぽつと続けた。
「あのね。それから」
「うん」
「さっき淳志からメールが来てさぁ」
「うん」
「海外に行くんだって」
「そうなんだ?へえ。仕事?」
「そうみたい。いつ帰ってくるのか全然わっかんないみたいだけど」
「寂しくなるだろ、絵梨」
「ちっとはねー」
「今、もう、寂しい?」
健太のその問いに、絵梨はどきっとした。
健太は、知らないはずだ。
絵梨がどうしようもないほどに、無性に誰かの手が欲しくなって、泣きたくなって、淳志を呼ぶことなんて。
健太は、淳志は絵梨のただの遊び友達であり、なかなか絵梨と休日が合わない健太の代わりに絵梨と「遊んでくれる」男だと思っているだけのはずだ。
けれど、彼のその言葉はなにやら妙に核心に迫る響きを持っているように絵梨は感じた。
絵梨が答えられずに一瞬躊躇し、2人の間を空白の時間が流れる。駅前のコンビニで何かを買ったのであろう健太の手にあるコンビニの袋ががさがさ揺れる音が聞こえる。携帯電話を持ち替え、きっとポケットから鍵を出しているのだろう。彼は、彼のアパートに辿り着いたに違いない。
「あのさ、絵梨」
「うん」
「俺は絵梨にとって都合がいい男だけど」
「・・・」
「そろそろ、覚悟しなさい、君は」
ガチャ、とドアが開く音が携帯電話越しに聞こえた。健太は自分の家のドアを開けたのだろう。絵梨にとっても、聞き慣れた音だ。パチン、と灯りをつける音がくぐもった音になって伝わった。
絵梨は、どう返事をしていいものか悩んで「何を?」とありきたりな答えを健太に返す。
「どれだけたくさんの男にちやほやされても、絵梨は淳くんがいいわけでしょう」
「何いってんの。健太がいいんだよ」
「違う」
「違わない」
「絵梨。都合がいい男は、淳くんじゃなくて、俺だろう?都合がいい男は、恋人ごっこは出来ても、本当のパートナーにはなれないんだよ」
痛い言葉だ、と絵梨は思った。
そして、その言葉を口に出している健太の心も痛んでいるに違いない。
「絵梨は、淳くんが好きでさ。それを認めない自分がいてさ。それがウソだって信じさせてくれる、都合がいい男と付き合いたいだけなんだよ」
痛すぎる。
思いも寄らない健太の言葉に、絵梨は呆けて反論1つも出来ない。
「思い出しなよ、絵梨。君が今まで別れて来た男性のことを」
「え」
「みんな、環境が変わって、なんとなく会わなくなって終わり。今、僕達は、なんとなく会う機会が減ったけれど定期的に会えている。だから続いている」
健太は何を言いたいのだろうか。絵梨は、息を殺して、耳を携帯のスピーカーに、ぐい、と押し当てた。
「ただそれだけだ。君は、お付き合いを長続きさせる秘訣を知っている。いつも、デートが終わればお礼の電話やメールをして、プレゼントを貰えばその場で開けて喜び、たまには可愛らしく笑って、いつもご馳走になっているし、と自分で支払ったり、突然のプレゼントで僕を喜ばせる」
ほんと?わたし、可愛らしく笑えてる?いつもならそう聞き返すセリフだ、と絵梨はぼんやりと思った。それは心からの驚きの言葉ではない。
もう一度、健太の口から、男の口から「可愛い」という賛辞を聞きたい、確信犯の問い掛けだ。
そうだ。余程のことがなければ、自分はそつなくこなし、男の方から別れを告げられることもない。
それは、幼い頃から何故か「男の気持ちを知って」いたからだ。
「君は、男のことをよく知っている。たまにはわたしが運転しようか、なんて嬉しいことも言ってくれるし、甘えることも上手だし、突き放すことも上手だ。僕には淳くんのことを言うけれど、それは、僕のことをよく知っていて、僕なら大丈夫だと思ったから言うんだろう?」
「健太・・・」
「充分すぎるほど、君は男を知っている。だけど、君は君自身を知らない。もう観念したほうがいいよ」
「何を言ってるのか、よくわからないよ」
「君は、君を好きなどんな男とでも、うまく恋人でいられる才能がある。でも、本当はそうじゃないんだ。君は僕を好きなんじゃない。君のことを好きで都合がいい男である僕が、恋人としての許容範囲内だから付き合っていただけだ」

健太との電話を切った後、絵梨は呆然として、ベッドに体を投げ出した。
バカ、健太。
そこまでわたしを知ってるのは、健太だけじゃない。
だから、好きなのに・・・。
そう思い込もうとしている自分に気がついて、絵梨ははっとなる。
そうだ。いつも夜に泣きたくなる時、このシグナルが自分の中で点滅する。
若い頃から、何故か知ってしまっていた。
男性が何を求めているのか。自分が何をすれば相手は喜ぶのか。
思い描いたことを男性の前でやれば、その男性は絵梨に首ったけになったし、絵梨がしむければ自分から告白をしてきた。ああ、やっぱりな、と冷静に思う反面、求められることは正直嬉しかった。
付き合いだせば、会う時には常に「彼が喜ぶだろうこと」をたくさんやってきた。
そして、男たちは言うのだ。
「今までこんなに付き合っていて、わかってくれる女の子はいなかった」
とか
「もう、他の女と付き合えないかもしれない」
とか
「なんで絵梨は、俺のことがわかるの」
とか。
その言葉たちは絵梨の中で一種の勲章になり、「男をよく知っている、出来た女」として男に評価されることを、単純に喜んでいた。同性からのやっかみや、妬みや嫉みはどうでもよかったし、恋愛下手でうまくいかない女友達を見ては「やれやれ」と思っていた。

けれど。

絵梨は、がばっと体を起こした。勢いがついていたため、みしりとベッドの板と板の間がきしんだ音を立てる。
それから、ぐしゃぐしゃになった毛布の上に坐ったまま、夢中で携帯のアドレス帳画面を、ピンク色がベースになっている液晶画面に表示した。
そして、通話ボタンを押す。

トゥルルル。トゥルルル。

お願い。
早く出て。
出ないと、間に合わない。

トゥルルル。トゥルルル。

しばらく呼び出し音が鳴り続いた。留守番電話には切り替わらない。
ということは、きっと本当は出られるはずなのだ。
「・・・・う、あ」
絵梨は一度、電話を切った。
えもいわれぬ感触が体の中、胸の辺りを中心にして彼女を包み込む。
体の中なのに「包み込む」はおかしな話だ。
けれども、まるで内側から無理矢理めくられて、ひっくり返されて、包まれてしまうような、何かに閉じ込められるような感触を絵梨は感じる。
知りたくなかった、いや、現実をつきつけられたくなかった。
思っていた以上に健太が聡い男だったからこんなことになったのか。いいや、違う。
自分は、もう、そのことに気づくほどの年齢になっていたのだし、そうであれば恋人だってそれなりの年齢で、それなりの経験を積んできた男性であっても不思議ではない。
だから、見破られた。
中学生、高校生の頃からまったく変わることがない、少しばかり年齢相応に綺麗に見せることを覚えただけの、まだ未発達な絵梨のことを。
どうしようもないほどに絵梨は泣きたくて泣きたくて、そのままごろりと前のめりになってベッドの上に横たわる。
まるで赤子のように膝を抱えて、絵梨は意味不明のことを口走った。
「いやだ・・・なんで、電話、出ないの!どうして、ここまできて、わたしを置いていくの!」
自分だって、知らなかったわけではない。
何故、誰とつきあっても長続きするのか。何故、自然消滅してしまうのか。
彼が近くにいるときは、いくらでもいい女を演じられる。ああ、この男はわたしのことを、ちょっといいと思っているんだな・・・そう思えた相手から感じ取ったことを、絵梨が全力で行っていれば、それで何もかもがうまくいっていた。
遠くに行ってしまえば、一緒にいる時間も減り、彼の様子も声でしかわからない。だから、うまく感じ取れなくなるし、「わからない」ことが増えれば演じる熱も冷めていく。だから、続けられないのだ。

「充分すぎるほど、君は男を知っている。だけど、君は君自身を知らない。もう観念したほうがいいよ」

健太の言葉がぐるぐると頭の中を回っていく。
暴かれたことの恥ずかしさと心許なさ、そして、真実を突きつけられた初めての経験に、絵梨はどうしていいのかわからなくなって、泣きたくて仕方がなかった。
絵梨は胸元に握り締めていた携帯電話の画面を見て、リダイヤルボタンを押そうとして躊躇した。

嫌だ、こんなのは、出来ない。
何度も何度も電話してくる女なんて、みっともなくてうざがられる。彼はそういう男だ。それに、そんなにわたしが会いたいんだってことを知られるのは、優位に立たれてしまうことだし。
だから、お願い、あなたから電話をかけ直して。
そうしたら、言うから。

絵梨は携帯をぎゅっと握り締め、自分の胸に押し付けた。潰れた左乳房は、月のものの前で少し張っていて、いつもはないような痛みを彼女に伝える。
そうだ。この痛みなら、体の痛みならいくらだって耐えられるし、いくらだって言い訳ができる・・・。
そんなことを思った瞬間、手の中ですっかり温まった携帯電話から、一昨日ダウンロードした音楽が鳴り出した。

−−「アツシ殿」−−

ふざけて登録をした淳志の名前が、液晶画面に大きく表示される。「淳志」と変換をすることが面倒に思えて、カタカナのまま登録したきり、もう2年も使っている。それを登録した頃の自分の能天気さを思うとあまりに滑稽で、絵梨はとうとう堪えきれずに嗚咽をもらした。
先ほど、電話をしたのは絵梨の方だ。
けれど、絵梨はもう臆病になり、しゃくりあげて毛布に頭を強く擦り付ける。
もしかしたら、この電話を出て、素直に言ってしまったら。
わたしは、恋人と男友達の二人を、一晩でなくしてしまうかも知れない。
そう思えば、通話ボタンを押すこともできないし、かといって、淳志に来てもらわないで、この寂しくてしょうがない夜をすごせるのか絵梨にはまったくの自信がない。
絵梨は丸くなったまま、まだ聞きなれない着信メロディを聞きながら泣き続ける。
賭けてもいいのだろうか、淳志に。
自分がまだこんなに臆病な子供で、本当はちっとも恋愛なんてものをしていなかったということを、淳志は知っていたのだろうか?もし知っているとしたら、どうして止めてくれなかったのだろうか。

そうだ。

どうして、淳志は、来てくれていたのだろうか。

その問いを自分に向ければ、「だってわたし達はそういう関係だから」と、回答にならない言葉を回答がわりにして曖昧に流していた。今までだって感じていた淳志へのその疑問は、解消されることはないし、絵梨が彼に投げかけたことがあるわけでもない。
そんなことを、男に聞くことが恐かった。聞けば、きっと面倒がられるのだと絵梨は思っていた。
どうして、自分の女友達は、いつもいつも平気で「それを聞いたら男は嫌がる」ようなことを、恋のお相手に言えるのか絵梨にはわからなかったし、馬鹿だなあと思った事だってあった。
けれど。
それを言葉にしなければ、進まない関係があるのだ。
そんな関係を築くことが恐くて、お互いを傷つけて知り合うことが恐くて、先回りして先回りして、いつだって物分りが良い女を振舞ってきた。健太が言う「都合がいい男」とは、絵梨のその先回りを知らず、そして、「恋愛ごっこをしているがゆえに」恋人に飽きて時々他の男と遊びに行く絵梨を許してくれる男のことだ。もちろん健太は許してくれていた。けれど、彼はきっと、ずっと前から、絵梨のそのある種薄情な性質を見抜いていたのに違いない。
そして、きっと、淳志も。


まだ、携帯からメロディは流れている。
泣きたい夜には、誰からも連絡が来ない。きっと、誰も彼も自分の本当のパートナーと時間を共にしたり、友達と遊んでいたり、自分の趣味の時間を過ごしているに違いない。
どうして誰もわたしの側にいてくれないの。
答えはわかっている。絵梨もまた、誰の側にも正しくいないからだ。
それを知った今でも、やはりいつもと同じように寂しくて寂しくて、ベッドの上で絵梨は泣いていた。
今、ここで勇気を出して通話ボタンを押したら、もうこんな風に泣くことはなくなるのだろうか。
熱い涙が頬を伝う。きっと、黒いアイラインがにじんで、マスカラが落ちて、自分はひどい顔をしているのだろうと絵梨は自嘲気味に口を歪めた。
それから。
ベッドの上で丸まったまま絵梨は、着信メロディのリピート3回目途中で、携帯電話のボタンを押した。


Fin