瑠璃色の風始まる場所


 

 

  「神は百人の善人の笑顔より
          一人の悪人の涙の方を 好まれるのですよ」
              (  映画 『レ・ミゼラブル』 ミュリエル神父の台詞より )

 

 

 ギリアム・オレイリーは、サンフランシスコにある少年院の警備を仕事とする人物で、法の番人であり、自分の仕事に誇りを持っている二九歳の青年である。
 このサンフランシスコの心地よい春の日差しが、ギリアムの眠っている部屋に差し込み、面長の顔から睡魔は消えうせ、全神経が太陽の光で覚醒していく。
 大きなベッドの上で眠っていたのは、彼が長身だからではなく、恋人の部屋で眠っていたからであろう。
 その面長の顔にある丸い人懐っこそうなライト・グリーンの瞳と、大きな鼻が特徴で、目覚めると同時に、笑顔と言うよりはニヤついた笑みを浮かべ、上半身を起こし、背筋を伸ばしていく。横で眠っていた恋人は、何時も通り自分の朝食の分も作ってくれているのだろうと思い、水泳選手の様に引き締まった美丈夫な肉体に、サンフランシスコ警察の制服を包んでいく。
 おさまりの悪い金髪の髪を指で整え、この部屋を出て、廊下を突き当たると、そこにキッチンがあり、身長一九〇の自分とつり合う、一七五の長身のスレンダーな女性が、野菜サラダと焼いたライ麦パン、ヨーグルト、そして牛乳を用意していた。
 長身をテキパキと動かし、なれた手つきで野菜を盛り付け、ダーク・グリーンの見事な髪をオールバックにして、セミロングにまとめている。
 富士額の綺麗な額に少しの汗がにじんでおり、切れ長の瞳が特徴の大人びた女性は、ギリアムに気付き、席を勧める。
 「相変わらず、健康的な食事だな。君がスレンダーなのわかるよ」
 余裕のある顔にふさわしい、余裕と陽気さを足したような声で答えるギリアム。
 「私は、ジャンクフードや、肉中心なのは嫌いなの」
 グレース・シェイファーは、理知的で、大人びた女の色香を、うなじや顔から発散させ、少量の蜂蜜をライ麦パンに塗り、ギリアムに渡す。
 ギリアムも、グレースと付き合うようになってから、標準体型から、引き締まった美丈夫な身体に変わってしまった。
 さすがに、女医だけあり、健康面には気を付けている。
 だが、そんなことより、グレースの大人の理性と色香を放つ魅力に、ギリアムはすっかり参ってしまい、『サンフランシスコ警察の、ドン・ファンファン』と呼ばれた色男も、今はグレースで落ち着いている。
 グレースもまた、常に余裕のある態度と口調を崩さず、紳士的でありながら、日本の合気道の有段者であり、釣りや狩猟を得意とし、山菜や野生動物や自然に詳しく、そして自然に敬意を抱くギリアムに興味を示している。
 美男子ではないが、不思議と女性を虜にする不敵で余裕のある笑顔に、グレースもまた参っているのだ。
 「毎日大変ね。不良少年達の相手なんて」
 少量を口に含み、ゆっくりと食べるグレースに会わせるように、ギリアムもゆっくりと食べる。
 「まあな。数ヶ月前までなら、動物園で猛獣の飼育でもしていた方がマシだと思っていたさ」
 「あなたなら似合いそうね。熊の相手が似合いそう」
 笑顔で言うグレースに対し、ギリアムも、
 「よしてくれ、毛深い女は好みじゃない」
 「確かに、貴方は女の飼育のほうが上手そうね」
 「ほう、さすがは俺の経験者」
 二人は、同時に苦笑しながらも、話を続ける。
 朝食を終え、食器の後片付けを手伝い、このマンションの地下にある駐車場に彼は向かう。グレースはもうしばらくしてから出勤であり、自分は今から向かうのだ。
 郊外にある少年院に、トヨタの最新ハイブリット車で向かう。
 アメリカ向けに左ハンドルの車になっており、アメリカ人サイズの空間になっている。
 西にはサンフランシスコの群青色の海が、紺碧の空から降り注ぐ太陽の光を反射させまぶしく輝き、西の山脈から春の風が吹いてくる。
 坂の多い街を疾走し、郊外の丘の中腹にある、コンクリートの高い壁に囲まれた広大な建物の正門玄関に停車すると、門番が二人現れ、二人にギリアムが身分証明を見せる。
 顔なじみだが、やはりお役所仕事。ちゃんと本人の確認を取り、警察手帳の認識番号を言ってから、重々しい扉が開き、中に入れる。
 ようこそ、少年院へ。ここは犯罪を犯した少年達の収容施設。
 ギリアムは、此処で仕事を行い、子供達を監視する。
 警察の帽子をかぶり、腰のトンファーをしっかりと手にする。
 まあ、ギリアムにトンファーは要らないが、所持するのも規則である。

 レベッカ・フェブラリー所長は、この少年院の管理を任される才女である。
 四十四歳の、太った身体をした女性で、太っていても、知的な顔は隠せない芯の強い顔をしている。
 所長室でレポートを読んでいると、ギリアムがノックと同時に入ってきて、ここ数ヶ月で、標準体型からスマートになったギリアムに笑顔で迎え、
 「オレイリー。よく来たわね。痩せた秘訣を聞きたいわ」
 握手を求めると、ギリアムは自然体で応じ、上司に笑顔で、
 「素敵な異性を見つけることですよ。所長も、亭主の素晴らしい色気を発見したら、間違いなく痩せれますよ」
 「ホホホホッ、探してみるわ」
 そういいながら、レポートを彼に渡す。
 ギリアムは受け取り、所長の机に腰をかけ、レポートに目を通す、
 「……ピーター・ブルース、一六歳。人生の五年を少年院で暮らす……」
 その横にピーター・ブルースの顔写真がある。
 漆黒の長髪の若者で、なかなかの凛々しい美少年であるが、その黒い瞳は、異常に鋭く、不良やツッパリと言うよりは、冷酷な無慈悲さを感じる。
 「おう、中々の面構えだ。もう少し人生に磨きをかければ俺の弟子になれる」
 「何の弟子?」
 「真実の追究は浅くしてくれ、ミセス。女性を幸せにする愛の伝道者って、ところと答えておこう」
 「だが、その少年は強姦を四回認めている。まだあるかも知れないけど」
 「だが、傷害の被害者は殆ど、同じ不良仲間だ」
 「そう、意外と普通の市民が彼の被害にはなってないの。……プログラムで更生する可能性があるわ。このピーター・ブルースをプログラム棟に移します。貴方が面倒を見なさい、分かったわね、オレイリー」
 「イエス・ミセス」
 机から降り、ギリアムは一礼して所長室から出て行った。

 この少年院の二階にある独房。
 そこに、ピーター・ブルースがいた。
 規則の囚人用のジャージを着込み、狭い独房の中で、トイレ、洗面台、ベッドだけが置かれ、南の壁に小さな窓と、北には壁がなく、鉄格子のみの外の廊下の壁が丸見えのかび臭い部屋。
 ピーターは、小さなベッドに、不機嫌そうな顔で横になっている。
 彼は覚悟を決めている。こんどばかりは六年程出られそうにない。
 そうだ、ここはゴミタメ。俺のような屑の集まる場所。
 自慢の漆黒の長髪も、スポーツ刈りにされ、その頭に両腕で枕代わりにして、寝返りをうつ。
 スラム街で育ち、子供の頃から生きることを最優先にして生きてきた。
 誕生日も知らない。親の顔も知らない。家族も知らない。学校も三年で辞めた。
 後は決まりの没落コース。
 生きるために、暴力を使わなくては生きていけないスラム街で、少年は頭角を現し、ローティーンエイジャー達の不良グループに入り、幹部までにのし上がった。
 窃盗、かっぱらい、傷害、喧嘩、細かい犯罪は毎日のように行った。
 強盗、強姦も数回こなし、人殺しはしていないが、放火は数回行っている。
 薄ら寒い笑いを浮かべ、ピーターは同じ薄ら寒いコンクリートの壁と空間の中に、その笑い声をこだまさせる。
 その中で、通路から二人分の足音がスローリズムで響き、その音が響いてくる。
 ピーターは別に気にもせず、運動の時間は終わったので、誰かが、特別室に連れて行かれるのだろうと思った。
 それが、自分と気付いたのは、二人の看守が鉄格子の前に止まり、鍵を開ける音が響いた時だ。
 ピーターは、首だけをそちらに向け、興味なさそうに看守の二人を見る。
 一人は毎度お馴染みの、ハウアー看守だ。
 筋肉質で、見た目どおりの強さを誇る、看守で、自分じゃ太刀打ち出来ない親父である。
 そしてもう一人は、初めて見る顔であった。
 長身でスマートな男で、面長の顔に、丸い人懐っこそうな、それでいて隙の無い眼光を放ち、口元は不敵さとニヤついた笑みを同時に浮かべ、大きな鼻が特徴だ。
 その男が、その不敵な笑みのまま、
 「ピーター・ブルースだな」
 「何か用か?ルームサービスは頼んじゃいないぜ」
 背中を向けながら、投遣りな口調で語るピーターに、ハウアーはムッとするが、鼻の大きい男、ギリアムは、両肩を小刻みに揺らし、
 「宿替えだ。エコノミールームから、スイートルームに移ってもらう」
 ふざけた答えに、ふざけた返答をしてきた男に、思わず振り向きながら、そのギリアムを見る。
 「スイートルーム?ホットドックでも間食にだしてくれるのか?」
 ハウアーが前に出てくると、面倒くさそうにピーターは立ち、両手を前に出す。
 するとハウアーは手錠をかけながら、彼を引っ張り出す。
 「付いてこい」
 前をギリアムが歩き、背中にハウアーが歩き、二人に挟まれながら手錠をかけられた両手首を後頭部にまわし、くつろぎながら歩くピーターに、うんざりしながらも注意しないハウアーである。
 どんなに注意しても殴っても、態度は決して改めない。
 「うっせぇ!俺を自由に扱えるのは俺だけだ!文句があるなら殺しやがれ!」
 いくら殴られても、血まみれになっても、捨て身の啖呵を吐き、絶対に自分を曲げない少年に、ハウアーはあきらめている。
 背中を向けて歩きながら、ギリアムは、
 「ピーター・ブルース。……その喧嘩達者で、強くて気の強さから、名前をもじって、ピット・ブル(米国の俗語で、『喧嘩屋』の意味)と呼ばれている」
 「ストリート・ネームさ。強い奴ほど、通り名が付くんだ」
 「だったら、俺にもあるぞ」
 ギリアムが楽しそうに言う。
 「なんだ、デカ鼻か?それともニヤケ顔か?」
 「いや、『女ったらし』さ」
 その背中を向けたまま、このふざけた会話に、思わずピーターは言葉を詰まらせる。
 ハウアーは苦笑し、ギリアムは振り向く。
 「さて、着いたぞ」
 廊下を歩き、外の鉄格子に囲まれた通路を歩き、隣の白い壁の建物内に入り、ピーターはただ、鼻で笑っている。
 「臭せぇ!なんだ、この匂いは?」
 確かに臭い。建物全体から臭ってくる。
 建物内に入ると、入った鉄格子の扉を閉めて、鍵をかけ、ハウアーはピーターの手錠を外してやる。
 ピーターは手錠を外された後、手錠をかけられていた手首を自分でさすり、建物内を見渡す。
 ガラス張りの部屋がある。
 そこでは、受刑者の少年達が、数人それぞれの場所で、机の上に犬を置いて、ヘアドライヤーをかけ、シャンプーをしてやっている。
 最初は何気なく見ていたピーターだが、あまりにも少年院からかけ離れた光景に唖然として、両目と口を丸くした。
 「……な、なんだ?」
 そうか、臭いのは犬の匂い!
 ピーターはそう気付いたとき、建物の中庭が見える廊下まで連れてこられた。
 その中庭には、受刑者の少年達が、それぞれ一匹ずつ犬の面倒を見て、躾や、教育、フリスビーなどで犬と遊んでいる受刑者もいた。
 「なんだ、ここは?!」
 ピーターは思わず叫んだ。
 「ここが、これからのお前の社会復帰の場所だ」
 「……ふざけんな!ここはブリーダー養成施設か?!」
 思わず、手が自由になっているので、ギリアムに掴みかかった。
 が、次の瞬間、ピーターの身体は横転し、うつ伏せに倒れ、腕の関節はギリアムに決められ、動けなくなってしまう。
 いきなりの出来事に痛みをこらえながら、逃れられずに苦痛の声を漏らすピーターに、
 「やあ、ピット・ブル。言っておくがな、俺は合気道の有段者(ブラック・ベルト)だ。腕をへし折るぐらい簡単だぜ」
 関節を更に決められ、悲鳴を上げて床を二回叩くピーター。
 「イテェ!逆らわないからやめてくれ!」
 すると、ギリアムは簡単に関節技を外し、ピーターの首根っこを掴み、起き上がらせる。
 「さあ、来い。もうすぐお前のスイートルームだ。ルームサービスはないがね」
 ぶつぶつ文句を言いながらも付いていき、南に向いた窓が並ぶ部屋に通されるピーター。
 今までの部屋よりは、清潔で、トイレは違う部屋になっていた。
 「へえ、結構広いじゃないか」
 ピーターは鉄格子の扉が開くと進んで入り、机もある部屋の椅子に座り、くつろぐ。
 その時だ。一人の看守がやってきて、ギリアムの胸に、『何か』を渡した。
 ギリアムは受け取り、『何か』を抱きながら、部屋に入ってくる。
 「ピート、(注;ピーターの愛称) お前の同居人だ」
 そう言って胸に抱いた『何か』を見せると、ピーターは唖然とした。 そして、ゆっくりと凛々しい顔をゆがめ、怒鳴った。
 「冗談じゃねぇ!なんで俺が犬と暮らさなくちゃ、いけないんだ!」
 そう、『何か』とは、犬であった。
 見たところ、コーギー犬の子犬であるが、雑種らしい。
 ギリアムはニヤついた笑みを浮かべながら、あつかましくピットの両腕に渡す。
 ピーターは、慣れない手つきで、でも、戸惑いながらも、その子犬を抱き上げてから、自分の足元に置く。
 「説明しろ!これはなんだ?!」
 「いやな、保健所で殺される寸前の犬を我々が受け取り、この哀れな犬達を助けようとするのが、目的だ」
 「説明になってねぇ!だからなんで俺が犬と同居するんだ?!」
 再び胸座を掴みにかかろうとしたが、先ほどの関節技の激痛を思い出し、出かけた手を強引に下に下ろして叫ぶ。
 「うむ、お前ら受刑者なら、人件費が無料だ。安上がりだ」
 「……な、……」
 「しっかり面倒みろよ。二週間後までにしっかり教育出来たら、里親に出せ、一般家庭のペットになれる。失敗したら、保健所に戻って、処分され、ミンチになって、動物の餌の材料にされてしまうわけだ。狂牛病の元が出回る結果となる」
 「……」
 状況が飲み込めず、頭が混乱している少年は、唖然とする以外何物でもない。
 足元で、つぶらな瞳のコーギーの子犬が、あどけない瞳で、ピーターを見上げている。
 「ま、がんばれや。子犬の躾や教育の方法はその机の上にあるだろう?そう、その本だ。それとシャワーや洗濯は先ほどの部屋。一日に二回は中庭で散歩させること。餌は毎朝支給しに来るからな。じゃあ、がんばれ」
 言うだけ言って、ギリアムはニヤついた無邪気な笑顔で手を振り、この独房の鉄格子の扉が閉まり、鍵がかけられた。
 そのままギリアムとハウアーが去った後、ピーターは徐々に状況が飲み込め、ついには鉄パイプの椅子を持ち上げ、鉄格子に思いっきり叩きつけ、激しい金属音を響かせた。

 

 「なめんじゃねぇ!」
 その音と絶叫を聞きながらハウアーは苦笑している。
 「青いな、あの小僧」
 「まあ、楽しみだ」
 ギリアムも楽しそうに笑い、一度看守部屋に戻ることにした。

 残されたピーターは、ベッドに腰掛け、不機嫌そうに唾を床に吐いた。
 部屋の片隅で、先ほどの椅子を投げつけた行為に驚き、怯えた子犬が震えている。
 (……畜生、……何だって言うんだ、この少年院は!?)
 しばらく、何も言えず、銅像のように固まり動かなくなっているピーターだが、床に目線を落としていると、その狭い視界に、子犬が恐る恐る入ってきた。
 悲しそうな泣き声を放ち、つぶらな瞳がピートを見ている。
 「なんだよ、ふざけるな!」
 最初は無視しようと、ベッドに横になり、犬を視界から消した。
 だが、子犬はさらに哀しそうに鳴き続け、ピーターを呼ぶ。
 「うるせぇ!静かにしねえと、本当に蹴飛ばすぞ!」
 一度は怒鳴ったが、ふとギリアムの言葉を思い出した。
 「……捨てられた子犬たちだ」
 その言葉を思い出すと、ふとピーターは何かを思い出したように、再びベッドに座り、脚の間に子犬を置き、その子犬を見つめる。
 「……捨てられたのか?」
 答えるはずはないのだが、犬は首をかしげ、哀しそうに鳴き続ける。
 「……へ、捨て犬と捨て子かよ。変な同居生活だな、ドちび」
 その時であった。部屋にアンモニアの臭いが漂う。
 子犬が座ったまま、小さな身体を震わせて床に、用を足してしまったのだ。
 それに気付いたピーターは唖然として、
 「躾のなってねえ犬だな、畜生!」
 「雑巾なら、洗面台の下だ。臭い消しもそこにある」
 扉から声がした。戻ってきたギリアムが顔をのぞかせている。
 「てめぇ!躾のなってねえ犬を置いていくんじゃねえよ、ニヤケ顔!」
 「躾をするのはお前だよ、ピート」
 「何で俺がしなくちゃいけねぇんだよ、ああぁん!?」
 「しなくてもいい。しなかったらその子犬は保健所に連れ戻され、ミンチにされて殺されるまでだ」
 「知った事か!このハナクソが!」

 まったく、どいつもこいつも勝手過ぎる!
 ピーターはそう思いながらも、雑巾で用を足した場所を拭き、臭い消しのスプレーを吹きかけ、雑巾と手を洗いながら、つぶやく。
 その横で、コーギーの雑種と思われる子犬がピーターをつぶらな瞳で見ている。
 「てめぇ!次はそこの犬用のトイレのトレイがあるからそこでしろよ!」
 そう叫んだが、二時間後に今度は大便を部屋にされ、床にこびりついたのに、頭を悩ませるピーター。
 一度、子犬を蹴飛ばし、子犬は悲鳴を上げてベッドの下に逃げ込む。
 「くっそう、……くっそう!」
 ピーターはイライラしながらも再び床掃除を始めた。
 「おい、クソ垂れが!ベッドの下でするなよ!」
 怒鳴りながらも、ふと机の上にある犬の本に目が止まった。
 『犬の上手な躾方法』、『子犬の育て方』
 そう書かれた本が二冊ある。
 「……、ったく、本なんて滅多に読まねぇのによ!」
 モップを床に叩きつけながらも、片付け、机に向かい合い、その本を読み出した。

 その夜、再び恋人のマンションで夕食を迎えるギリアム。
 グレースは、ギリシア系に相応しい白身魚のソテーを主体にした料理を用意していた。
 「なあ、グレース。俺と結婚する気あるか?」
 ギリアムはあっさりと言うと、グレースは、ギリアムに白ワインを注いでやりながら、
 「ううん、シャリーがね」
 「妹なら心配するな。俺はお前の全てに惚れたんだ。妹の面倒も見てやるよ。一緒に暮らしたっていいぜ」
 グレースには、八歳も年下の妹がいる。
 今年の九月から大学に入る。 (米国では九月が新学期)
 「私の稼ぎで充分学費は稼げるけど、一緒に暮らしてもって……」
 「明日帰ってくるんだな、友達との旅行から」
 医師の免許を取った年に、グレースは両親を交通事故で失い、今まで残った家族の妹のシャリーを一人で育ててきた。残された唯一の家族に、また八つも年も離れていれば、妹も可愛いもので、自分で一生懸命育てる気にもなった。
 「惚れた弱みだ。とことん俺に甘えろ、しがないアイルランド系かも知らないが、俺も家族を犯罪に巻き込まれ失った。……だから、一人でも家族が増えるのは嬉しいさ。……君の為にも、シャリーの為にも、……そして俺の為にも」
 フォークとナイフを一度テーブルに置き、その理知的な美貌の女医は、優しい微笑をギリアムに向けた。
 「……分かったわ、貴方の為にも……。惚れた弱みね」
 二人は、静かに苦笑しあい、静かに白ワインの入ったグラスで乾杯した。
 その夜は、明日妹が帰ってくるために、ギリアムは自分のマンションへと戻っていった。 多少、ほろ酔い気分で、車はグレースに預け、タクシーを拾いマンションへ。 
 (さて、ピートの奴は、苦戦しているだろうな)
 想像しながらニヤけた笑みを浮かべた。

 ギリアムのマンションに、サンフランシスコの強い日差しが差し込む。
 酔いは無くなり、一気に覚醒させ、シャワーを浴びてから制服に着替え、東の窓から外を見る。
 紺碧の海。青天の空。スモッグの多いと思われるサンフランシスコも、郊外に出れば、一人暮らしの質素な男の部屋も気持ちよい場所になる。
 「今まで貯めた貯金下ろして、この辺で家を買うか」
 無邪気さとニヤけた笑みを融合させながらギリアムは呟いた。
 稼ぎははるかにグレースの方が良いだろうが、俺の稼ぎが加わってもシャリーを大学にやる学費の足しにはなるだろう。
 彼は必要以外何もない自分の部屋から外に出て、自転車に乗り、グレースのマンションに向かった。
 一〇分程で、郊外の自分の安マンションより数倍良いグレースのマンションにつくと、そこに、旅行カバンを持った、高校生くらいの少女がマンションに入るところであった。
 ギリアムは笑い、自転車を止め、彼女より早くマンションの前に出て、自動ドアを開けてやった。
 その少女は、ギリアムに気付き、純粋な笑顔を浮かべる。
 「オレイリーさん」
 「やあ、シャリー。今、帰ってきたところかい?」
 セミロングの柔らかくてボリュームのあるダーク・グリーンの髪が朝の日差しに絡まり、宝石の様に輝いており、純粋な柔らかい笑顔を浮かべている。
 本名、シャロン・シェイファー。
 姉と二人で暮らしており、ギリアムが姉の恋人であることは充分知っている。
 「はい、昨日は友達の家で泊めてもらいました。夜も遅かったから」
 「それが良い、サンフランシスコはダーティハリーがいるといえども、治安は悪いからな」
 彼にしては珍しく下手な冗談を飛ばしながらも、シャリーは暖かい笑顔を浮かべて笑っている。
 「お姉さんに悪いような気がします。遊びに行くのにお金を出してもらって」
 「そんなことはない。グレースだって、君に高校時代の楽しい思い出を残してやりかったのだ。唯一残った家族に楽しい思い出を作って欲しかったのだ。喜んで金を出してくれたはずさ」
 申し訳なさそうな顔をしていたシャリーは首をかしげ、頷く。
 「……でも、姉さんにはお礼を言います」
 「当然だ、さあ、行こう」
 シャリーの肩に手を回し、彼女の荷物を持ってやりギリアムは彼女と自分の恋人の部屋を目指した。

 子犬の哀しい声でピーターは目覚めた。
 哀しそうな、何かを訴えているような力なき声。
 ピーターはさすがにうんざりしながら起きると、ひとつだけほっとした。
 昨日の昼に読んだ本の中でトイレの覚えさせ方が功をなし、犬用のトイレの中に糞がしてあった。
 ベッドの下で、コーギー犬の雑種は、小さな体から大きな頭と短くて太い四肢を弱々しく動かし、ピーターを見つめている。
 その時、牢の搬入窓から、看守が犬の餌と水を持ってきた。
 「ピーター・ブルース。水を与えてから、外へ出たまえ。まずは君の朝食からだ」
 言われるまま水を与えると餌はまだだと言われ、点呼のサイレンが鳴り、ピーターは外に出る。
 同じ牢から同じ受刑者の少年達が出てきて、看守から名前を呼ばれると返事をして、全員整列して食堂へ向かう。
 全員が大食堂の中で、野菜サラダ、ポリッジ(豆のお粥見たいな食べ物)、タラのソテーが盛られたトレイを渡され、全員がテーブルについてから食事を取る。
 意外なことにここの少年院は食事中の雑談は許可されているらしくそれぞれがしゃべっているのにピーターは驚いた。
 すると目の前に座っていた少年が、ピーターを見て、
 「お前、ピット・ブルか?」
 そう言われると前に座っている少年を見ると、違和感があるものの、ある人物を思い出した。
 「エディ?……エディ・フレッチングか?」
 エディなら、もっと険しい鋭い眼光をしている筈だ!俺が捕まる数ヶ月前に強盗を働き、店員三人を殴り、重症を負わせてしまった、ブチ切れ少年。
 だが、今のエディの目は温和になっている。
 「やあ、ピット。ようこそ。お前はどんな犬を受け持っている?」
 「受け持つ?」
 「俺は四匹目だ。最初に育てたパットから、ディクシー、ゲインの三匹も今は引き取られてね、引き取ってくれた家の人から自分の育てた犬の現在の様子を送ってくれるんだ」
 楽しそうに語るエディにピーターは唖然とする。
 俺の知っているエディなら、こんな話はしない。暴力、喧嘩、セックス、マリファナ、ヤバイ仕事が殆どだ。
 だが、ピーターの周囲の少年達もエディに話をあわせてくる。
 「でもよ、自分の育てた犬が、他所に引き取られるとき、哀しいよな」
 「全くだ。俺も最初に育てたドンキーを引き取ってくれた家から、今の幸せそうなドンキーの写真を見ると、泣けてくるよ」
 「分かる!やっぱ、最初の一匹は特別だよな」
 少年達が笑う中、ピーターは呆然としている。本当にここは少年院なのか?
 「ピット。最初の内は夜鳴きも多いけど、無視しろよ。人間の都合を教えなくては駄目だから、夜鳴きして淋しそうに鳴いても、人間主体だと教えるために、無視だ。そうしたら人間のほうが優先だと犬は思い込むからな」
 「それと頭を撫でる時は、上からじゃなく、犬の下から手をやれよ」
 ピーターが初めてだと知ると、周囲の人間が、子犬のしつけ方や、今までの体験談を語りだしてきた。
 それを唖然と聞きながらも、ピーターは何度も心の中で、同じ言葉を呟いていた。
 (本当に少年院か、ここは)

 ギリアムは愛車で恋人のグレースを彼女の働く病院に送っていき、そこから向かう予定であった。
 「まあ、子犬を?」
 グレースは興味深そうに聞いている。
 「ああ、大体、少年犯罪者って言う種族は、家庭の愛情薄い者達だ。誰にも愛されずに育てられて、愛情表現の苦手な連中なんだ」
 ギリアムが助手席に座る恋人に説明する。すでにスーツと白衣をまとい、知性と理性を硬質な美貌ににじませる美女が微笑んでいる。
 「だから、愛情を教えるのではく、子犬達を世話させるんだ。自分達より愛情薄く、殺される運命だけの子犬達をね」
 「なるほど、愛情を受け取れなかった子供達に、愛情を教えるのではなく、愛情を芽生えさせると言う訳ね」
 「そうだ、自分達より力がなく、弱く、世間から見捨てられた殺される以外の運命のない子犬達を使って、ね」
 恋人に向き、ウインクしながらギリアムは言う。
 「そういえば、シャリーは犬を飼いたがってなかったか?」
 それを聞くとグレースは苦笑し、
 「いいわね。私も犬が好きだしね」
 「俺も好きな方さ、家族は多い方が良い」
 ギリアムがそういうと、グレースは真面目な顔で、
 「私達はまだ幸せね、愛情を与える、愛情を与えてくれる家族がいるのだから」
 「ああ、罪深い子供達だが、社会復帰のチャンスをやらないとな」
 「外に出したいわけね」
 「そうだ、若者には太陽が必要だからさ。薄暗い独房に閉じこもっているよりも、サンフランシスコの紺碧の海、青天の狭間で生きているほうが、精神的にも健康になる」
 それからゆっくりと彼女の勤める病院の前に停止し、彼女を降ろしてやる。
 「今夜は宿直だから、会えそうにも無い」
 ニヤけた笑顔で言うと、グレースも微笑し、
 「お仕事がんばってね。暇なときでも良いから、妹に電話してやってね」
 「惚れた弱みさ、してやるよ」
 無邪気さとニヤけた笑みを見事に融合させた笑みで答えるギリアムに、
 「惚れた弱みよ、信用しているわ」
 二人はそれぞれの笑みを浮かべ、軽く唇を重ねて、ギリアムは車を走らせた。

 ピーターはうんざりしながらも、子犬を連れて少年院の中庭に散歩に出た。
 この少年院には比較的受刑者の少年達に自由が許されているが、それは子犬の世話と言う条件が付いている。
 中庭には既に数人の受刑者達が、それぞれの世話をしている子犬を連れて散歩している。
 その中にエディがいて、ピーターに話しかけた。
 エディの犬は、尻尾を振りながらピーターの犬にじゃれ付き、ピーターの犬は怯えながらピーターの背後に隠れる。
 「やあ、ピット。それがお前の犬かい?名前は?」
 「名前?」
 「まだ付けてないのか?早くつけてやれ」
 エディの犬がじゃれ付いてくるもので、ピーターはコーギーの雑種を抱き上げようとすると、
 「ピット、子犬のうちは、他の犬と接触させた方が良いぞ。そうやって、犬は社会を覚え、人間社会にもルールがあると覚えこむんだ」
 その台詞に、ピーターは思わず冷笑する。
 「ハンっ、社会のゴミタメが集まる少年院で、社会ルール?笑わせるな」
 すると、エディは、溜息をつきながら、
 「ピット。俺達は子犬を助けて、社会に戻すんだ。そして俺達も社会に戻らないと」
 「どうやって?俺達クズが、社会に戻る?いや、外の世界が俺達を受け入れてくれるのか?笑わせるな」
 するとエディは笑い、指先をピーターの脚に向ける。
 ピーターは目線を足元に落とすと、ピーターの子犬が、すっかりエディの子犬とじゃれあって遊んでいるではないか。
 思わず、声を失うピーターに、エディは、
 「この犬とも、……ルーとも三日後にお別れだ。こいつもある家に養われる事になった」
 「……」
 「みろよ、こんなに仲良くして、俺達も子犬に負けないように、がんばらないとな」
 そう言って、ルーを連れて彼は中庭から去っていく。それをピーターは不思議そうに見送る。
 (……冗談じゃねえ。エディはあんなこと言う奴じゃなかったぜ)
 コーギーの雑種が顔をピーターの方に向け、じっとしていた。
 (名前か……)

 そうだな、名前くらいつけてやるか。

 そう思いながら、この子犬に尻尾が無いのに気付いた。
 コーギーの血が強いのだろう。
 「尻尾が無い(ノー・テイル)か。……ノッティで良いか」
 この場でノッティと名前が決まった子犬はピーターを見ている。

 自分の牢に戻ると、ピーターはノッティに躾の練習をした。
 他にすることも無いので、それと気分が紛れるのもあったのだろう。
 実際、二〇〇四年のカナダで、大量無差別殺人を行おうとした男が、人の集まる公園に大量の武器を積み込んだ車でやってきた。
 武器を持って公園で乱射しようと行動しかけた時に、一匹の犬がやってきて彼になつき、男が頭を撫でているうちに、自分のこれから行う恐るべき行為に気付き、そしてこんな自分にもなついてくれる犬がいる街で、俺は恐ろしいことを仕掛けたと気付き、そのまま警察に行き、自首したという実話がある。
 その男と同じように、ピーターの殺伐とした心が少し、癒されてきたのかも知れない。
 犬と言うのは全く不思議なほど、人間になつき、人間を癒してくれる。
 『お手』『伏せ』『待て』などの基本的な事を教えているうちに、他にも教えようという気になり、吠えない様に躾したりするトレーニングも開始した。
 ノッティは賢い犬らしく、ピーターの言う事を、しっかりと覚え、なついていく。
 手間取ったのは、シャワーであった。
 ノッティは水が嫌いだったらしく、最初は嫌がり、抵抗し、時には噛み付いたりもしたが、それでも、ピーターは我慢しながらも毛を洗い、どうやったらシャワー好きになるかも他の囚人達から聞きながらやっていく。
 すると他の囚人達も、手や腕に、無数の噛まれた傷、引っ掻かれた傷が残っているのにピーターは気付くと彼らは笑いあった。
 「お前も仲間入りだ。さあ、しっかりやろうぜ」
 周囲で笑いが起こった。
 とにかく、ピーターはノッティを真剣に躾を行うことを知らぬ間に決意した。
 それは、親からも見捨てられた少年が、この犬に自分と同じ境遇を見たのかも知れない。
 (生まれてきた事自体が悪いのかよ!誰がノッティを狂牛病の元にするものか!)
 少しずつやる気を出してきたピーターに、ギリアムは影から見守っていた。

 ノッティに噛まれた腕を自分で治療しながら、独房のベッドに腰掛けるピーター。
 その怪我を負わせた子犬は、傍でお腹をゆっくりとしたリズムで動かしながら眠っている。
 (……ったく、呑気なものだぜ、俺の腕噛みやがって)
 苦笑しながらも、ピーターは手馴れた手つきで自分の怪我を治療する。そのまま彼は一息つき、眠りについた。

 ……次の朝、ピーターは、くすぐったい感触に支配され目を覚ました。
 何時の間にかノッティがベッドの上に上がり、ピーターの顔を舐めていたのだ。
 動物にとって、舐めるというのは親愛の行為であり、ノッティは何時の間にかピーターに完全になついたようだ。
 今までの彼なら怒っただろうが、眠い目をこすりながら起きる。
 (そうか、もうそんな時間か)
 彼はこの少年院に入った囚人のジャージに着替え、朝食の準備を待つ。
 牢の前にギリアムが現れ、ノッティの水と食料を持ってきた。
 「よう、顔色が良いな。規則的な生活を送っているからかな?」
 「あんたは脂の抜けた顔しているぜ、女に可愛がられたか?」
 不敵な顔で生意気な口を叩くが、ギリアムは別に怒りもせずに、
 「元気そうだな、子犬は元気か?」
 そう言われると、ピーターはノッティの名前を呼ぶと、ノッティはピーターの横で座りながらギリアムの顔を見る。
 「おお、素晴らしい。最初にしてはよく調教しているではないか」
 小さな窓からノッティの食料と水を受け取り、水だけを与える。
 「ノッティと言う名前か……。このまま上手に育てたら、受け入れてくれる家が決まったぞ」
 その言葉に、ピーターは顔をしかめるが、
 「どこの家だ?」
 「医者の家だ。資産面は裕福だ」

 確かに、それが目的で俺達が無理やり育てられている。
 だが、ノッティとは確かに別れの時が来る。
 それは仕方ないが、この複雑な気持ちはなんだろう?
 ピーターは、自分でも分からないまま、ノッティの教育を続けた。
 育ててから一〇日目では、ボールを投げて咥えて持ってくる事も覚えた。
 食事の時間でも、食べ物を目の前に置いて、こちらが良いと言うまで食べるのを待つのも覚えてくれた。
 そして体を洗う事や、水に飛び込むことも覚え、すっかり『賢い犬』になったノッティだが、それがそれで、可愛く思えて仕方ないのだ。
 天涯孤独の身の少年に、ノッティは初めての家族、弟の様な存在に思えてきたのだ。また、ノッティもピーターになつき、ピーターの背中を追いかけるように突いてきて、彼の傍を離れない。他の犬とも仲良くし、唯一の欠点は、番犬には向かないと言う事だろう。
 「まあ、コーギーは番犬に、ならねえか」
 ピーターは苦笑しながらも、中庭でノッティを連れて散歩させているとき、新しい子犬を連れているエディと出会った。
 「エディ!ルーは?」
 「ああ、昨日、引き取られたよ。今日からこの犬だ」
 淋しそうに笑いながら言うエディ。
 「引き取られた?」
 ノッティと新しい子犬が、じゃれあって遊びだした。
 小さな体を重ねあいながらじゃれ付き合っている。
 「ああ、まあ、こんな少年院にいるより、普通の家庭にいる方が犬も幸せだ」
 笑っているが淋しそうだ。
 「もう、何匹もこうやって外に出したけど、……淋しいよな」
 泣いている。あの、凶暴なエディが泣いていた。
 「ま、ピット・ブル。お前ももうすぐノッティと別れるけど、辛いけど、仕方ない。こんな少年院で育つより、外で育ったほうが子犬にも幸せだ」
 「…別れ」
 「ああ、でも俺達は直ぐに新しい犬の世話に入る。今度のミーシャも、俺の寂しさを慰めてくれるよ」
 そう言って、ミーシャを抱き上げ、連れて行くエディを見て、ピーターは自分を純粋な眼差しで見つめるノッティを見た。
 (……こいつとは、後数日で別れなければならないのか)
 そう思うと、不思議な感情が自分を苦しめる。
 息が苦しく、体が重くなる。
 (何なのだ、この感覚は?)
 生まれて初めて感じる感覚に、ピーターは寂しく、心苦しい気分になった。
 何気なく両手を広げ、ノッティの前に出すと、ノッティはその腕に飛び込み、ピーターに抱き上げられる。
 ピーターは無言でノッティを抱き上げ、その頭を撫でてやった。
 そしてそのまま無言で自分の独房へ戻っていく。
 その背中を、同じ中庭でいる、子犬を育てている少年の囚人達が自分達の犬を散歩に連れていながら見ている。
 そして彼らは同じ事を思った。
 (……ああ、あの犬ももうすぐ外に出て、別れるんだな)
 多くの経験者は、それを同情している。
 この少年院には、同情、情愛、奇跡があった。

 そして、その日がやってきた。
 ピーターは、ノッティをシャワーで綺麗にして、ドライヤーで毛を乾かし、リラックスさせていくが、自分は何故か落ちつかない。
 (嫌だ)
 体をタオルで拭きながら気持ち良さそうにお腹を向けて甘えているノッティを見ると更に苦しくなる。
 (こいつは俺の弟だよ……嫌だよ、こいつと別れるなんて)
 だが、何度考えてみても、こんな少年院よりは、外で育つほうが良いに決まっている。
 ギリアムに聞けば、裕福な医者の家に育てられるらしい。
 それなら良いじゃないかとも思いながらも、ノッティの頭を撫でてやると、ノッティはピーターの腕を舐めてくる。
 最後の仕上げをすると、ギリアムが入ってきた。
 長身のスマートだが力強い動きでピーターの横に立つ。
 「さあ、行こうか」
 「ああ」
 簡単にはうなずいたが、心は別のところにあった。
 「おい、本当にノッティは良いところに行くんだろうな?」
 「悪いところとはどういう意味で?」
 「つまり、……俺の育ったような環境だ!親も知らなければ、家族もいねえ!学校も殆どいかねえし、くだらねえ意地の張り合いだけの世界だ」
 自分で此処まで言うとは、この子犬を育てるシステムも、たいした物だなと、ギリアムは思いながらも、このピーターの気持ちを理解した。
 「姉妹だけで暮らしている家庭だが、二人とも性格は良いぞ。愛情豊かな二人だ」
 「愛情……俺はそんなもの知らずに育った」
 「だが、ノッティに愛情を教えた。お前は知らないと思っていただけさ」
 「……」
 「お前は知っていたんだ。愛情を。その証拠がノッティだ」
 ギリアムがノッティを指差すと、ノッティはピーターの腕に甘えながらじゃれ付いている。
 「さあ、行こう。お前の愛情を受け取る家族に会いに行こう」
 そう言われると、ピーターは無言になり、顔を下に向けてノッティを抱き上げた。
 ギリアムが廊下を出て歩いていき、その後ろからノッティを抱き上げたピーターが付いていく。
 そして廊下の奥の扉までたどり着き、その扉を開けると、広い部屋が中にあった。
 開放的な部屋で、囚人と一般人が何の壁も牢も無く接触出来る部屋であり、ここで子犬の受け取りは行われる。
 部屋の中央に、大きなソファとテーブルがあり、そのソファに一人の少女が座っていた。
 少女はギリアムとピーターに気付くと立ち上がり、挨拶をした。
 周囲には数人の看守が立っている。
 「オレイリーさん」
 明るい素直な笑顔である。
 この笑顔だけで、この部屋は明るくなったような錯覚にピーターはおちいった。
 「やあ、シャリー。紹介しよう。彼がシャリーの犬を育ててくれたピーター・ブルースだ。ピートと呼んでやってくれ」
 綺麗な少女だ。
 セミロングの柔らかくてボリュームのあるダーク・グリーンの髪が窓からの日差しに絡まり、宝石の様に輝いており、純粋な柔らかい笑顔を浮かべている。
 純情可憐、純粋無垢と言う言葉が当てはまりそうな少女だ。
 ピーターは思わず自分の薄汚れた過去と存在に恥ずかしさを感じてしまった。
 「ピート、この娘が、お前の愛情を受け取る少女、シャロン・シェイファーだ」
 「あ。……」
 ピーターは声を失った。
 それほどシャリーの存在がまぶしかったのだ。
 それと自分との違い、まるで掃き溜めと、雪の様に純粋な存在。
 彼女は無垢そうな顔をしているが、それでも賢そうな眼差しが、特別な個性を放ち、生き生きとした美少女ぶりに、ピーターは圧倒された。
 「さあ、渡してやれ」
 その一言で、我に返り、その日が来たと確信し、心苦しいが、この少女なら、絶対にノッティを幸せにしてくれると思えた。
 ピーターはその腕から彼女の腕にノッティを渡す。
 (これが、ノッティと最後の……)
 そう思いながらも、寂しい笑顔だが、彼女の指が自分の腕に少し触れたときに、紅潮しながらも、渡してやる。
 ノッティは、シャリーの細い腕に抱かれると、すぐにシャリーの顔をなめて喜びだした。
 それにシャリーは喜び、ピーターもホッとした。
 「可愛い。ねえ、この犬、名前は何て言うのですか?」
 シャリーが眩しい笑顔で尋ねると、ピーターは、少し照れながら、
 「ノッティです」
 「ふうん、ノッティ。今日からよろしくね」
 ノッティは嬉しそうに甘えている。
 「……ノッティをよろしく」
 長くいたら、泣きそうだ。泣きたくない!男が他人に涙を見せられるか!
 そう心で思い、背中を向けたとき、寂しそうな声でノッティが泣いた。
 子犬特有の哀しそうな声で、ピーターを呼び止める。
 ピーターがいないと寂しいのだ。そしてこのピーターの態度や声に、ノッティは異常を感じたのだろう。ピーターを呼び止めるようにキュンキュン泣き続ける。
 それに、シャリーも気付き、ピーターを呼び止める。
 「あの、もう一度ノッティを抱きますか?」
 「いい!もう良いんだ!あんたがノッティを大事にしてくれたらそれで良い!」
 ピーターが叫んだが、不良少年の叫びではない。
 哀しく、寂しく、辛い叫び声であった。
 更にピーターが急いでこの部屋から出ようとすると、シャリーがまた声をかけた。
 「あの、ピーターさん?」
 「もう良いんだよ!」
 「いえ、その」
 シャリーは優しい無垢なる笑顔を浮かべた時、ピーターは振り向き、その顔を見た。
 何と聖性に満ちた、慈母と慈悲の聖女の笑顔だった。
 「ピーターさんが、罪を償い、出所した時、私の家に訪ねてきて下さい。その時ノッティは幸せに暮らしていることを約束しますし、何時でもノッティに会いに来てくださいね」
 ……おそらく生まれて初めてかけられる優しい言葉であった。
 ピーターは振り向き、泣いているノッティを、そしてシャリーをただ見つめていたが、その二人の顔が徐々にぼやけてきた。
 そして誰かの号泣が聞こえてきた。
 誰がこんなに泣いているんだ?そう思いながらも自分の視線が床に向いており、両腕が床に触れているのが自分で分かった。
 (泣いているのは……泣いているのは俺なのか)
 そう気付いた瞬間、自分の号泣が自分の心に響き渡った。
生まれて初めての、心の奥からの号泣であった。
 その時、シャリーがピーターの前に立った。
 優しい眼差しで見つめ。彼の肩に手をやる。
 「お願いですから、是非来てください」
 「ど、どうしてだ?…なんで俺なんかにそんなに優しく出来る?おれはこの少年院に入れられた悪党だぞ!」
 すると、シャリーは自分の好きな小説の、主人公の運命を変えた神父の台詞を思い出し、優しい声で語った。
 「百人の善人の笑顔より、一人の罪人の涙のほうが、尊いのよ」
 優しい笑顔で答えるシャリーを前に、ピーターは今まで人生の汚れを洗い流すかの様に号泣した。
 その嗚咽が部屋を響かせ、シャリーは優しくピーターの肩を抱きしめて、慰めてやった。

 泣くだけ泣いたピーターは独房に戻り、ノッティが居なくなった寂しさはあったものの、心は晴れやかだった。
 これがあの不良少年かと思えるほど、優しい眼差しに変わっている。
 その彼の元に、ギリアムが再び現れ、一匹の子犬を抱いていた。
 「さあ、次はこの犬だ。出所するまで何匹出せるかな?」
 「何匹でも。早く出てノッティに会いたいしね」
 ギリアムは笑い、ピーターも素直な笑顔を浮かべた。

 

《 エピローグ 》

 

 三年後のサンフランシスコ。
 紺碧の海と青天の空がサンフランシスコの郊外の街にすがすがしい風を運んでくる。
 ギリアム・オレイリーは、今日は非番であり、三年前に恋人のグレースと結婚し、豊かな自然の残るこの地に引っ越しし、庭付きの住宅が簡単な垣根で囲まれているだけの住宅街の自分の家の庭で袴姿に着替え、合気道の練習を行っていた。
 傍ではグレースが、幼い子供をあやしながら、大きくなっているお腹に長男の耳を当てさせて、妹かな、弟かなと言って楽しんでいる。
 青天の空からまぶしい太陽が輝き、初夏の匂いを漂わせている。
 その時であった。
 垣根を軽々と飛び越え、一人の若者が入ってきたのは。
 「シャリー!ノッティ!」
 若者は、凛々しい顔をした黒髪の青年で、跳躍感と言い、その動きと言い、素直で若々しさに満ちた顔は、青春美の結晶と言っても過言ではないほどの魅力を放っていた。
 そう、ピーター・ブルースであった。
 それに気付いたギリアムが苦笑し、
 「おい、ピート。不法侵入でまた少年院に戻りたいか?」
 「へへ、兄貴それは無いぜ。門は遠いんだよ」
 そう言うと、家の中から、大きくなったノッティが元気に飛び出してピーターに飛びついた。
 それをピーターは受け止め笑う。
 あの刑務所に居た頃の、暗くて刑務所内そのものの陰気な顔ではない。
 このサンフランシスコの青天の空と紺碧の海の狭間にある瑠璃色の風、そのもののさわやかな笑顔だ。
 ノッティの後に続いて、シャリーも現れた。
 「ピート!」
 元気に手を振る彼女に、ピーターは笑顔で答え、彼女を抱きしめ外に連れて行く。
 彼女はまだ大学生であり、これから大学へ向かう。
 そしてピーターは、出所後、少年院内で得た知識を利用し、ブリーダーとして働いていて、今では10匹以上の子犬の世話をしている。
 時に、ノッティを連れて、仕事へ行くこともあるのだ。
 若い二人が肩を寄せ合い、ノッティを連れてピーターの中古車に乗り、大学へ行ってから仕事へ向かうのが日課だ。
 それをグレースとギリアムが暖かく見守っている。
 「良いのか?元不良少年が大事な妹に手を出しているぞ」
 「大丈夫よ、ピートは彼方より誠実よ」
 若い夫婦は苦笑しあい、旦那が妻の横に立ち、長男のトーマスを抱き上げる。
 「家族が増えたわね。三年前はシャリーしか居なかったのに」
 「まあ、家族が増えることは良い事だ」
 「そうね、このままだと、ピートまで家族になりそうね」
 「ああ、まさか、ノッティみたいな子犬が、二人の仲をつむいだとはな」
 「もう、悪いことはしないでしょ、ピートは」
 「ああ、この前言っていたよ。俺がまた悪いことして、刑務所に入れられたら、今俺が面倒見ている子犬達はどうなるってね。……立派になったよ」
 二人の若夫婦は、ピーターの運転する中古車を見送りながら、その車が走る港町へと目をやる。

 

 青天の空。紺碧の海。
 その狭間から瑠璃色の風が吹き始めた。
 一人の若者が立ち直った時、瑠璃色の風が始まり、また新たな瑠璃色の風が吹く……

 

( 終 )