ミ セ ス ・ ミ ル フ ィ ー ユ 


うちのような売れないケーキ屋は、常連様に売り上げのほとんどを依存している。
駅前にあるわけでもなく、銀座に本店があるわけでもなく、大きなデコレーション・ケーキもやってない。
パティシエひとりでつくっているから、たくさんつくることもできない。

それでもそこそこやっていけるのは、やっぱり美味しいからなのかしら。
わたしはもう余ったケーキを食べることもないけれど、最初のころは夢中になった。
客が来なければ良いとさえ思った。
ショートケーキもブルーベリータルトも木苺のムースもレアチーズも魔法のように美味しかった。
当然ながら甘いものを食べ過ぎると肉体にある変化が起こるのだが、あまり思い出したくない。

話を戻そう。

今日の最初のお客様は午後3時を回ったころ、ひさしぶりのミルフィーユ夫人だった。

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ミルフィーユというよりは、見た目はモンブランだ。
大柄な躰、やや陽に灼けた肌。くりくりした瞳。

「いらっしゃいませ」

そんな思いはおくびにも出さず、私は営業スマイル。
週末、3時のおやつの頃。夫人はミルフィーユをひとつだけ買ってゆく。
ドアを開けて、いつものようにゆったりとした仕草で夫人は店に入ってきた。
先週は珍しく来なかったから、2週間ぶりだ。

「ミルフィーユをふたつ」
「あ、今日はふたつなんですね」
「ええ、今日で最後だから」
「え」

ショーケースへと伸ばした手が、止まった。

「今まで、ありがとう」
「い、いえ……」

思わず後ろを見るが、西村さんがいるはずもなく。
わたしはただのバイトだから、お礼を言われてもどうすれば良いものやら。
もちろん、嫌な気分にはならないけれど。
でも、ただのお礼とは、何か違った気がした。

「お見舞いの、品だったの」
「そう……ですか」

と、いうことは……。
いや、そうとは限らないか。
でも。

「母はミルフィーユが大好きでね」
「……はい」
「若いときに、父と初めてデートしたときに食べたから、なんだって」
「……」
「子供みたいでしょ?」

わたしはあいまいにうなずく。

「いろいろ食べたけれど、ここのミルフィーユが2番目に美味しい、って言ってたわ」
「そうですか……」
「だから、最後は私も一緒に食べようと思って、ね」

最後、という言葉が私の胸を押しつぶしそうになった。
わたしはミルフィーユ夫人を見る。
夫人は微笑んでいた。
わたしには絶対にできない笑いかただ。

「ごめんなさい、こんなこと喋っちゃって」
「いえ……」
「でも、誰かに聴いて欲しかったのかもしれないわね」

ミルフィーユ夫人の視線が、ふと遠くなる。
何を見ていたのか、わたしにはわからない。
わからないけれど、何かが読み取れる気が、した。
夫人はずっと、どんな気持ちでミルフィーユを買っていたのだろう。

病室。こちらに背を向けているミルフィーユ夫人。
ベッドに横たわり、微笑みながらミルフィーユを食べるおばあさん。

いや。
余計な想像は、しないほうがいい。

わたしは黙って、レジを打つ。

「798円でございます」

夫人はわたしに1000円札を渡す。

「202円のお返しです」

わたしは、どんな表情をしていたのだろう。
丁寧にミルフィーユを箱に入れている間、ふと、泣きたくなった。
らしくない、と自分で驚く。

「お気をつけて、お持ち帰りください」
「ありがとう」

外に出るとき、夫人はもう一度、丁寧に頭を下げた。
慌ててそれに倣うわたし。
頭をもとの位置に戻したとき、もうミルフィーユ夫人の姿はなかった。

ため息。

ヘンな気持ちを押し付けられたみたいで、なんだかやるせない。
今のわたし、たぶん、悲惨な顔してる。

「西村さん、1個もらうよ」

つぶやくように言ってから、わたしはショーケースを開け、手づかみでミルフィーユを取り出す。
一応、入り口からは死角となっている位置に移動して、そして、そのまま、かぶりつく。
行儀が悪いのはわかっていたけれど、なんだか、どうしようもなかった。
薄いパイ生地が、本当に1000枚重なっているかのような繊細な歯ごたえ。
鼻腔のなかを、香ばしさとクリームの優しい匂いがメリーゴーラウンドのように踊りまわる。
そして口のなかは、とろけそうな幸せで満ち溢れる。

ひさしぶりに食べたけれど、やっぱり美味しい。
これで笑えるようになっただろうか?

食べ終えたあと、目をとじて、頬に手をあてる。

うん、もう大丈夫。
わたしだって、今どきの若者。
執着しないお年頃だもんね。
今日はひさしぶりに、余ったケーキでも食べようかしら。

ドアの開く音がして、次のお客様が入ってきた。